それぞれの日常があって

大雨が降って、何をするにもどう動くにも憂鬱がつきものな午後だった。
午前中のバイトでは、これが噂の低気圧のせいの頭痛?と疑うほど頭が痛くなったが、いつの間にかその頭痛は去っていたから何のことはなかった。

天候の不良も体調の不良も、なんでもないただの日常だ。
27年生きてきてこんなことなんて幾度もあった。
それでもなぜか毎回新鮮に憂鬱になってしまうのだから不思議である。
でも逆に考えてみると、"不定期に、何かに左右されて憂鬱になること"自体がなんでもないただの日常の一部なのだろうから、一つひとつの出来事に気分を落とすことさえも「当たり前だ」と思ってもいいのかもしれない。
そうすれば少しは気楽に生きることができるのだろうか。

いますごく良いこと思い付いたなぁと我ながら思うけど、人間はどうしたって忘れていく生き物だから、きっとこんなふとした思い付きは一ヶ月もしたら忘却の彼方にいってしまうんだろうと思う。
もしこの記事を自分で見返すときがきたら「あぁそんなこと考えてたっけ」と思い起こす、そのくらい些末な思い付きだ。

僕の日常と言えば、朝早くに起きてバイトに行き、少しだけ昼寝をして、午後は喫茶店に籠ってネタを作るかライブに出るか、そんなものである。
その間に音楽を楽しんだり、猫と戯れたり、幸せなひと時というものは存在する。
不満がないことはないけれど、現状を考えると求めすぎるのも酷な話だから、概ね幸せなんだろうと僕は思う。
でもこれは紛れもなく僕だけの日常であって、全く同じく生活している人なんてもちろんいない。

僕以外の日常ってどんなだろうと気になってしまうことが僕にはあって、でもそれは同じバイト先の人でも相方でも好きな子でもなかったりする。
なぜだろうか、"よく顔を合わせる知らない人"の日常が気になってしまうのだ。

行きつけの喫茶店の、僕と同じような常連の人たちはどんな日常を送ってるのだろう、今なにを思ってコーヒーを飲んでいるのだろう。
そんなことを僕はコーヒーをすすりながら考えてしまう。

スーツに身を包んで、昼間から店のWi-Fiを使ってノートパソコンに専用コントローラーを繋げてオンラインゲームに明け暮れている少し禿げたおじさんは結婚しているのか何の仕事をしているのかどんな声で誰と話すのか。

ポツリポツリと点在するように座っている大学生のアフィリエイターのみんなはどんな音楽を聴きながらその記事を書いているのかどんな誘い文句でその道に進んだのか好きな人はいるのか夜は何を食べるのか。

ときどき勉強をしにやって来る少しウブな感じの高校生の志望校はどこなのかどの科目が得意なのか好きな人はいるのか、学校での愚痴なんかも聞いてみたい。

彼らが僕の顔をどれだけ認識しているかは分からないけれど、僕たちは週に何日かの何時間かは同じ空間に隣り合わせていて、僕たちの日常は少なからずそこで交差している。
それがそれぞれの日常に何か影響を与えているかと言えば全くと言っていいほどそれはないのだけれど、少しだけ不思議な気分になるのだ。

顔しか知らない、でも確実に顔は知っていて、しかもそれは他所で出くわしたときにもピンと来るほどで、だけどやっぱりそれ以外の情報は一切ない真っ赤とも言い切れるくらいの赤の他人。
勇気を出して話し掛けてみても僕が期待するような答えが返ってくる確率のほうが低いだろうし、そのために支払う労力を考えると全く話し掛ける気は起きない、それくらいにしか気になっていないそんな彼らの日常。

でも気になっていることは確かで、どうして気になるのかは僕にもよく分からない。とにかく分からない。
この記事を見てくれているあなたが僕のこの感覚に共感してくれるかも分からない。
でもそのくらい言い得ることのできない奇妙なものなのだ、この感覚は。

もしかしたら彼らの日常を覗くことで創作の種になるかもという期待感が僕の中にあるのかもしれないし、単純な野次馬根性なのかもしれない。

この感覚に名前をつける必要はないし、名付けたら少しだけ物寂しくなってしまいそうだからこれ以上考えることはしないでおこうと思う。
何にでもタグをつけて分かりやすくすることは人生をちょっとだけつまらなくする行為かもしれないから。




と、そんな元も子もないことを言ってしまったら今日のオチがなくなってしまった。


いま向かいにいる常連さんが、僕と同じように"顔しか知らないよく見る他人"が何を考えているか気になる人であれば、教えてあげよう。
目の前にいるメガネをかけたよく見かける青年は、誰かの毒にも薬にもならないたかが知れた記事のオチに悩んでいるのだよ、と。

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