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【ペケロッパ・カルト】 序



 晴れ間を覗かせる早朝のネオサイタマ東部、オールド・カメ・ストリート。そのメインストリートは、ストリートの中央に公園を兼ねた幅広の緑地帯を備えた、ネオサイタマの典型的なマーケットストリートである。緑地帯を挟んで南北に伸びる細い二本の舗装路に新鮮な食材をメインとした露店が並び、多くの買い物客が行き交う。舗装路に面した店舗のいくつかは軽食堂で、通勤通学途中にそこで朝食を済ませる者も多い。

 緑地帯には朝の散歩をする者やベンチに腰掛け会話する老人たち。ストリートの中ほどにある門をくぐりブッダテンプルに礼拝する多くの地元住民。ストリート南端に近い緑地帯の芝生の上で、オレンジ色の髪をツインオダンゴにまとめアオザイを着た娘を中心とした、タイ・チー(訳註: 太極拳)のカタを鍛錬する10名余のサラリマンやオーエル(原註: 女性サラリマン)の集団。それを見守るカンフー胴着姿の小柄な老いた男。日はまだ低く、大きな菩提樹が芝生に淡い陰影を落とす。

 ネオサイタマに長く住む者によれば、あの約10年前の大異変−−日本を鎖国状態に陥らせていた磁気嵐が晴れ、やがて月を砕き大地を裂く天変地異がネオサイタマを襲い、遂には国家崩壊に至った危難の時期−−以後、年々、晴れの日が増えているのだという。ネオサイタマに絶えず重金属酸性雨をもたらしていた汚染雲から重金属類を資源として回収する技術をどこかのメガコーポが開発し大気マイニングをしているのだと、まことしやかに噂されている……

 ……菩提樹の木陰でタイ・チーの鍛錬を行う者らの中心にいる娘は、その名をコトブキという。一見何の変哲もない人間だが、実は、マッポーカリプスの世のネオサイタマにあっても稀な「ウキヨ」、すなわち自我を持ったオイランドロイドである。彼女が人間社会で暮らすようになってからまだ数ヶ月。何を見ても物珍しく、晴れた日には決まって、ねぐらとしている場末のピザ屋を出発してあちらこちらを散歩し、しばしば地下鉄等で遠出もする。そして、2週間ほど前に、遠出をしてこの有名な朝市を訪れた際、一人タイ・チーのカタを行う老人に出会った。

 カンフー胴着姿の老人が朝のタイ・チーを行う光景は、コトブキが愛好する旧世紀映画で見た光景そのものだった。感激したコトブキはその場で老人に弟子入りを申し込んだ。老人は何も答えず目を細めてほほ笑むだけだったが、コトブキはそれを入門許可と解釈し、老人を自らの師父と定めた。

 以来コトブキは、晴れた朝には必ず師父とともにタイ・チーを行っている。彼女の電子のニューロンとマシンのボディをもってすれば、タイ・チーのカタを師父そっくりになぞることは容易である。それでもなお、タイ・チーの優雅な重心移動がもたらすフィードバックは、日々異なる朝の空気と相まって、いつも彼女に新鮮な感触をもたらした。

 オールド・カメ・ストリートの南端は東西方向に走る片側三車線のカンパチの大通りに接しており、大通りの歩道を行きかう者の目には、コトブキと師父が鍛錬を行う様はあたかもストリートの南入口となる大トリイを第四の壁とした舞台上での演舞のように映る。こうして、タイ・チーを修行するアオザイ姿の美しい娘は、たちまち通勤サラリマンたちの評判となった。数日もすると、一人また一人と、通勤途中に朝の体操を兼ねてタイ・チーの鍛錬に加わるサラリマンやオーエルが現れた。今では、コトブキは10数名の弟弟子を率いる師範代といったところだ。

 やがてタイ・チーのカタが終わり、サラリマンたちは再び通勤の途に就くが、コトブキにはまだ師父とともに残って行う修行がある。この頃、コトブキは、個人的な事情から自らの戦闘力を高める必要を感じていた。だが師父は、カタに含まれる動作のほかにはパンチやキックといった攻撃ムーブをコトブキに示すことはない。コトブキは、自らのニューロンで考え、カタから実戦のテクニックを導き出さねばならぬ。そして、その工夫の成果を師父の前で示すのだ。

 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように、首を巡らせて大トリイの向こうに広がる光景を眺め、深呼吸した。カンパチの大通りのこちら側の歩道も大通りを挟んだ向かいの歩道も、通勤通学途中の多くの市民が行きかう。大通りから数ブロック南の、近年開発された高台にあるダンチ(原註: 日本特有の社宅コンドミニアム密集区域)が見える。ありふれた平穏な市民生活の光景がコトブキを和ませる。自然と口元に笑みが浮かぶ。

