老紳士との思い出
今日はちょっぴり切ないことがあった。
1か月半ほど前、クラシックの演奏会が大阪のフェスティバルホールで行われて、僕はある老紳士と出会った。
見出しのイラストのように、ハットをかぶって上品なステッキを手にした方だった。
コンサートの休憩時間、ホールの物販で僕はCDを眺めていた。
隣でその日の演目が収録されたCDを探している老人がいて、
「これは、今日の曲かな・・・。」と独り言のように呟いていたので、
「いえ、これは今日の曲ではないですよ。このCDはシベリウスのヴァイオリンコンチェルトです。今日の曲が入ったCDは置いていないようですが、シベリウスも素晴らしいですよ。」と僕が答えた。
お節介だったかもしれないが、彼はとても喜んだ様子で
「お兄さん、詳しいね!ありがとう。」と満面の笑みを返してくれた。
僕は少し気恥ずかしくなってしまって「いえいえ、そんなことないです。」とだけ言って軽く会釈をしてその場を去った。
コンサートが終わってホールの外に出て一人歩いていると、僕の前をさっきの彼が歩いていた。多くの聴衆がいるなかで、帰りにばったり遭遇したので僕は声をかけた。
「さきほど、CD売り場でお会いした方ですね。」と言うと
彼はまた満面の笑みで「ああ!さっきのお兄さん!本当に音楽に詳しいんだね。」と言ってくれた。
それから少し話しているうちに、互いにヴァイオリンが好きなことがわかって、ハイフェッツやメニューインそしてパールマンなど名だたるヴァイオリンの名手の話に花が咲いた。
勘違いかもしれないが、彼は僕のことを気に入ってくれたようで、「またお会いしたいですね。」と互いに話し合った。せっかくのご縁なので、僕の名前をお伝えして、彼の電話番号を教えていただいた。
驚いたことに、彼は別れ際に僕に精いっぱいの握手をしてくれた。
僕が「お気をつけて!」と言うと、彼はまたしても満面の笑みで、大きく僕に手を振ってくれた。
それから数日後の休日に、僕は彼にご挨拶の電話をかけたがつながらなかった。その後も何度かかけてみたが、つながらなかった。
そして、あのコンサートから一か月半が経った今日、ふと彼のことを思い出して、日曜日ということもあって、半ばあきらめながら電話をかけてみた。
つながった。
「あ!よかった!」
僕は心の中で純粋にそう思った。
電話番号に間違いはなく、奥様がお電話に出られた。
残念ながら彼はいま旅行中のようで、ご不在だった。
奥様に「9月のフェスティバルホールのコンサートで偶然お会いしたにも関わらず、ご主人にとても親切に音楽のお話を色々としてくださいまして、ご主人はお元気にされておりますでしょうか。あの時、私のお電話番号をお伝えしていなかったので、いまお伝えしてよろしいでしょうか。」
と言うと
「いえ、けっこうです。見ず知らずの方ですので。」
「ええ、そうですね…ご無理を言って申し訳ありません。では、またこちらからお電話させていただいてもよろしいでしょうか。」
「いえ、それも見ず知らずの方ですので、けっこうです。」
こんなご時世に当然の対応と言えるかもしれない。
僕が若い声の男だから、詐欺の電話だと思ったのかもしれない。
無理もない対応だと思う。
でもちょっと、切なかった。ちょっと、悲しかった。
その感情は奥様に対してというよりも、この世に対してのもののように思う。
電話の最後には「せめてご主人に、あの時は本当にありがとうございましたとお伝えいただけますでしょうか。」と言うのが精いっぱいで、あとは互いに「失礼します。」の一言で電話を終えた。
あの上品で優しく、あったかい手をした老紳士とはもう二度と話すことはないのだろうか。もう一度だけでも、音楽の話を楽しそうにするお声を聞きたかったなと思う。
袖振り合うも他生の縁
この諺が好きな僕にとってはほんのり悲しくなってしまった日曜日だった。
どうか、またどこかのコンサートホールでお会いできることを祈っています…。
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