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価値を規定するためには強さが必要だ

「自分の作った〇〇はもっと評価されていいはずだ」

「僕の仕事は今の年収以上のものなのだから、次の人事考課で給与のアップを持ちかけよう」

多くの場合、人生を生きる上で、「価値規定」について考えることを避けて通ることはできない。大方の人間にとって価値規定の重要性は、生活の豊かさに紐づけて考えられることが多いだろう。資本主義経済の国家においては、社会のセーフティネットに助けを借りることなく命の灯を燃やし続けるためには、自らの生み出した価値自らの享受する価値を上回り続ける必要がある。だからこそ、みんながみんな価値のことを気にする。

地方都市で生まれ育った人間が社会人となり、大手広告会社に勤めたことで、地方にいては感じることのできない社会の大きなうねりの一部になった感覚を持つことになった。

良しとも悪しとも判断のつかぬ大きなうねりに飲み込まれないよう、必死で働きながら、社会の一部を構成する小さな小さなパーツになる。そういう感覚だった。年次が上がって「役職」や「裁量」と呼ばれる席をあてがわれると、この感覚はもう少し能動的なものになるのだろう。

その席欲しさに、椅子取りゲームで音楽に合わせて歩調を変えるように、周囲を観察しながら身の振り方を慎重に選ぶ人たち。不意に音楽が鳴り止んだ時、席から遥か彼方にいた人たちの顔。狙った席に着くことができて安堵の表情を浮かべる人たち。そして音楽はまた鳴り出す。

どうせ働くなら社会を能動的に動かす仕事をしたい、と叩いた会社の門をくぐると、受動的な椅子取りゲームに勤しむ社員たちが文字通り身を粉にしながら働いていた。そんな悲壮感のある人たちばかりでなく、エネルギッシュで高い能力を活かして能動的に、まさに社会を動かす仕事をしている人たちもいるが、構造としてはやはりそういう椅子取りゲームのようなものになっていたことについては否定できないように思う。

資本主義経済において、「価値」という言葉はかなり多くのシチュエーションにおいて「お金」と言い換えることができる。そして、この刷り込まれた認識が、多くの人間が資本主義という構造に飲み込まれる根本的な要因になっているのではないだろうか。

「価値」を「お金」と混同するのが不幸の原因になっているように思えてならない。「お金」を稼ぐことが「価値」を生み出しているとこととイコールであると誤解するから、自分では「価値」を感じていない(が、「お金」を稼ぎやすい)物事に労力を割き、その不釣り合いに頭を悩ませることになる。これは本当にためになっているのだろうか?と。

最近少し時間ができたので、ヴィトール・E・フランクルの『夜と霧』を読み返してみた。初めて読んだのは確か大学生のころだったか、半紙のような向こうの景色が透けて見えるようなぺらぺらな人格しか形成できていなかった僕は、「まったくもって、名著と呼ばれるものはどうしてこんなに退屈なのか」という感想しか持たなかった。

そのころから10年弱が経った今も、まぁコピー用紙くらいの厚みにしかなっていないのだけど、読み返してみると頭を悩ませていることにすぅっと沁み入ってくる感覚があった。

最後の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

 そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

 おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容者を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

ヴィトール・E・フランクル『夜と霧』

引用と呼ぶには長すぎるものであるが、2ページにわたる生の価値(あるいは苦しみや死の意味)についての整理を読んでハッとさせられると共に、もやもやと頭を覆っていた霧が晴れた。

あらゆる物事の「価値」というのは、それぞれの人間がそれぞれに規定するものであり、他人が規定するものではないのだ。

資本主義経済下において、しばしば目にする「生み出した価値があなたたちの給料になるのだ」という主張は誤りである。

給料(お金)というのは、需要を満たしたことの見返りでしかない。それは「価値」と≒であるが、=ではない。資本主義経済下において、価値の帰結が需要であり、需要の対価がお金なのだ。そして、需要というものはあらゆる外的な要因に左右されるものであり、フランクルの言葉を借りると"偶然の僥倖"であったりするわけだ。

【(個人の規定する)価値→需要→お金】であり、【価値=お金】ではない。

なので、今お金を稼げる仕事が価値のある仕事ということでもないし、お金を稼げない仕事が価値が低いということでもない。一般に言われることではあるが、本来の意味で理解するには自分の中で結構な数の問答を重ねる必要があるのではないだろうか。少なくとも僕はこれを理解するのに、働いてお金を得ることを開始してから10年を要した。

この言葉に出会ったことで、自分の信じる「価値ある何か」を生み出すために命を燃やしたいと思うとともに、それを続けるために需要を満たし、お金を稼ぐことの意味について整理がついた。さらにいうと、自分が真に価値あるもので需要を生み出し、そこに経済合理性を成立させる。そういうビジネスデザイナーになろうと思うことができた。

ここの整理をなるべく若いうちにつけておくことは、キャリアを作る上でも、事業をする上でもとても大切なことのように思う。整理がついていれば、価値を生み出すためにやっているのか、お金を得るためにやっているのか、はたまた真の意味でのその両立を目指しているのか、これについて考えることができる。

つまらないと投げ捨てた本も自分の捉えようが変われば大きく変わるのだということもわかった。

何よりも、ありがとうフランクル。

#エンジンがかかった瞬間

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