 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力して体にかかる重力を意識する。左拳を腰の位置で固める。そして、重心移動とともに幹めがけてショートパンチを繰り出した。

 ズン

 体重の乗った突きが太い幹を揺らす。コトブキは師父に向かって振り返る。師父がいつものように無言のまま目を細めてほほ笑んでいるのを見た瞬間、カンパチの大通りからドスンという衝突音が聞こえた。

 コトブキは反射的に衝突音の方向を見た。大通りの向こう側の車線、東から走ってきたトラックが一人の男を撥ね飛ばしたところだった(原註: 日本の車道は左側通行である)。不幸な被害者は宙を舞いながら絶叫した。

「ペケロッパ!」

 そして、交差点角に立つビルの陰となってコトブキの視界から消えた。コトブキの顔が悲しみに曇る。「ペケロッパ」としか喋らないあの奇妙な人たちが不幸な事故の犠牲になるのを見るのは、コトブキが人間社会で暮らすようになってから数えて、これでもう3度目だ。

 「ペケロッパ・カルト」という変わった宗教の信者だというあの人たちは、何を生き急いでいるのか、頻繁に酷く不注意な行動をとって事故の犠牲となる。そして、国家権力なき、メガコーポとヤクザが支配するこのネオサイタマでは、企業の庇護もヤクザクランの庇護も受けないあの哀れな人たちの死を悼む者などなく、企業やヤクザクランに被害を及ぼさない事故で加害者が罪に問われることもない。その事実がますますコトブキの心を暗くした。現に、大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ……

 と思った矢先、コトブキは、大通りの向こうの歩道に見覚えのある制服姿の少女がいるのに気づいた。確か、いつもこの時間帯に大通りの向こうの歩道を大慌てで駆けていく少女だ。その少女が、交差点の近くの歩道にへたり込み、呆然と被害者が撥ね飛ばされた方向を見つめている。

 やがて、少女は、助けを求めるかのようにあたりに視線を漂わせる。少女と目が合う。




ニンジャスレイヤー第四部「エイジ・オブ・マッポーカリプス」

シーズン1 第8.5話 【ペケロッパ・カルト】






 その10分前。

 オールド・カメ・ストリートから数ブロック南のサクラガハイツ・ダンチ。無機質な直方体のコンドミニアムが整然と並ぶさまはプロジェクトめいているが、清潔さと治安は段違いだ。立ち並ぶ相似形の建物のひとつ、3号棟の8階に並ぶ玄関スチールドアの一つがばたりと開き、力強い「イッテキマス」のシャウトとともに制服姿の少女が飛び出した。トーストを咥えながら共用エレベータに向かって駆け出したところで、室内から母親らしき声。

「ヒロコ! ベントー忘れてるわよ!」

 ヒロコと呼ばれた少女はすぐさま自宅に駆け戻る。数秒後、再びスチールドアをばたりと開いて、小ぶりのフロシキ包みをPVC通学鞄にねじ込みながら飛び出す。広く額をさらすショートカットの黒髪に、日本の教育制度の伝統に則った水兵服と膝頭が丸出しのスカート。そのバストは到底豊満とは言い難い。

 エレベータで一階に降り3号棟のエントランスを飛び出したヒロコは、そのままトーストを齧りつつダンチの敷地内を走る。歩道に至るあたりでトーストの残りを無理やり口に詰め込む。緩やかな下り坂となる歩道を進むと、その先は高台から市街地に降りる、3つの踊り場を備えた幅広のコンクリート階段だ。だがヒロコはスピードを落とそうともせず階段に突入する。

 ヒロコは3段飛ばしで第一の踊り場に到達し、4段飛ばしで第二の踊り場に、5段飛ばしで第三の踊り場に到達して、なおも第三の踊り場で加速する……まさか残りの階段は大跳躍によりすべて飛ばすつもりか? その試みは危険だ! なぜなら次のカットでは、純粋に演出上の理由で、階段を降り切った地点に地面すれすれの高さでカメラが設置されているからだ! その邪心なきアオりのアングルを前にして跳べるのか!?

 それでもなおヒロコは……跳んだ! カメラは超高速度撮影で天を仰ぐ! そのカメラのはるか上空をヒロコが飛翔! カメラレンズは空中のヒロコをクローズアップ! だが一部見えぬ! 空中で折り曲げた膝の角度が絶妙! 脚部が一部被写体を遮っている!……そしてカメラを跳び越したヒロコは軽やかに前転着地し、その勢いのまま再び駆け出す……たった今、超スロー再生で丹念に検証したが、1フレームたりとも写っていない。ナムサ……いや、 ゴウランガ!

