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Last Goodbye

コーヒーの香りがする。名前を呼ばれている。彼の声だ。頬に指が触れた。目を開けたら目の前に端正な彼の顔があった。
「起きて。朝ごはんできたよ。」
鼻の頭にキスをされる。なんで起こさないんだよ、と僕は文句を言う。今起こしたよ、と彼は微笑む。そうじゃなくて、彼が起きる時に起こしてもらいたいのだ。眠りの浅い彼は、僕がかけた目覚ましよリも早く起きて、目覚ましを止めてしまう。それからシャワーを浴びて、朝食を作り、僕を起こして一緒に食べる。身だしなみを整えると、ぴしりとスーツを着て、仕事に出かける。それが毎朝のルーティーンだ。
彼が僕の部屋に居着いてもうふた月ほどになる。縁談が破談になった直後、彼はずいぶん落ち込んでいた。結婚相手にも僕にも辛い思いをさせた、両親をがっかりさせた、何をあんなに必死になっていたんだろうと言って泣いた。僕を抱きしめて、何度も何度もごめんと謝っていた。破談の原因になってしまった僕も、謝りながら泣いた。二人して抱き合って泣いて、そのまま眠ってしまったりもした。これからどうしたらいいのかわからない、両親に申し訳なくて実家にも居づらい、と彼が言うので落ち着くまでうちに居ていいよ、と言ったのは僕だ。友人たちには甘いだの利用されてるだの都合のいい避難所だのと散々罵倒されたが仕方がない。彼がこのまま僕と暮らすなんて思ってるわけじゃない。彼の未来に僕はいない。彼がまた自分の人生を完璧なものにするために歩き出したら、僕はその後ろ姿を泣きながら見送るしかない。わかっている。嵐が過ぎ去るまでのほんのいっとき、羽を休める場所になれるならそれでいい。

でもそれでいいと思っていたのはほんの数日だった。今は少し、いやかなり後悔している。一緒に暮らしたりなんか、しちゃいけなかった。手を離すつもりなら、傍にいたりしてはいけなかった。彼がいることに、慣れたりしたくなかった。
うちに来た直後は口数少なく考え込んだりしていた彼だが、親戚から仕事のオファーがあったと言って翌週からフルタイムで働き始めた。朝早く起きて出勤し、夕方定刻には帰ってくる。復学するために自宅で論文執筆中の僕は、夕食の用意をして彼を待つ。彼は帰ってくると、僕が何をしていようがどこにいようが抱きしめて、ただいま、と言う。
穏やかに淡々と日々が過ぎていく。まるで何年も前からこうして暮らしていたかのように。そしてこれからもずっと続いていくかのように。でもそれは幻想だ。この生活には終わりが来る。今は執行猶予中なだけだ。来月か、来週か、明日かもしれない。別れの時は必ずやって来る。彼と過ごす時間が積み重なっていくにつれ、僕の心はどんどん重くなっていった。期限付きの幸せは辛い。期限が決まっているわけじゃないから尚更辛い。辛くて、悲しくて、寂しいのに、幸せだ。

そして予想よりも早く、それはやってきた。金曜日の夜だった。彼は普段より少し早く帰ってきて、夕食の下拵えをしていた僕を抱きしめるといつものようにただいま、と言った。僕は少し慌てた。夕食の準備は半分もできていない。不器用だから時間がかかるのだ。
「もう少しかかるから。シャワー浴びてきて。」
そう言っても彼は僕を離さない。
「二人ですれば早いよ。シャワーのあと、一緒に作ろう。」
二人でシャワーを浴びた。それ以外のこともした。それから二人で夕食を作って食べた。ほとんどいつも通りだった。でも夕食の皿を一緒に片付けていた時、彼は言った。
「明日実家に帰るよ。そろそろ両親と話をしないと。」
喉が詰まった。やっとのことで、そうだね、とだけ返した。彼はそんな僕を見て、濡れた手で僕の手を握った。
「大丈夫。日曜の夜には帰って来るよ。」
そう言って笑った。

