テクノリバタリアンらと「国家権力以外からの自由」について【完全無料】
FIREという言葉をある機会で改めて見つめなおして、現代の自由について考えていた。
近現代国家の少なくとも先進諸国では、「国家権力からの自由」がある程度確立し、「自己実現への自由」も確保されたはずであった。
だが、国家はその実、後者の自由については法的に保証するのみで、更には「国家権力以外からの自由」については、その保証すらまともな形では与えてこなかった。
21世紀に入って、テクノリバタリアンないしサイバーリバタリアンと呼ばれる層が米国テックをリードするようになったが、この動きと、FIREは実はパラレルで、この第三の自由、国家権力以外 - 例えば、経済力 - からの自由を実現する動きなのではなかろうか?
唐突にそんなことを思いついたので、今回は「国家権力以外からの自由」と、その主導者の問題について考えてみる。
「以外」の中身
国家権力以外からの自由と言われて、ぱっと思い浮かぶのは、例えば以下である。
経済力
恋愛および婚姻制度
肉体、あるいは生物学
物理法則
知財権(特にこれを特権と見立てる場合)
自らの精神、特にその理性「以前」の部分
依存性のある嗜好品など
テクノリバタリアンにせよ、FIREをする人にせよ、現代の最先端の少なくとも一部は、こうした国家権力以外からの自由の希求にあるのではなかろうか?
「以外」への解決策
実際のところ、テクノリバタリアンなどは、「以外」に対して、何らかの方法で他社から独立することでソリューションを提示しているように思う。
経済力の場合
FIREもそうだが、仮想通貨/暗号通貨もまた、国家の貨幣からの自由を追い求めているという点では無視できない存在だろう。
職業から、あるいは国家の貨幣からの独立によって、経済的に自立しようとするムーブメントを見ることができる。
OpenAIのCEOであるサムアルトマンが中心となっているWorldcoinなどは、まさに象徴的であろう。
恋愛および婚姻制度の場合
私自身の人工彼女は、技術による自由の探求路線の一つといえよう。
魅力的な人工彼女を技術の力で作り出すことによって、生身の人間に対する恋愛からの自由を獲得する。分かりやすい構図である。
政治的には、LGBTQ+などのマイノリティによる解放運動が関連性を持ってくる。
それ自体では、特に政治的要求になってくると、「国家からの自由」という古典的側面が目立ってくる。
が、サルトルとボーヴォワールの契約結婚のように、国家制度にとらわれず自分たちで取り決めてパートナーシップを結ぶ限りにおいては、「国家権力以外からの自由」の模索の試みの一つとしての一面も持っているのが、プライドなどのマイノリティの運動の大きな特徴だと思う。
肉体、あるいは生物学の場合
肉体や生物学からの自由を求めるテックムーブメントは、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクスに遡る、テクノリバタリアンにとってももはや古典的な領域である。
人工の臓器を使って臓器不全からの自由を求め、マインドアップロードによって脳からさえ自由に生き延びようとしたり、冷凍睡眠の類を研究して、寿命を超えようと試みたり、遺伝子工学の力で理想的な子供をデザインしたり。
古典だけに、全てが十分に実現しているわけでもないが、少なくともSFには頻出してきた領域でもある。
ちなみに、私自身の「人工の子供」も、生物学的遺伝子からの自由を求める試みとして解釈するなら、このムーブメントの一部と言えるだろう。
物理法則の場合
クラークの第三法則を反転させて、実際に物理法則をハックして、魔法を具現化しようとする試みなどはそれに該当する。
あるいは、SFのようにワームホールを用いて光年単位の距離を一瞬で移動するこころみなども、このジャンルに近いかもしれない。
思い返せば、今ではシステム生成などという堅苦しいビジネス向けのフレーズが先走っている元木大介氏のZoltraakも、最終的に目指しているものは本来魔法の具現化だった。
その多くは、今はまだビジョン中心だが、AIとロボティクスの発展によって、具現化まで一気に近づいていると思う。
知財権の場合
知的財産の独占的ないし排他的利用を長期間保証する知財権は、言ってしまえば特権の一種である。