 ヒロコは横断歩道を渡り、北に向かって歩道を駆ける。

「チコク、チコク……」

 日本人のパンクチュアルさを賞賛するチャントが無意識に口から洩れる。多くの通勤サラリマンたちとすれ違い、あるいは追い越す。不思議と歩道の中央が空いているのは、ヒロコの毎朝の疾走がここを通る通勤サラリマンたちにとってお馴染みの光景となっているからだ。ヒロコのあずかり知らぬことだが、疾走する少女の姿を、勤務先に向かう憂鬱な道のりの中のささやかな心の慰めとする者も多い。

 数ブロックを直進し、やがてヒロコは北に向かう道路がカンパチの大通りと交わる交差点に近づく。そこにあるコンビニの角を右に曲がって数十メートル進めば通学バスの停留所だ。ここで華麗な90度ターンを決めるのがヒロコの密かなこだわりである。

 そしてこの日もヒロコは全速力でコンビニの角に到達し……東方向から来た、テクノギャングの小グループに追われ必死に逃走中だった男と激突した。

「グワーッ!」

 ヒロコは激突の衝撃に悲鳴を上げた。そして、斜め方向に弾き飛ばされ信号機のポールにぶち当たり、更なる悲鳴を上げて歩道上に崩れ落ちた。

「グワーッ!」

 ヒロコは苦悶しつつも強いて目を開き、衝突相手に謝ろうとした。

「ゴメンナ……」

 衝突相手を見て、言いかけた言葉が止まる。衝突相手は歩道からはみ出してカンパチ大通りの車道上にへたりこんでいた。ソーマト・リコールめいて時間の流れが鈍化する。「量子が憎い」とプリントされたTシャツを着、ゴテゴテとパーツを増設した奇怪なサイバーサングラスをかけた貧相な男。サイバーサングラス越しでも、その男がヒロコを呆然と見つめていることが分かった。自分をこの運命に陥れた者を。

 その男がよろよろと立ち上がろうとした次の瞬間、東から来たトラックが男を撥ね飛ばした。男は宙を舞いながら絶叫した。

「ペケロッパ!」

 そして、西隣のブロックの歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。被害者を追いかけていたテクノギャングたちがすぐさま西隣へのブロックへと横断歩道を渡って被害者に駆け寄り、スカベンジャーめいて被害者のボディを路地裏に持ち去った。

 その時、遅れてきた一人のテクノギャングが、へたり込んだままのヒロコを興味深げに見たが、ヒロコの水兵服の胸部に刺繍されたスゴイテック社の企業ロゴに気付き、すぐさま略奪の対象とすることを諦めた。メガコーポの庇護を受ける学校の生徒に手出ししようものなら、企業警備員から凄惨な報復を受けるのは確実である。

 ヒロコは茫然自失し、あたりを見回す。だが、通行人の誰一人としてヒロコを助けようとも咎めようともしない。多様な性のありかたが許容されるここネオサイタマでは、制服姿の少女に不用意に近付こうものなら、老若男女問わず誰であれスケベ犯罪者予備軍の烙印を押されかねないのだ。

 ヒロコは生まれて初めての、自分でも説明できない違和感のような何かを感じた。ほとんど助けを求めるかのように周囲の人々を見る。カンパチの大通りの向こう側、オールド・カメ・ストリートの入り口近くにいる女の人に気づく。最近見かけるようになった、チャイニーズドレスみたいな恰好でカンフーか何かの修行をする、変わった、綺麗な人。その人と目が合う。


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 同日午後3時。スゴイテック社立ネオサイタマ第一高校。時計台を備えたコンクリート4階建ての校舎の3階、2年B組では、この日最後のカリキュラムである「愛社精神」の授業中だ。

「……このように、旧時代における法治国家というものの実態とは、誰の利益も代弁しない、市場におけるプレーヤーとしての意識を全く欠く官僚組織による権力の独占であった。法の制定と適用をこのような国家権力が独占した結果、旧時代においては、企業テロによる殺人も、志ある市民による自発的ホームレス排除も等しく刑法犯として処罰の対象となるという不条理が当然のこととされていた。その上、国家が徴税と富の再分配について明確な経営ビジョンを持たぬことから、貧富の差は拡大! 教育費の捻出のために貧困層が未成年マイコ産業に従事することすら横行! 労働力の搾取を奨励する労働法制が企業を支配! 市民の経済活動の低下と景気の悪化をもたらす悪循環の装置として、法治国家は機能していたのである!……」

