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24/03/02 健やかであることを諦める

最近、何のために健康に気を遣えばいいのかが分からなくなっている。
若いころの回復力は歳を取って初めて分かるもので、三十代半ばを過ぎたあたりでようやく、自分の体が老いてゆくことを知る。
八十代や九十代の人が「老人の楽しい一人暮らし」を語るような本が本屋に多数置かれる昨今だが、その不健康さについては、乾いた指先でサラッと撫でる程度の通過儀礼的なことしか記されておらず、老いることで損なわれた健康の実態は、そこには無い。

体にせよ心にせよ、健康であることは生きる上での前提だ。それに気を遣うことは正しいし、かくいうわたしも、超健康マニアである(健康な生活を求めてヨーロッパのオーガニック大国に移住したことがあるくらい)

けれど、わたしは健康至上主義が苦手だ。
とにかくウマが合わない。講演会や地域のコミュニティでそのような人に邂逅すると、反射的に距離を取っている。
彼らが健康(または健康被害)について語るときの、イキイキした表情や空気感が、どうしても苦手なのだ。社会通念のもとに切り分けた「悪」を、健康という100%の「正義」のもとに集団リンチしているように思えて、混乱する。

生きるために健康であろうとするのは、よく考えるとおかしい。
わたしたちは日夜死に向かってせっせと命を擦り減らしているというのに、健康主義とは一体何を目指しているのか分からない。
生きているということは既に健康を享受しているということだ。

人間の「正しくありたい」という闇は、とても深い。そこに飲み込まれていると、実に簡単に気持ち良くなることができる。
特に、人間社会が生み出した概念のうち、社会通念に強く通ずる言葉は、正しさという快楽のもと利用するには最適なのだ。
わたしたちは、正しさという快楽に溺れることを望んでいる。
その証拠に、正しさが不在のままに「正しくあろう」とする行動理念は社会に驚くほど溢れていて「正しさ」そのものを問う機会は、人と人とのコミュニケーションの中で奪われ続けている。
わたし自身も例に漏れず、皆と変わらぬ日々を暮らしながら、正しさの虜になっている自分を日毎に目の当たりにする。そしてやはりまた「正しくありたいがため」に理屈をこねくり抗おうとする。
『健康のために生きるなんて、本末転倒だ、わたしはジャンクフードだって楽しむし、後悔のないように死ねる。あなたたちとはちがう!』

ああ、もう、いいかげんにしたい。全部くだらない。

社会が言うように、健康であれば、豊かな思考と、それに伴う行動が可能なのかもしれない。
だけどこの社会に、健康を行使している人はどれだけいるだろうか。

よく考えたい。
社会毒や放射能汚染・貧困や腐敗政治が蔓延る世界でわたしたちが健康について語るとき、死生観を持たぬままに、健康と同時に生について語らってはいないだろうか?
時代と共に核家族化が進み、お彼岸・お盆などの文化的な認識が薄まり、共働きの忙しさの中で葬儀や墓参りの在り方が変容し意味を失い、そうやって死に触れることも教わることもないままに育った者たちが、死の実態を知らぬままに健康を喚起する。
そのようなプロセスは、破綻してはいないだろうか?
わたしたちが正しくあろうとすればするほど、その正しさは遠のいていないだろうか?
果たしてそれは、健やかなことだろうか?

わたしも「死」について知らずに大人になった。
健康マニアになったのは、家人と生活するようになって、喪失の哀しみと、物理的な苦しみを恐れたから。より良く生きたいから、などと言うのは、自分を納得させるための建前。
しかし、今になって思う。
哀しみと苦しみは、そんなにも、抗うべきものなのだろうか。

「気を遣う」というのは文字通り「気」を消費することである。気を遣うほどに健康は損なわれてゆく。回復が追いつくうちはまだ良い。しかし、人体の機能は衰え続ける。
最後の瞬間を避けることは、わたしたちにはできない。それは自然の意思だ。
抗えない大きな力に対して多大な気を消費することは、もはや不健康の促進だ。正しくあろうとする快楽に溺れ、集団化し、暴力的となる様を(オフラインでもオンラインでも)見れば見るほどに、自分には諦めるしか道がないように思う。

また、諦めたからといって悲観的になることもないように思う。
共に生きる人がいて、美味しいものを一緒に食べたときに『わたしの人生はもう満たされているな』と思う生活は、健康という正体不明の正義よりも、わたしにとっては遥かに純度の高い幸せである。
もちろん、その瞬間以外の大方は鬱屈とした気分になっているのが現状である。
が、それでも、生き甲斐が欲しい、健康が欲しい、と正しく生きることに取り憑かれながら命のろうそくを燃やすのは、嫌だ。
約束されるエンディングは無い。
健やかであることの尺度を測るものは無い。
正しくあろうとすることに抗うすべも無い。
あるのは、歌人の横顔を見つめる瞬間が自分にあること。それを嬉しく思う自分であるということ。
健康であることより、そんな自分を必死に続けていきたい。

最後の瞬間など、オマケだ。