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言葉にならない言葉

詩の世界がおもしろい。

この頃、100分de名著の中原中也と宮沢賢治の回を視聴したり、詩を書くことに関する本を読んだりと少しずつのめり込む自分がいる。

いわゆる「集合的無意識」という言葉がありますが、宮沢賢治も「無意識即でないと言葉は信用できない」って言うし、中原中也も「名辞以前」みたいな言い方をしますよね。だから、詩人というのは、やはり普通に流通している言葉より、もっと前の言葉と言えばいいのかな・・・・・・、言葉になりかかっている言葉から、言葉を探し出してくるようなことがあるんじゃないでしょうか。

詩を書くということ 日常と宇宙 谷川俊太郎

「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられるていればよい。

名辞以前(言語以前の世界)「芸術論覚え書」

100分de名著 中原中也詩集 第3回「“悲しみ”と“さみしさ”をつむぐ」

写真は無意識下の言葉で撮る瞬間は言葉にはならない。

でもそこから、言葉を見つけ出すことができるはず。撮った背景もそうだけど、そうではない別の詩のような言葉も見つかりそうだ。写真と詩ってなんか近いなと感じていたが、無意識下から取ってくるものだからだ。

わたしが子どもに目がいく理由も、どこかでわかるときが来るのかもしれない。詩を書くことで、今まで無意識にやっていたものに言葉の形を与えられるのかもしれない。もっと先が見えてくるのかもしれない。あくまでも予感の話だが。


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