 スキンヘッドの鬼軍曹めいた教官が、教科書を朗読しながら、サイバー学習机が整然と並ぶ教室内を歩く。生徒たちは無言で各々の学習机のモニタに表示された教科書テキストを黙読する。江戸時代の寺子屋に範をとった日本特有の効率的学習システムである。教官のバリトンボイスが教室内を緊張で満たす。

「……かような不条理をことごとく駆逐したのが、企業による統治である。各企業が、各々の従業員と将来の従業員たるその子弟を、人的リソースの最大化を目的として処遇することは経営判断上当然であり、その結果もたらされたベネフィットは多岐にわたる。従業員たちが医療等の社会保障の面で経済格差により不利益を被ることは皆無となった。従業員にはその出世レベルに応じた適切な社宅が提供され、従業員の子弟に施される教育は、各人の潜在能力を最大限に伸ばし人的リソースを最大化することのみを唯一の目的とした合理的システムに改善された。旧時代における、偏差値による生徒のマッピングといった無意味かつ不効率な制度は全く滅びたのである……」

 教官は教室を一巡し、教室前方のUNIX教卓前に戻った。そして教室内を睥睨し、やおら一人の生徒を指名した。

「ヤクシマ・タマヨ=サン!」

「ハイ!」

 ヒロコの隣の席のタマヨが起立した。ヒロコを含め、タマヨ以外の生徒全員が安堵のため息を洩らす。ヒロコは軽い罪悪感をおぼえながら親友のタマヨを見守った。教官が問う。

「答えろ。この企業統治の時代において、法の支配に代わる秩序の根本原理とは何か」

「ハイ! 市場原理です!」

「デカシタ」

 教官はその答えを是とした。ヒロコは再び安堵した。教官は生徒たちに教えを垂れた。

「市場原理こそはミエザル・テの真理を具現化し秩序をもたらす根源である。市場原理の下、企業が顧客のみならず従業員とそ家族に与える利益は単なる恩恵ではなく、対等な関係にある企業と市民を律する秩序の当然の帰結となるのだ。市民による行為の是非は、したがって、市場原理と企業倫理に照らして企業経済活動に害悪を加えるものであるか否かにより判断される。ここにこそ、貴様らがミエザル・テを体現する所属企業に忠誠を誓うべき根本的な理由がある……」

 果たしてそうだろうか。教官の説明を聞きながらも、今朝感じた違和感が再びヒロコを襲う。教官の説明は複雑だが、少なくともどこにも間違いがないように思う。それでも、なぜ疑問に思うのか自分で説明できない疑問が湧いてくるのをヒロコは抑えられない。

 その時、教官は、教室の窓際列最後尾の席で物思いに沈むヒロコに気づいた。

「貴様! イヤーッ!」

 教官は教導シャウトとともに教卓のUNIXチョーク発射筒のボタンを押した。チョーク発射筒から射出された白チョークがヒロコの広い額に命中! ブルズアイ! ヒロコは思わず悲鳴を上げた。

「グワッ」

 他の生徒はヒロコから目を背けるかのように教科書モニタに目を落としている。隣のタマヨだけがヒロコに心配そうな目線を向けた。教官はヒロコに命じた。

「立て。何を考えていた」

「あたし、その……教官のお話について考えていました……」

「答えになっておらんな。具体的に言え」

「……」

 言ってもいいのだろうか。自分が、持ってはならない疑問を抱いていることが薄々感じられる。教官はヒロコの答えを求めたまま沈黙する。プレッシャーに結局負ける。

「あたしは、つまり……所属する企業やほかの企業に迷惑をかけないことでも、悪いことしたときには、罰が必要なときもあるんじゃないかな、と思って……」

 言ってしまった。今度はクラスの全員がヒロコに目を向けた。教官はしばしの沈黙ののち、重々しく宣告した。

「貴様の発言は、社内倫理規定2条3項所定の『愛社精神の欠如』に該当する」

「……」

 ヒロコの足が恐怖で震えだした。タマヨは泣きそうな表情でヒロコを見上げている。

「だが、貴様はまだ若い。直ちに発言を撤回しろ。自らの過ちを自覚しているのなら、貴様の発言は聞かなかったことにしてやる」

 タマヨが胸をなでおろすのがわかった。だがヒロコは何かが自分を押しとどめるのを感じる。

「……」

 タマヨが訝しむ目線をヒロコに向ける。ヒロコは自分でも分からない。なぜ教官の言うとおりにしない? 教官の声が一層厳しくなる。

「どうした?」

 ヒロコは分かりかけてきた。自分の疑問は持ってはならないものだ。だが、疑問を持った自分を否定するのは、きっと、自分の中にある大切な何かを殺すことだ。それだけはしてはいけないと直感した。ならば、どうする。

