その女、一枚上手につき。
その日1本目のモンスターを開けようと右手がプルトップを押し上げようとした瞬間、突然机上のスマホが振動し始め、着信音に設定していた「ドライフラワー」が大音量で流れ始めた。
こんな時間に誰だよ…と思いながら、画面をのぞき込むと、
【宮田 愛萌】
はあ、とため息をつきながら、僕はスマホに表示された「応答」をタップする。
「…もしもし?何?」
「あ!出た!切られると思ったのに~」
「…そっちからかけてきておいて、なんだよ」
「まあまあ、そう怒らずに~」
「別に怒ってるわけじゃ…唐突だなって。何の用?」
「いやぁ~、卒業論文の進捗はどうかなって。ちょっと気になっちゃったからね~♡」
_____________________________
僕と宮田愛萌(宮田と呼んでいる)は、同じ大学で同じ文学部、そして同じ教授のゼミに所属している、いわば同級生というやつだ。
正直、大学の文学部にはこれっぽちも興味がなかった。しかし、浪人という選択肢を排除していた僕は、受験する大学にある学部を片っ端から受けるという暴挙に出ていた。結局引っかかったのが、その大学の文学部だった。
大して興味のない分野であり、周りには女子が多く、入学したての僕は早くも孤独を感じた。
そんな時、声をかけてくれたのが宮田だった。
親切心からか、あるいはただの社交辞令だったのかもしれないが、僕にとってはとてもありがたいことだった。
おかげで大学でも友人ができ、楽しく大学生活を送ることができたし、勉強にもなんとかついていくことができた。今のゼミを選んだのも、宮田に誘われたからだった。
_____________________________
「…絶賛、執筆途中だよ。」
深夜にもかかわらずやけにハイテンションな声の宮田とは対照的に、僕はぼそっと答えた。
決して悪く言うつもりはないのだが、宮田は他人に媚びる話し方が妙にうまい。さながらアイドルだ。
「あら~そうだったの~、あとどれくらい?3割とか?」
「…ちょうど半分、とかかな」
「え、マジ?それ間に合うの?手伝おっか?」
顔こそ見えないが、ニヤニヤしている宮田の表情が目に浮かぶ。
「…そういやお前はもう終わってるんだっけ。わざわざ煽るために電話してきたわけ?」
「あはは。そういうわけじゃないけどさ」
僕自身の気の進まなさもあり、気づけば年が明け、1月は早くも中盤を通り越した。提出期限は今月末だ。
「間に合わなかったら卒業できないじゃん。早く終わらせちゃお?」
「…ああ」
その進行を邪魔しているのはお前だろ、と言いたいのをぐっとこらえ、適当に返事をした。
_____________________________
宮田とは知り合ってからというもの、この4年間友人として仲良くしてきた。
しかし、僕は常に実力の差というか、越えられない壁を感じていた。
勉強が得意で成績はいつも上位。性格は明るく見た目も可愛いから、友人も多い。就職活動は誰より早くから始め、あっさり内定をもらってきた。卒業論文も既にテーマは固めていたらしく、あっという間に書き終えていた。
特にこれといって得意なこともなく、それなりの大学生活を送ってきた僕とは違い、やりたいことは全てやり切り、充実した日々を送っていた宮田は、いつも笑顔だった。
そんな宮田が、羨ましかった。
いや、本当はわかっていた。
結局僕は、宮田と違って、努力をしてこなかっただけだということを。
_____________________________
「じゃあ、これから集中するから。切るよ?」
「え~もう切っちゃうの~?寂しい~♡」
「いや…このままだと一生卒論終わらないんですけど?」
「ん~、そしたら、電話繋いだままでいいから。そのまま始めて?」
「はぁ?」
「寝そうになったら起こしてあげるし、ね?」
「…」
時間ももったいないので、仕方なく僕はそのままパソコンを立ち上げ、作業を始めた。
「何について書いてるんだっけ?『進撃の巨人』とか?」
「なめてんのか…『罪と罰』だよ…」
「あ、そうじゃん。私が読みな~っておすすめしたやつ」
「その節はお世話になりました…」
早速頭が上がらない。
