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25歳で起業した私の3期目までの振り返り


はじめまして。株式会社トライハッチ、代表取締役の武藤と申します。

2018年1月5日、26歳になる3日前に現在の会社を設立し、丸3年の月日が経ちました。

起業3年の生存率が52%と言われている中、現在も会社経営を行えていることに安堵の気持ちを持つと共に、日頃から当社とお取り引き頂いているお客様、パートナー様、名もなきベンチャーに期待して入社し、日頃から頑張ってくれているスタッフ全員に、この場を借りて感謝申し上げます。

本当にありがとうございます。

創業期の初心を忘れないよう、この3年間をnoteで振り返りたいと思います。長文になりますが起業のリアルと知れると思いますので、お時間ある方は最後まで読んでみて下さい。

※深夜に書いているので誤字脱字、稚拙な表現などあるかも知れませんがお許し下さい。

2018年1月5日 会社設立

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26歳になる3日前、25歳で現在の会社を創業しました。

前職時代、私がSEOのコンサルティングをしていた不動産会社の社長に資金援助をして頂き、高円寺駅徒歩2分のGoogleマップに表示されないような雑居ビルで当社はスタートしました。

エレベーターなしの4階、トイレは和式トイレの5畳一間で、中古で購入したMacbookAirとプリンターと電話機のみと、本当に最低限必要なものだけを揃え、当初は自分が得意としていたSEOコンサルティングを主体に営業を開始しました。

しかし、立ち上げ間もない会社に月数十万円するSEOコンサルの仕事を任せてくれる会社は少なく、テレアポで商談自体は獲得できていましたが、肝心の契約に結び付かない月日が長く続きました。

起業1年目は無給。契約の取れない日々と月曜日〜日曜日まで働き詰めの日々が続き、肉体的にも精神的にも追い詰められていったのを鮮明に覚えています。

深夜、時計の針音がチクタク動く中、「何で会社を立ち上げてしまったのだろうか?でもやるしかない。こんなこと考えている暇なんてない」と自分を奮い立たせる日々が続いていました。

曜日感覚もその内なくなり、オフィスの寝袋で一夜を過ごす日々も決して少なくありませんでした。

そんな日々を過ごしている中、起業3ヶ月目ぐらいから頑張りが実ったのか、徐々に契約していただけるお客様が増え、前職の繋がりで紹介を頂けたりなど、起業3ヶ月目あたりで何とか収益を確保できるようになっていきました。

最初は仕事を選べる余裕もなく、ホームページを5万円で自分が制作したり、SEOやローカルSEO、Web広告など、お客様のニーズがあれば何でも請け負っていました。テレアポだけではダメだと、クラウドソーシングに登録して仕事を見つけたり、当時は大金であった80万円をかけて、チラシを都内の歯科医院に巻いたり(ほぼ商談すら入らず)など、まずは提案機会を増やすための取り組みを片っ端から行っていました。

しかし、営業、マーケティング、経理、施策まで自分で行うのは限界があり、このまま行くと収益は上がらず、ただ忙しい状態が続き、会社も拡大は出来ないと不安を感じていました。

この不安を払拭するために、前職時代に片手間でうまくいっていたアフィリエイトサイトの立ち上げや板金塗装の比較サイトなど、営業活動を自分で行わなくても収益化できる方法にもチャレンジしましたが、契約頂けたお客様の対応や別業務に時間を取られることが多く、フルコミッションすることができず途中で頓挫しました。(収益のあった事業を辞めることもできずでした。)

そこで私が考えたのが「やらないことを決める」ことでした。私は営業出身ということもあり、前職時代、歴代最年少で営業部長に昇格するほどに圧倒的なパフォーマンスを出していた自負がありましたので、運用面や制作などは外注し、自分のリソースを営業にフォーカスすることにしました。

そこで当時、目を付けたのが少しずつ注目を浴び始めていたローカルSEO(MEO)でした。(SEOに近く、提供や導入している企業が少なかったのもあります。)

予約ポータルサイトの集客依存を脱却し、Googleマイビジネスの活用が店舗・施設の集客に必要不可欠となると考え、ある会社の販売代理店としてローカルSEOを中心に事業を展開することを決め、オウンドメディア立ち上げやリスティング広告の出稿、テレアポを行うようになりました。