「教官!」

 いきなりヒロコは決断的に挙手した。教官は不意を突かれ、思わず再度ヒロコに聞いた。

「どうした?」

「あたし、トイレに行きます!」

 教室内は唖然とした生徒が半数、クスクス笑う生徒がもう半数。教官の返事を待たずにヒロコは教室を飛び出した。

 ヒロコは廊下を駆けた。トイレに行くというのは当然嘘だ。ヒロコは決意していた。要するに、疑問の原因をなくせばいい。そのために、自分の力を使う。この力を使っても必ずしも良いことにはならないことは、母親に言われなくても判っている。だが今回は、何より他人のために力を使うのだし、格別自分が何をするわけでもない。大丈夫なはずだ。

 廊下の端の階段まで来る。ヒロコは今朝の大跳躍の光景を頭に思い浮かべ、念じる。そして、下り階段の途中の踊り場に向かって跳躍した。


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 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように、首を巡らせて大トリイの向こうに広がる光景を眺め、深呼吸した。

 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力して体にかかる重力を意識する。左拳を腰の位置で固める。そして重心移動とともに幹めがけてショートパンチを繰り出そうとしたところで、カンパチの大通りからドスンという衝突音が聞こえた。

 コトブキは反射的に衝突音の方向を見た。横断歩道を渡ろうとしていた男を、西から走ってきてドリフトせんばかりの勢いで交差点を右折したトラックが撥ね飛ばしたところだった。不幸な被害者は宙を舞いながら絶叫した。

 「ペケロッパ!」

 そして被害者は、大通りを挟んだ向かいのブロックの角にあるコンビニの外壁に叩きつけられ、歩道に落下し、ピクリとも動かなくなった。大通りのこちら側でもあちら側でも、歩道を歩む市民の誰一人としてたった今起こった事故に関心を見せず、みな通勤通学を急ぐばかりだ……

 と思った矢先、コトブキは、大通りの向こうの歩道に見覚えのある制服姿の少女がいるのに気づいた。こちらに背を向けているが、髪形や背格好からすると、確か、いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女のはずだ。その少女が、コンビニの近くで棒立ちになり、被害者が落下した方向を向いている。

 すぐさま、テクノギャングかスカベンジャーらしき小グループが被害者の遺体を路地裏に運び去る。棒立ちのままの少女は、やがて振り返り、戸惑いの表情であたりに視線を漂わせる。少女と目が合う。


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 菩提樹の前に立ち、コトブキはいつものように、首を巡らせて大トリイの向こうに広がる光景を眺め、深呼吸した。

 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力し左拳を腰の位置で固めたところで、大通りの向こうでちょっとした騒ぎが起きているのに気づいた。いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女が、交差点角のコンビニの近くでいきなり通行人の貧相な男の襟首を捕まえたのだ。その男が渡ろうとしていた横断歩道を、ドリフトせんばかりの勢いで右折トラックが通過していった。

 あの少女は一人の命を救ったのだとコトブキが感激したのもつかの間、今度はテクノギャングの一団が少女と男を取り囲んだ。どうやらテクノギャングは追い剝ぎか何かの目的であの男を追っていたらしい。だが、少女は両手を広げて仁王立ちになり、貧相な男を背中にかくまっている。

 ハラハラしながらコトブキが見守る中、少女は一歩も引く様子を見せない。何たる義と勇の心。やがてテクノギャングたちは、諦めた様子ですごすごと退散していった。

 コトブキは、このサツバツたるネオサイタマの街で正義がなされた光景に心を熱くした。明日、もし明日が雨なら次の晴れた朝、必ずあの少女に会いに行ってトモダチになろうと即座に決意した。心地よいカタルシスに突き動かされ、無意識のうちに軽く左拳で傍らの菩提樹の幹を突く。

 パン

 コトブキは不思議な感触に戸惑い、自らの左拳を見つめた。まるで水面を突いたような手ごたえの無さ。突きが命中した点を中心にさざ波が広がり、菩提樹の幹を、枝を、葉をサラサラと揺らす。さざ波のような振動は同じく地を伝ってコトブキの足を震わせ、アオザイの裾を浮き上がらせて胴を伝い、頭部に達した。ツインオダンゴにまとめていた髪がほどけてふわりと肩に落ちた。

 戸惑いが残ったまま、ふと大通りの向こうを見ると、命を救われた男が少女にペコペコと何度もオジギをしたのち、左右をよく確認してから横断歩道を渡って西に消えていった。

 コトブキは我に返って師父を見た。師父の顔からいつもの笑みが消えていた。師父は目を見開き、コトブキの目を見据えて、力強く頷いた。たちまちコトブキは破顔し、師父の反応速度を超えたスピードで師父を両腕ハグしてそのままクルクルと回転した。師父は足が宙に浮いた状態でしばらくコトブキに振り回された。