「宮田は『万葉集』についてだっけか?」
「そそ!今度うちと極めようね!」
「意味わかんねぇ…」
そこからは他愛もない会話をいくつかして、
そのうち僕も集中し始め無言になると、宮田も静かになった。
_____________________________
「…ふぅ」
2本目のモンスターを飲み干し、3本目に手を伸ばした時、
「ね。起きてる?」
何時間かぶりに、宮田の声が聞こえた。
「起きてるよ。そっちこそ、寝てたんじゃないの?」
「…ん~?まぁ…寝てないよ?」
さっきよりもスローダウンした声が、スピーカーから聞こえてくる。
「起こしてくれるんじゃなかったっけ?」
僕は冗談っぽく返し、缶に口をつけた。すると、
「古に ありけむ人も わがごとか妹に恋ひつつ 寝ねかてずけむ」
「なにそれ?万葉集のやつ?」
「そ。『昔の人も、今の私みたいに愛しい人に恋して眠れないのかな』みたいな意味」
ドキッとした。
思えば、僕の大学生活での思い出には、いつも宮田がいた。
ずっと仲良くしてきたからこそ、そういう関係で考えないようにはしていた。
ただ、気にならないかと言われれば、そんなはずはなかった。
よく一緒にいたから、周りの友人たちには何度も冷やかされてきたし、そのたびに弁解し続けていたが、そういう時は決まって胸がちくりとした。
「…へぇ。よくそれがパッと出てくるよな。さすがだよ」
「そりゃあね!極めてるし、それに…」
「ん?」
宮田が急に言葉を濁した気がして、僕はますますドキッとした。
「それより進んでるの?早くやらないと!ね!」
何かをごまかされたような気がしたが、それ以上追及する勇気もなく、僕はまた作業に取り掛かった。
________________________
カーテンの隙間から光が差し込み、机の上に細い光の線ができる。
さっき飲み終えた5本目のモンスターをその机に置いて、僕は大きく伸びをした。
「…よし。あとは最終チェックだけだな」
そういえば、と僕はスマホを手に取り、それと同時に宮田との最後の会話を思い出した。
「…まさかな」
その言葉とは裏腹に、僕は胸の高ぶりが抑えられなかった。
あの会話が途切れてから、僕は眠気など忘れ、黙々と作業に取り掛かっていた。
…いや。半分くらいは、あの言葉の意味が気になり集中できなかったが。
雑念を振り払うためか、あるいは僕自身の決意ができたのか、そのどちらかは自分でもよくわからない。気づけば、半分以上残っていた卒論は結論まで書き終えていた。
「…やっぱり、このままじゃだめだ」
やるべきことを終えた安心感からか、僕は不思議と自分の気持ちに正直になることができていた。
「こっちから確かめてみるべき、だよな」
意を決し、どうせ寝てるかな、と思いつつマイクに声を入れようとした瞬間
「おはよっ」
「!?」
「なに?寝てると思ってた?」
スピーカー越しに、いつもと変わらない明るい声が聞こえてきた。
「だいぶ進んだんじゃない?お疲れ様~」
まるでこっちの様子が見えているかのように、宮田はそう言った。
「…うん。あとは全体を見直すだけ。今日はもう寝るよ」
「あはは。朝なのにおやすみ~だね」
「…あのさ」
「ん?」
「いや。昨日の万葉集の…」
「ああ!あれね!」
ゴクリ…。
わずかな言葉と言葉の間隔すら、僕にとっては数分以上にも感じた。
そして、
「ドキッとしたでしょ?」
……
「…へ?」
「眠気なんて吹き飛ぶくらいに、ね?」
「…い、いや、まぁ…」
「ゆっくり寝てね。私もシャワー浴びて寝よっと♪おやすみ~」
一方的に電話が切られ、朝の部屋の空気も相まって辺りはしん、とした。
しばらくして、僕は立ち上がり、そのままベランダへ出た。
朝の空気は冷たかったが、なんだかそれすらどうでもよく思えるような、清々しさというか、ある種の敗北感というか、そんな気持ちが心を占めていた。
「やっぱ…敵わないな…」
思わず僕はニヤっとして、そんなことをつぶやいていた。
そして、少しだけいい夢が見れそうな気がして、ベッドへ向かった。
完成した卒論は、真っ先に彼女に見せるつもりだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?