やらないことを決め、やることを事業、仕事内容も限定することにより、4ヶ月目で黒字に転換し、5,6ヶ月目には50万円程度の利益が毎月会社に残るようになり、何とか会社としての第1歩を歩み始めることができました。

会社の第1転換期 No.2の入社

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前職時代、私が部長を行っていたSEO部門に圧倒的な成果を出すセールスの部下がいました。

実は前職を辞める際、この部下に「独立するから半年後にきてよ」と誘い、彼も「わかりました」と即答してくれていたという一幕がありました。

しかし、私は彼が本当にくるか半信半疑でしたし、起業に誘うということは、彼自身の人生を大きく左右することと重く受け止めていましたので、ある程度の収益が確保できそうな半年後に再度声をかけると決めていました。

起業後、彼とは全く連絡を取っておらず、会社設立半年後の7月、久々に連絡を取り、渋谷の居酒屋で話をしました。

当時のことは今でも鮮明に覚えています。

「早速だけど、お酒が入る前に確認しておきたいんだけど、本当にウチにくるの?」
「えっ行きますよ。もう9月末で今の会社辞めて行く予定です。」

自分の疑念が恥ずかしくなるぐらいに彼はブレておらず、渋谷の居酒屋でNo.2のジョインが決定しました。

彼は8月から土曜日に手伝いに来てくれたり、入社前からテレアポで全国に80店舗あるエステの契約を取ってくるなど、最初から圧倒的なパフォーマンスを出してくれました。彼の勢いが、起業後の私自身の不安を払拭してくれる大きな支えになったと思います。

今では笑い話ですが、彼が土曜日に手伝いに来てくれた際、開けたドアが寝袋で寝ている自分の頭にぶつかり起こされることもありました(笑)

そういった環境でも何も言わず、給料も大きく下がる中、自分に人生をかけ、起業して半年の不安定なベンチャー企業にジョインしてくれたことを今でも感謝しています。

彼は、現在、執行役員COOとして営業部門の統括をし、圧倒的なパフォーマンスを今も尚、出し続けてくれています。当社が毎期成長していけているのは、No.2の存在が大きな要因だと思っています。

1期目を黒字で迎える

実は、顧問税理士の都合などもあり、1期目は10ヶ月間でした。

2018年10月に最初の決算を終え、泥臭く営業活動を行い、No.2のジョインもあり、何とか黒字で1期目の決算を迎えることができました。

実際、黒字と言っても微々たるプラスであり、1期目を終えた感想は、起業の厳しさ、収益を出すことの難しさを体感した10ヶ月でした。

2期目:お客様へのサービスクオリティ向上と自社の収益拡大を目指した独自サービスの開発

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2期目に入る中、販売代理店であることのデメリットを大きく感じていました。

・ 自社サービスではないため、サービスクオリティの保証ができない
・収益の50%を外注に支払う必要があり、収益を圧迫する

また、順位状況に応じた成果報酬のプランもあり、営業活動と契約数に収益が比例しないといった悩みもあり、二人で何度も話し合いをしました。

「今の事業は完全に辞めて、単価の高い事業に転換しよう」
「クオリティが担保できないサービスは、いつか大きなトラブルに発展する。違うサービスにシフトすべきではないか」

こんな話を毎日していたのを覚えています。

しかし、出資してくれた不動産会社社長の「判断するのにははやいのではないか」といった助言もあり、事業を継続することにしましたが、年明けの2月に私の嫌な予感は的中しました。

当時、数百店舗の契約をして頂いていましたが、外注先の施策がガイドラインに違反している部分があり、数十店舗に迷惑をかけてしまうことになりました。私とNo.2は、連日朝まで対応に追われ、収益も減少していく現実を目の当たりにし、心臓が握り潰されるような感覚を味わいました。

しかもこの時、人材の増員を考え、家賃3倍のところにオフィス移転をしたばかりでした。

キャッシュは減っている中、お客様に迷惑をかける、そしてお客様に迷惑をかけた分、自社の収益も減っていく状態に、私は悔しさと申し訳なさを感じ、このことがキッカケとなり、会社のあるべき姿や事業を見直すことになりました。

そこで脱代理店を掲げ、提供するサービスの内製化を推し進めることにしました。内製化をすることにより、お客様への提供クオリティを担保し、自社の収益も向上させることができると考えたからです。