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 同日午後3時。スゴイテック社立ネオサイタマ第一高校。時計台を備えたコンクリート4階建ての校舎の3階、2年B組では、この日最後のカリキュラムである「愛社精神」の授業中だ。

「……このように、旧時代における法治国家というものの実態とは、誰の利益も代弁しない、市場におけるプレーヤーとしての意識を全く欠く官僚組織による権力の独占であった……」

 スキンヘッドの鬼軍曹めいた教官が、教科書を朗読しながら、サイバー学習机が整然と並ぶ教室内を歩く。生徒たちが各々のモニタに表示された教科書テキストを黙読する中、ヒロコは生まれてこのかた数知れず戦い、しばしば敗北してきた宿敵、すなわち睡魔と対決していた。

 前回のやり直しの際に、あの男が、自分が何もしなくても勝手にあっさりと死ぬ運命にあったとことを知り、ヒロコは最初は呆れ、次いでむやみに腹が立った。しかし、他人が目の前で死ぬ運命にあることを知ったという事実は、知らず知らずのうちにヒロコの心を重くした。昼休みの時間に、ベントーの箸が進まないのを見たタマヨにずいぶんと心配された。それは、最初に今日のベントーを食べたときと同じだった。だから、ヒロコはまた力を使うことにした。

 今回の今朝は正直怖かった。水兵服に刺繍された企業ロゴを見ればあのギャングたちは手荒な真似はできないだろうという計算はあったが、実際にどうなるかはやってみなければ分からない。結果的にあの男を守りきれた時は、心底、自分と家族が帰属するメガコーポに感謝した。同じベントーを3回食べるはめになったが、3回目が一番オイシイだった。ダイエット中だというタマヨが持参していたオニギリの大半まで平らげてようやく満腹になり、結果、今まさに睡魔に敗北しつつあった。

 教官は教室を一巡し、教室前方のUNIX教卓前に戻った。そして教室内を睥睨し、うつらうつらしているヒロコに気づいた。

「貴様! イヤーッ!」

 教官は教導シャウトとともに教卓のUNIXチョーク発射筒のボタンを押した。チョーク発射筒から射出された白チョークがヒロコの広い額に命中! ブルズアイ! ヒロコは思わず悲鳴を上げた。

「グワッ」

 他の生徒はヒロコから目を背けるかのように教科書モニタに目を落としている。隣のタマヨだけがヒロコに心配そうな目線を向けた。教官はヒロコを叱責した。

「なにを寝ぼけている。起立しろ。涎を拭け」

 男子生徒の大半と数人の女子生徒が反射的にヒロコを見た。ヒロコは立ち上がり、負傷したボクサーめいてこぶしで口元をぬぐった。教官はしばしの沈黙ののち、重々しく宣告した。

「貴様の態度は、社内倫理規定2条3項所定の『愛社精神の欠如』に該……」

 その時、教室前方のUNIX大スクリーンと生徒たちのサイバー学習机のモニタの全てが一斉にブツンと音を立てて、コマンドプロンプト画面めいた黒一色に変じた。教官は目をしばたたいた。教室中がざわめきはじめたところで、教室前方のUNIXスピーカーから旧世紀ドラムマシンの単調なリズムパターンが流れ出した。

 ドンツクドンツクドンツクドンツク……教室は一瞬にして不気味なアトモスフィアに支配された。不意にすべてのモニタが復帰したが、そこには見知らぬどこかの空間が映し出されていた。真上からの弱々しい照明がコンクリート床に立てられたマイクスタンドを照らしている。よほど広い空間なのか、柱が立ち並んでいるのがおぼろげに分かる以外、背景はほとんど闇に沈んでいる。そして、貧相な男がフレーム外から現れ、マイクの前に立って謎めいたチャントを唱えた。

「アーテステス、チェクワンツー、ワンツー」

 その途端、モニタに「ドンツク大きい」、「やまびこ」といった意味不明のIRCコメント弾幕が流れる。明らかに不穏なカルティストの暗号めいたコメントと、何よりも、その男の姿にヒロコは戦慄した。真上からの照明ではマイクの前で俯く男の顔かたちはほとんど見えない、というより、あのサイバーサングラスをつけていない。しかし、男の「量子が憎い」とプリントされたTシャツにははっきりと見覚えがあった。