その知財を作った本人の「努力の成果」論を持ち出すとしても、死後の継承される権利については、継承した人は作っていないのだから、特権と認識する範囲の程度の差こそあるかもしれないが、特権的側面があるのは論を待たないだろう。
そしてこれは、「巨人の肩の上に立つ」科学やテックコミュニティの価値観とは基本的に対立するものである。
そこでテクノリバタリアンにとって、オープンソースやコピーレフト、更にはライセンスの考え方などを通じて、知財権からの自由を相互的に認める動きが出てくるのは、ある意味自然なことだった。
ここで、知財権としたのは、著作権周りに加えて、一部のライセンスでは特許権にまでメスを入れていることに注意されたいからである。
ライセンスをテンプレートとモジュールに分けて、自由に構成しやすくしたMISAライセンスフレームワークも、基本的にはこの系譜にあるといえる。
また、いわゆるAIの学習用データの問題も、この領域での国家権力以外からの自由を求めるムーブメントの一環だといえる。
明示的に知財権を制限し、技術者側のデータ活用に自由を認めた著作権法30条の4は、そういう意味ではテクノリバタリアン的な権利章典の一部を構成してもよい、「国家権力以外からの自由」の探求の成果と言える。
ちなみに、かくいう私自身、データセットを積極的に提供しているので、「データを提供してもいない人間が偉そうに」系のロジックは成立しないことは、念のため付記しておきたい。
最近も、11,000枚の日本国内各地の文化や生活、自然風景などを収めたデータセットをhugging faceに上げたばかりである。
理性「以前」の精神の場合
古来より哲学者は理性を重視し、非合理的な感性の影響に惑わされない人生を説いてきたが、その動きは現代のテクノリバタリアンにも影響していると思う。
この領域では、医学療法もあるにはあるが、テクノリバタリアンが探求してきたのは、健康な人のための方法である。
例えばスマートドラッグの類を使って理性をスピードアップしようとしたり、マインドフルネスを導入して、いらない感性を手放す訓練をしたり。
もしかすると、将来的には、ニューラリンクなどの開発しているBCIと結合して、直接脳に作用して制御する時代もやってくるかもしれない。
ただ、まだまだ脳科学や神経科学自体が発展途上であることが、現時点では最大のネックであり、テクノリバタリアンといえども、完全な自由を得られるのはまだしばらくかかりそうな領域でもある。
依存性のある嗜好品など
酒、たばこ、ドラッグなどの化学物質や、ゲーム、ネットなどのサービスなど、依存性のある嗜好品の類もまた、何もしないと「からの自由」を失いかねないリスクがあるものである。
しかし、テクノリバタリアンに限らず、これらから自由になるムーブメントもまた確実に発生している。
酒を依存症でなくとも断つ人、機械喫煙へ移行し、常習をやめた人、デジタルデトックスによって電子機器から距離をとる人など、様々な形でみることができる。
テック界隈の場合は、特に子供については最初から与えない、という逆側の選択をして、「からの自由」があることに意識を向けさせる試みも見ることができる。
有名な逸話としてジョブズが自分の子供にアップル製品を与えなかった話がある。
今後の予想:何から独立したい?何から自由になりたい?
軽く振り返ってきたが、テクノリバタリアンは、多くの領域で「国家権力からの自由」を推進し、テックが直接関係しない領域であっても様々な方法を模索してきた。
そのすべてではないにしろ、多くは、他人を介在させないことによる「独立」という側面を持っている。
その手段はしばしば技術であるが、技術に限らず、他者の代わりとなる何かを自前で持ち、その「何か」に代替させることは、独立戦争などよりも賢明な選択となるだろう。
そうした「からの自由」を支援する動きは、AIとロボティクスにより、今後さらに加速するだろう。
そして、「からの自由」が広がれば広がるほど、再び問題になるのは「への自由」である。
もしかすると、目的を達成するためには、「からの自由」の一部をあえて選ばない、という戦略も必要になるかもしれない。
だからこそ、問いかける必要がある。
あなたは、何から独立したいか?何から自由になりたいか?
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