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Shade, Haze, Dim Light

控え室は珍しく静かだった。別室からスタッフの話す声が微かに聞こえてくる。誰かの足音。エアコンの低い振動音。車のクラクション。都会の日常につきものの雑音はどれもどこか遠い。間近に聞こえるのは彼の吐息だけだ。
眠る彼を起こさないようにそっと抱え直す。凛々しい眉、綺麗な鼻筋、笑顔のためにあるようなカーブの唇。頬の丸みが取れて、顎のラインがシャープになってきた。少しずつ大人の男になりつつある。雛鳥の産毛はもうわずかにしか残っていない。美しい大きな羽根が生え揃ってはばたく準備ができている。そう感じることが増えてきた。

今朝スタジオにやってきた彼は少し様子がおかしかった。おはよう、と声をかけても返事がない。朝は眠そうなことが多い彼だが、挨拶もしないなんてことはこれまでなかった。注意する間もなく隣に腰を降ろすと僕にもたれかかってきた。慌てて彼を抱き止める。
「どうしたの?眠いの?」
彼は僕を見上げると、喉の奥で小さく唸った。機嫌が悪いという感じじゃない。何か言いたそうな顔つきだ。少し待ってみたが何も言わない。ただ僕をじっと見上げている。彼の方がなにか待ってでもいるように。
挨拶がなかったことを咎めるためにわざと怖い顔をして身体を揺すったら、やっとおはようございます、と返ってきた。物言いたげな表情にそぐわない真面目な口調につい頬が緩む。
「おはよう。まだ時間はあるから少し寝ていいよ。」
彼はなぜか一瞬不満げに唇を尖らせたが、やはり眠かったらしい。目を閉じて数分後には僕にもたれたまま眠ってしまった。

甘やかしている自覚はある。一緒に仕事を始めた頃に比べて、僕らの関係はより対等に、そして親密になった。今は互いへの理解と信頼をベースにして、ひたすらに相手を思いやり、支え合っていると言っていい。そういう関係になれたのは、共に過ごした時間の濃さと、一番は彼の成長だ。
そう、彼は成長したのだ。
もう学生ではなくなるし、仕事の量が増えて幅もどんどん広がっていくだろう。実際彼へのオファーは増える一方だ。本格的に仕事に取り組むにあたり、僕らは何度かこれからのことを話し合った。二人での仕事のあり方について、彼のマネジメント契約について、レッスンやトレーニングの必要性について。そして、二人の個人的な関係について。
業界の先輩として、小規模ながらプロダクションを持つビジネスマンとして、僕は彼にあらゆる可能性を提示してみせた。どんな選択肢にもいい面と悪い面がある。こうしなさい、こうすべきだ、と言えば彼はそれに従ったかもしれない。でも僕は彼に自分自身で考えてくるように言った。
「どうしたいか答えを出しておいた方がいいと思うよ。」
偉そうに僕は言ったが、本当は怖かったのだ。自分の心に任せて、彼を縛り付けてしまうことが。

それが一週間ほど前のことだ。彼はうんうんと熱心に聞いていたが、ふと大人びた顔で僕を見た。
「よく考えてみます。でも、僕だけじゃ決められないこともある。そこはちゃんと教えてくれるよね。」
見透かされているようだった。答えを出せと言っておいて、自身ではまだ踏み切れない僕の逡巡を。
眠る彼を見下ろしながら、何か言いたげだったのはそのことだろうか、と考える。彼の重み、彼の体温、彼の吐息、規則正しい心臓の音、どれも体に馴染んだものだ。とても近くにある、今や日常的な、でも大切な感覚だ。手離せないとわかっている。だが彼の心はどこか遠くに感じることもある。彼が欲しいものは何だろうか。僕からの答え、そうなのだろうか。

名前を呼ばれてはっとした。目を覚ました彼がじっと僕を見上げていた。
「この間説明して貰ったこと、ずっと考えてた。」
まだ答えが出てないこともあるけど、と言って彼は体を起こした。
「いろんな選択肢があるってことはよくわかった。でも僕はそれを必死で選び取っていくよりも、誰かの期待に応えたいって気持ちの方が強いと思う。期待してもらうためにはまず僕が期待される人間になれるまで頑張らなくちゃいけない。そのためには大きな会社と契約して色々チャレンジすることもいいと思った。あと、これが一番大事なんだけど。」
彼は言葉を切って視線を窓の外に移した。言葉にするのを少し躊躇っているようだった。僕は彼の手を取って続きを促した。何か僕にとっても大切なことを言おうとしている気がした。
「前によく言ってたよね。日頃誰と一緒にいるか、どんな種類の人間と付き合うか慎重にしなさいって。自分に良い影響を与える人に出会えたらそれはとても幸運だし手離しちゃいけないんだって。」
「そうだよ。これからも大勢そういう人と出会って欲しいよ。」
彼は首を振った。
「わかったんだ。大勢は必要ない。それに、そういう人にはもう出会ったんだと思う。一緒にいるだけで僕が自信を持てて、頑張ろうって思えるような人に。これまであんまり真剣に将来のこととか自分がどうしたいか考えたことなかったからこの機会に考えさせてくれてよかった。自分にとって何が大切か、誰が大切かよくわかった。大切な人と一緒にいれば、どんな選択肢を選んでも、僕は大丈夫だと思う。」

彼は立ち上がると僕を見下ろした。彼の背後から朝の光が差し込んでいる。
「だからね、準備はもうできてるよ。」
低くて小さいがしっかりとした声で彼は言った。逆光で表情は読み取れない。顔を見ようと立ち上がった時には彼はもう僕に背を向けてドアの方へ歩き出していた。
去り際の言葉はほとんど囁き声だったが幸運にも僕は聞き逃さなかった。
「何て言われても答えはイエスだよ。」

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