 ドラムマシンの音量がやや低下する。教室中がモニタに映る光景を見守る中、貧相な男はフレーム外に消え、かわって修道士めいたローブをまといフードを目深にかぶった長身の男がマイクの前に立った。ローブの男は何やら話し始めたが、ほとんど聞こえない。モニタに再び「マイクとおい」、「巻数」、「シマッテコーゼ」等のカルト暗号IRCコメント弾幕。

 ローブの男は身をかがめて、マイクスタンドの継ぎ目スクリューを緩め、スクリューより上の部分を伸ばして、マイクが口の高さになるように調節し、継ぎ目スクリューを締め付けた。だが、締め付けが弱かったらしく、男がマイクから手を離したとたんに継ぎ目から上がゴトリと音を立てて落下し、マイクスタンドは男の腰の高さまで縮んだ。たちまち様々な大きさ、様々なフォントで無数の「草」のカンジが滝のように流れてモニタを埋め尽くした。

 今や教室内は完全に恐怖で凍り付いていた。あの教官ですら例外ではなく、顔面を引きつらせ、一言も発することができない。モニタ内、ローブの男はマイクスタンドからマイクを外して右手で直に保持した。ドラムマシンのリズムパターンが変化する。ドンツツック、ドンツツクツ、 ドンツツック、ドンツツクツ……暗黒原始宗教の生贄儀式めいたリズムをBGMとしてローブの男が再び話し始めた。

「きこえますか……私はいま、あなたのUNIXに直接はなしかけています……」

 猟奇! 大規模UNIXハッキングテロ! 恐怖を上回る衝撃に、幾人かの生徒が早くも失禁した。ローブの男はオジギし、更なる猟奇犯行声明を続ける。

「私は、ペケロッパ・カルト、ネオサイタマ中央第四ネストの導師、アルケミーです。今日は神聖なるペケロッパ神の福音をお伝えするために、特別に話をすることにしました……今この時から、穏やかな1bitの世界への退行がはじまることをお知らせします。量子的なゆらぎや偶然性に左右されない、あるべきものだけががあるべきようにありのままに存在する新しい宇宙の誕生です。新しい宇宙への移住をご希望のかたは、画面下に表示されている公式IRCチャネルにメッセージをお送りいただくか、公式IRC-SNSアカウントに直リプをお送りください」

 全く意味が分からない。教室内の誰もが周りの者と顔を見合わせていた。モニタには、アルケミーという名の狂人の姿を覆い隠す勢いで、ハンドクラップやパーティークラッカー、クスダマなどの図柄のスタンプが表示されている。

「ねえ、これって……」

 タマヨがヒロコにささやきかける。ヒロコが、これは単なる悪ふざけだと答えようとしたその時。

「レンキン・ジツ! イヤーッ!」

 モニタ内のアルケミーがシャウトとともに胸の前で両掌を打ち鳴らした。本来はドヒョー入りかシントー・シュラインでの祈祷の際に行われる神聖な動作、カシワデである。生徒たちは再び驚きと共にモニタを見た。邪悪なカルティストはカシワデ姿勢で静止している……何も起こらない。教室内に安堵の声が広がり始める。

 だがその時、全モニタが再びブラックアウトし、2秒後に画面が復帰した。今度は大小さまざまな種類の魚が泳ぐイケスの映像である。だが、ただ魚が泳ぐだけの光景であるにもかかわらず、ヒロコはその映像により正気を削られるかのような感覚をおぼえた。幾人かの生徒が新たに失禁した。そして破滅が始まった。

 さきほど教官から居眠りを咎められてから突っ立ったままだったヒロコの横顔を閃光が照らした。反射的に窓の外を見る。1マイルほど離れたところで爆発が起こっていた。数秒遅れて地響きのような振動が伝わり校舎の窓ガラスを揺らす。異変に気付いた教官や他の生徒たちも立ち上がり窓の外の光景に目を向ける。次々と新たな爆発が起こった。UNIXの大規模な不具合により、ネオサイタマ各所のジェネレータが暴走しているのだ!

 そして、校庭の中央部分が盛り上がり始め……轟音とともに巨大な火柱を吹き上げた! 校庭の地下に設置されたジェネレータの爆発である! 企業テロに備えた強固な防弾防爆強化窓ガラスのおかげで教室内に被害は及ばなかったが、生徒たちは反射的に各々のサイバー学習机の下に避難した。

 ピーピキピーピキピーピキピーピキ、キュンキュンキュンキュンキュン……校舎全体に特徴的なアラート音が響き渡る。災害時緊急避難プロトコルが発動したのだ! すぐさま教官はUNIX教卓の赤色緊急ボタンめがけ、強化プラスチックのカバーの上から拳を叩きつけた!