その週末はほとんど眠れずに過ごした。いつ鳴るかわからないタイマーがセットされたような気分だった。タイマーが時を刻む音を聞きながら、薄暗い部屋で仕事をするでもなく、家事をするでもなく、ただひたすら膝を抱えて取り留めのないことを考えていた。そして日曜の夜、彼は本当に帰ってきた。ソファにいる僕を見つけると、抱きしめてただいまと言った。両親と何を話し合ったのか彼は何も話さなかった。僕も聞かなかった。
週末ごとに彼は実家に帰るようになった。何を話してきたのかは相変わらず何も語らなかったが、回を重ねるごとに表情が明るくなっていった。建設的な話し合いができて、前に進もうとしているのだ、と僕は思った。彼のためには喜ぶべきことだ。わかっていたはずだ。彼は進む。僕を置き去りにして。そろそろ僕と暮らすのはやめたほうがいいと言わなくちゃいけないと思った。頭の中でタイマーがチクタク言い続けている。自分で止めた方がいいとわかっている。でも言い出せなかった。
それから数週間後の土曜の午後、実家にいるはずの彼から電話がかかってきた。夕食を外で取ろうと言う。珍しいことだった。外で話したいことがあるのかもしれない。いよいよその時が来たのかもしれない。さよならを言う時が。

彼が指定した場所は街でも三本の指に入る高級フレンチだった。セミオープンのテラスの一角に仕切りがあり、目立たないように周囲の目を遮ってある。修羅場になってもいいようにかな、とつい深読みした自分に苦笑する。もしこれが彼との最後の晩餐なら、泣いたりしたくなかった。案内してくれているメートルに気づかれないように、僕は深く息を吸い込んだ。
彼はもう席についていた。僕を見て柔らかな笑みを見せる。すっきりした表情だ。目には僕の大好きな、強くてまっすぐな光がある。きっと進むべき方向が定まって、やるべきことがはっきり見えたのだ。そしてやるべきことリストの一番上にあるのは、僕と別れることなのだ。鼻の奥に馴染みのある痛みが走って、僕は狼狽した。まだ何も言われていないのに、もう泣きそうだった。景色を見る振りをして、涙を誤魔化す。
「珍しいね。こんな高級なところでディナーなんて。」
「大事な話があるから。」
静かな、決意を秘めたような声で彼は答えた。僕は途方に暮れた。やっぱり無理だ。覚悟なんてできていない。彼の口から別れの言葉を聞く覚悟なんて。
「一つだけ、お願いしてもいいかな。」
震える唇で、僕は言った。彼は僕の涙を見て、少し眉を顰め、いいよ、と言った。
「ちゃんと話をしたいと思ってるのはわかるけど、できれば話は聞きたくない。なんの話かはわかってるし、困らせるようなことはしない。今日は一緒に美味しい料理を食べて、少し思い出話なんかもして、ここを出たらそれぞれの家に帰りたい。帰るべき場所に帰って眠りたい。」
彼はしばらく無言で僕を見つめていたが、ふ、と息を一つ吐いて目線を落とした。
「わかった。先に食事にしよう。」
そう言うとすらりときれいな指先でウェイターに合図をした。ウェイターがやって来る。準備万端だったようだ。既に皿を手にしている。僕は慌ててナプキンで目元を拭った。
ウェイターがうやうやしく置いた皿に僕はあれ、と思った。皿に銀のクローシュがしてあったからだ。最初はアミューズのはずだ。蓋がしてあるのは珍しい。ウェイターはよろしいですか?と小声で彼に尋ねてからクローシュを持ち上げた。

花が敷き詰められていた。その真ん中に小さな箱が収まっている。開けなくても、何が入っているかはすぐにわかった。顔を上げたら、彼は微笑んでいた。その笑顔がみるみる滲んでいく。
「これでも、話聞きたくない?」
言葉が出てこなかった。彼は自分のナプキンで僕の頬の涙を拭ってくれた。そして僕の手を取ると、真っ直ぐに僕を見た。
「美味しい料理を食べて、少し思い出話をして、それから帰るべき場所に帰ろう。二人で。一緒に。そしたら話を聞いてくれる?」
彼の手を握り返した。もう一度小さな箱を見て、うなづいた。しつこかったタイマーの音は、もうどこからも聞こえてこなかった。

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