しかし、内製化するには、どうしても自社ツールが必要でした。私たちはセールス出身で、プログラミングの知識はなく、エンジニアとの繋がりもありませんでした。

そのため、同様のツールを提供している会社に何社か問い合わせ、OEM提供やツールの貸し出しなどを相談しましたが、提供してくれるところは少なく、提供してくれる会社も足元見た金額を提示してくるなど、内製化は難航していました。

会社売却の話と優秀なエンジニアとの出会い

内製化が難航する中、自分が顧問をしていた会社の親会社から買収の話をもらい、事業も先行きが詠めない中、事業のキーポイントとなる内製化も出来ずに苦しんでいる最中でしたので、心が揺らぐ部分もありましたが、「俺は何のために起業したんだ。ここで諦めたら最高にカッコ悪い」と思い、結局は売却の話を断り、会社を継続するといった一幕もありました。

しかし、開発できない課題は残っており、知り合いのツテで開発会社を紹介してもらったり、クラウドソーシングで中国の方への依頼を検討したりなどもしましたが、どのケースもこちらの開発要件に合わず、依頼に至ることはありませんでした。

また、開発をどこに依頼するにも数百万円の資金が必要だということも分かり、金融機関からデッドで1,000万円近くの資金調達を行い、ありとあらゆるネットワークを活用してエンジニアを探しました。創業期にも創業支援の資金調達をしていましたが、1,000万円の金融機関からのデッドファイナンスでの資金調達を決断するには、それなりに時間を要しました。

「これで上手くいかなかったら多額の借金を背負うことになる」

26歳の私には途方もない大金でした。自分の覚悟の問題ですが、自分を納得させるため、絶対に行けると自分に暗示をかけるかのように競合調査や戦略設計、収支予測の計画作成などを夜通し行いました。

約1ヶ月半悩みましたが、自分が納得できる計画を策定したこと、1,000万円ぐらい借金を負ってもどうにかなると覚悟は決まり、資金調達を行った後、Twitterでエンジニアに片っ端からDMを送ったり、知り合いのツテで紹介を受けたり、エンジニアとのマッチングサイトでメッセージをかけるなど、優秀なエンジニア探しに没頭しました。

「レベニューシェアで開発しよう」「開発はするから営業だけしてもらって、収益は折半で」など、色々な話がありました。そんな中、ある優秀なエンジニアと出会うことができました。

私と同い年でフリーでエンジニアをしているHさんと出会い、個人に任せるリスクも考えましたが、4度の打ち合わせを行う中で信頼できると判断し、開発を依頼することにしました。

この判断は、正解でした。プログラミング知識がないため、イメージだけを伝え、ものの2ヶ月で開発完了。

ツールの開発を皮切りに、大学時代の友人にマーケティング担当として入社してもらい、外注していた業務を全て内製化することに成功し、内製化による収益増加に伴い、アルバイトスタッフの雇用なども開始し、施策から効果測定までを全て自社内で完結することに成功しました。

この頃から事業は軌道に乗り始め、地道に記事更新していたオウンドメディアは、月に30〜60件の問い合わせを確保できるようになったり、上々企業様とのお取引開始など、収益も右肩上がりで成長するようになりました。

また、追い風は続き、前職で私やNo.2と同部門にてセールスをしていた信頼おけるメンバーのジョインが決まりました。彼も私が独立する際に誘っていたメンバーであり、家庭があったこともあり、何度か断られていましたが、しつこく誘った中でジョインを決めてくれました。彼がジョインしたことにより、営業活動に拍車がかかり、2期目は1期目比較で780%の売上成長をすることができました。

2期目は、独自サービスのリリースを行うことができ、自分が覚悟を決めたことにより、独自開発ツールのリリースと提供を行うことができ、少しずつ仲間の増える喜びを感じることのできる1年でした。

多くのお客様に自社サービスを導入して頂き、集客増加やマーケティング施策の効率化に繋がったという喜びのお声を頂くことも多くなり、会社として軌道に乗り始めたことを記憶しています。

3期目:更なる成長を求めて

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ツールを開発する前、OEM提供や現実的にレンタルさせてくれる会社がなかったことに目を付けていました。