「イヤーッ!」

 たちまち生徒たちのサイバー学習机の天板がパカリと開き、中から防災頭巾、防災ラジオ、ハードビスケット、蒸留水のボトルといった災害キットが現れた。続けて教官が号令をかけた。

「総員! スタンバッテオケ!」

「「「「「ハイ!」」」」」

 生徒全員が机の下から這い出て起立し返事をした。これ以上の詳細な指示は不要である。地震、台風、ツナミ、カイジュウなどの自然災害に先進国としては異例な頻度で襲われる日本では、学校や企業、ヤクザクランまでもが日常的に災害遭遇時の避難訓練を行っている。

 生徒たちは普段の訓練通り、防災頭巾を被りその他の災害キットを収めたキンチャクを腰に装着して廊下に整列し、おろした腕の肘を90度曲げて指先を前方に向ける姿勢をとった。クラス全員が整列を終えた段階で、教官の指示に従い校庭あるいは体育館といった然るべき避難先に向かう手筈である。早くも整列を終えた別のクラスは、学級委員の合図に合わせ、学籍番号順、名前順、身長順と自在に整列の順番を変更しながら点呼をとっている。

 だがヒロコは、既に、今回に限って異変が起きた原因をさとっていた。防災頭巾を被ったまま、しばし考え、そして決断した。

 ヒロコは教室から飛び出し、クラスの整列には加わらずに廊下を駆けた。そして、廊下の端の階段に至る。跳躍。


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 ルーチンを通じてセイシンテキを高めたコトブキは、巨木に向き直り、呼吸を整え、脱力したところで、大通りの向こうでちょっとした騒ぎが起きているのに気づいた。いつもこの時間帯に大通りの向こう側の歩道を大慌てで駆けていく少女が……コトブキのトモダチの少女が……いや、トモダチになるのは明日だったはず……突如ニューロン内に矛盾した複数の想念がわきあがり、コトブキは戸惑った。とにかく、その少女がコンビニの近くでいきなり通行人の貧相な男の襟首を捕まえたのだ。

 次にテクノギャングの一団が少女と男を取り囲んだ。少女は両手を広げて仁王立ちになり、貧相な男を背中にかくまう。やがてテクノギャングたちは、諦めた様子ですごすごと退散していった。コトブキは一時の戸惑いを忘れ、心地よいカタルシスに突き動かされて無意識のうちに軽く左拳で傍らの菩提樹の幹を突いた。

 パン

 コトブキは、今度は不思議な感触に戸惑い、自らの左拳を見つめた。まるで水面を突いたような手ごたえの無さ。突きが命中した点を中心にさざ波が広がり、ツインオダンゴにまとめていた髪がほどけてふわりと肩に落ちた。

 戸惑いが残ったまま、ふと大通りの向こうを見て、コトブキはわが目を疑った。あの少女が、何故か、どこから持ってきたのかロープまで持ち出して、今しがた助けたばかりの男を相手に大立ち回りを演じていた。自分で助けた男をあのロープで縛ろうとしているのか?

  コトブキは師父を見た。師父はいつもの笑みを消して目を見開き、コトブキと同様に通りの向こうの光景を見て困惑していた。ややあって、師父はコトブキへと振り返り、しばしコトブキと無言で見つめ合った。そして、困惑の表情のまま、コトブキに向けておずおずとサムアップした。

 コトブキもまた迷った末、師父に向かい拱手包拳オジギをして師父の前から退き、カンパチの大通りを渡る横断歩道を目指して走り去った。


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 夕刻。キタノ・スクエアビル1階の通りに面したテナントに入居する「ピザタキ」。夜の営業にはまだ早く店内に客はいない。店主らしき男がカウンター内で低いスツールに座りゲイシャポルノ雑誌に目を落としている。

 チリン。入口ドアの風鈴が鳴りコトブキが入店する。首から上だけをカウンターの上にのぞかせた店主は、あからさまにペケロッパ・カルト信者じみた奇怪なサイバーサングラス着用者と制服少女という胡乱な組み合わせの新顔をコトブキが背後に従えているのを見て、ため息とも呻きともつかない声を上げた。

 しばらく宙を睨んだのち、店主はあらためて新顔たちを見た。ご丁寧なことに、ペケロッパ者の両手首は体の前でロープで縛られ、そのロープをコトブキが保持し連行している格好だ。店主は諦めの表情を浮かべつつも、新顔たちを先導する狂ったオイランドロイドを咎めた。

「コトブキ! てめえ今度は何を……」

 コトブキは店主の顔にむかって手のひらをかざして彼の罵声を遮り、そして、なぜか誇らしげな態度で宣言した。

「タキ=サン、大変です。タイムリープ者を見つけました!」


【続く】