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24/04/20 言葉の狂気について

150ページ溜まったらZINEにするつもりで去年からつけている日記があるのだが、昨日の分が一部長文になってしまったのでその部分だけを抜粋してnoteに残しておくことにした。日記には書かない。
文脈がないの読みづらいかもしれないが、以下、昨日の出来事である。


おじさんの客がグラスを返却しに来たのでカウンター越しに受け取ると、突然「あんたも日本人?」と聞かれた。訳が分からず、ほぼ脊髄反射で声に嫌悪感をあらわにして「日本人ですけど」と答えた。

そこに何かしらの文脈があったことは想像できる(この日はチャリティーライブで、MCでは能登半島地震をはじめ北朝鮮の拉致被害についての話があった)。わたしの国籍を訊ねることが、この時のおじさんにとっては自然な行いだったのだろう。
けど、突然間合いを詰められてゼロ距離で放たれたような問いにわたしの胸の内は沸騰するようだった。わたしの返答を受けておじさんは苦笑いし「失礼」と言って立ち去ったけど、本当に失礼だよ、とむかむかした。

そのうち頭が冷えてきて、何がそんなに怒りを掻き立てたのだろうと考え始めた。
自分のパーソナルでアイデンティティに関わることを軽々しく疑われたようで嫌だったのかと思ったけど、例えば、明らかに異国の人に対してだったりそういう場であれば、出会ったばかりの相手の国籍をカジュアルに訊ねることは自分でもすると思う。
「あんた」と言われたのは嫌だったし、そのあとに続く「も」に嫌な含みを感じたというのもある。
そもそも、日本にいて日本人だらけの場で、当たり前に文脈を共有している前提で初対面のおじさんに軽々しくパーソナルなことを聞かれるのは、端的に言ってかなり気持ち悪い。
背中の毛が逆立つような危機感を覚える(夜道で背後から知らない男性が近付いてくるときと同じ)。

でも、気持ち悪いまま突っかかったものはそれだけではなかった。
「あんたも日本人?」と聞かれたとき、わたしに込み上げたものは、差別の対象とされたような言い得ぬショックと、それに対する攻撃的な反発だった。
それは国籍のことだけでなく「年下の女の子」に対する年配男性からの(ステレオタイプを押し付けることに無自覚であるがゆえの)認識しづらい「差別」でもあったのかもしれない。

まぁ、今になって思えばおじさんには意図も悪意も無かったのかもしれないけど、その行いがわたしにとってとんでもなく失礼なことだったのは疑いようがなく、冷静になった今もおじさんへのプンプンした気持ちは変わらない。

世代によって、性別によって、生まれによって、シチュエーションによって、意味の受け取られ方は如何様にも変化することと、その変化の極端な及び方について自覚する難しさを、帰りの電車の中でずっと考えていた。
とはいえ、そんなことを考え続けて自閉していけば言葉は自分の中からどんどん失われてゆく。
「言霊」という単語があるように、言葉には何か霊的な力やアートな感性が宿っていると信じられていたり、また、時に知的レベルを測る社会の物差しとされることもある。
そういった側面もあるのだろうけれど、わたしは言葉はお金と同じツールのように考えていて、それ以上の崇高なものと考えるのは少々危険に思う。
言葉の狂気とは、本当に言葉そのものの性質だろうか?
先に述べたとおり、言葉の持つ意味は本当に多様に変化する。意味とは多数の間で(あるいは個人の間で)とても曖昧に認識されるもので、明確に「ある」とは言い難いものだ。そんな言葉が放つ狂気とは、様々な要素がイメージさせる対人関係の中での負の感情だ。
わたしたちには言葉も対人関係も手放すことは出来ない。それならば言葉の狂気を抑制する頼りとなるのは、言葉への思考ではないだろうか。

と言いつつも、わたし自身は言葉の思考回路が著しくポンコツで、一昨年は言葉の狂気が完全に内に向かっていた。その結果ゆうじと音楽することが出来なくなってしまったのだと思う。
言葉への思考を辿るために(わたしの場合)まずは、感情の秤が極端に重くならないようにする必要がある、ということを、最近ようやく自覚し始めた。
感情と言葉が切り離せないことを考えると、やはり言葉の狂気は言葉によるものではないと思うのだけど、どうだろう?