当社同様に販売代理店を脱却したい会社、またはチェーン店で管理するアカウント数に疲弊しているといった悩みはあると思いましたし、何より貸し出しが増えれば、大量のデータを蓄積することができ、それが自社のノウハウとして蓄積することができると思い、ツールの貸し出しをはじめました。

それに伴いエンジニアの増員も行い、更なる拡大を目指して家賃2.5倍の広いオフィスに移転しました。移転や他部門の増員や経験者のエンジニアと繋がることができず、独学でプログラミングを勉強していた未経験のエンジニアを採用しました。未経験への不安はありましたが、彼は独学でやっていたこともあり、現在はエンジニアチームの中核として活躍してくれています。ツールのUI変更やユーザビリティ向上における機能追加など、3期目のツールクオリティ向上に大きく貢献してくれました。

ツールを貸し出しすることへの勘はあたり、ツールの販売は続々と決まっていきましたが、アクセルを更に踏み込もうとした段階でコロナが流行し始め、大型のお客様の解約による減収など、店舗・施設をメインにサービス提供している当社も大きなダメージを受けました。

ただ、開発費はこの時既に1,500万円を超えており、開発を止めることは考えませんでした。

その際「多くの企業が広告予算の縮小や開発の一時停止を行うのであれば、開発を逆に進めることにより、優位性を持ったサービスを提供することができ、予算縮小する企業にも価値あるサービスを提供できる」と考え、開発投資予算の引き上げ、広告予算の増加を行いました。更にはツールのUIや機能をブラッシュアップするため、ツール自体の大きな改修も行いました。

そんな中、創業メンバーである大学の友人の離職などもありましたが、コロナでもやることは変わらない、更にサービスクオリティを上げ、マーケティングや営業活動を愚直に行えば結果は後から付いてくると、開発や営業活動、採用を止めることなく前進していきました。

その結果、多くのお客様に当社サービスを導入して頂き、ツールへの登録店舗数は10,000店舗を超え、メンバーもこの1年で3倍の人数に増え、売上も昨対比で190%成長することができました。

最後に

起業から3年、あっという間に過ぎた感覚はありますが、非常に濃い3年間でした。

良いことも悪いこともあり、軸がブレたり、起業したことを後悔することもありました。

ただ、最初の本当に苦しかった期間の経験は、今では自信という財産に変わりました。一人で立ち上げた会社は12名になり、今期、更に5名のメンバーを増やす予定です。また、スタッフの頑張りやパートナー様のご協力もあり、大手上場企業様から個人店様まで、提供するサービスアカウント数は726サービス、ツールの導入店舗数は10,000店舗と多くのお客様に恵まれ、業容を拡大することができました。

デットファイナンスで人生賭けて事業を起こし、自分たちが考え開発したサービスがお客様に受け入られ、お客様と自社の収益が上がり、収益が増加することにより、当社の理念や目指すゴールに共感してくれる仲間を増やすことができ、更にクオリティ高い価値をお客様に提供できる。

最初は、何で会社を立ち上げてしまったのかと思うこともありましたが、今は会社経営が楽しくて仕方ないです。

僕たちは、テクノロジーの力で業界のスタンダードを創り、ノウハウやリソース•予算面で課題の多い店舗•施設の集客増加、マーケティング施策の効率化、評判管理を支援する会社として、更なるサービスクオリティ向上を掲げ、2021年に業界のリーディングカンパニーとしての地位を確立し、少しでも多くの店舗•施設の集客やマーケティング施策の効率化に貢献していくことを4期目の目標に掲げています。

4期目で上記目標を達成し、10期目にIPOすることを目指します。IPOすることにより、当社で働くスタッフへの還元、当社とお取り引きあるお客様、パートナー様へ更にクオリティ高い価値を提供し続け世の中に貢献していくことのできる日本を代表するO2Oテックカンパニーになります。

私自身も先日29歳になり、20代最後の年となりました。謙虚かつ誠実なビジネスを心掛け、まずは、4期目を更なる飛躍の年にしていきます。

色々と仕掛けや計画していることもありますので、当社の動きを楽しみにしていて下さい。

採用も積極的に行っていますので、「業界のスタンダードを創る」ことに共感して頂ける方は、是非、ご応募ください。

当社を引き続き宜しくお願いいたします。

2020年1月11日

PS.Twitterのフォローもして頂けますと幸いです。

アカウント:@takayukimuto1



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