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One Spoon of Happiness

目を覚ましたら、いい匂いが漂っていた。誰かが動く気配と、食器がかちゃかちゃ言う音。電気ポットがシューという音。窓から差し込む朝の明るい日差し。何もかも充足していた頃の記憶が蘇ってきそうになって、俺は慌てて体を起こした。思い出すな。思い出しても辛いだけだ。もう戻っては来ないのだから。

「おはよう。」
いつものように朝からきっちり身支度をして、これまたきっちりエプロンをつけたアイツが俺に笑顔を向けていた。挨拶にもならない呻き声を俺は返した。
「今日は青菜と卵のお粥だよ。食べる?」
「いらない。」
これもいつものやり取りだ。一度断ったら次からは訊かないのが普通だと思う。でも彼は諦めない。毎朝毎朝必ず食べる?と訊いてくる。俺は毎回いらないという。今ではそれが毎朝のルーティーンになってしまった。
俺はのそのそと起き上がって自分用に薄めのコーヒーを煎れ、彼の向かいに腰を下ろした。彼は何も言わずに青菜と卵のお粥を啜っている。色味が綺麗でうまそうだ。食べる気はないけど。
彼の作る料理は独特だ。肉でも野菜でも、全て測ったように同じ大きさにカットされている。調味料も常にグラム単位で測っているようだ。料理中はタイマーと温度計を手放さず、まるで科学の実験でもするみたいに真剣な表情だ。できてくる料理は整然として美しい。食べたことはないから味はわからないが。

実は彼のそういう真面目で緻密なところを、少し好ましいと思っていた。勘や感覚に振り回されずに合理的に物を作ろうとする姿勢が自分に似ている気がしたからだ。じっと彼の食べるお粥の皿を見ていたら、食べたくなったと勘違いしたらしい。少し食べなよ、と言って席を立とうとした彼を俺は慌てて制した。
「いや、いらない。いつもすごくきっちり作るなって思っただけ。」
「料理は化学と同じだよ。素材に何分火を通すかで味も食感も変わるんだから、同じ大きさにした方がいいに決まってる。建築もそうだろ?柱の高さが揃ってない家には住めない。」
「そりゃそうだ。」
俺はまだ建築を勉強中の身だが、シンプルで無駄がなく、機能性に優れた建物が好きだ。計算され尽くした空間こそが、いい建築のベースだと思っている。この家もそこが気に入っている。風の通り方、熱の逃げ方、人の動き方までもがさりげなく計算された設計になっているのだ。今までは、それさえ確保されていれば家は快適な場所になると思っていた。母さんが亡くなるまでは。
素晴らしく設計された完璧な家に母さんと二人、好きな勉強もできて、俺の生活は充ち足りていた。でもそれは家のせいじゃない。家だけでは充足しない。
「でも本当に記憶に残る料理って計算だけでは作れないね。」

はっとした。頭の中を覗かれたかと思った。俺の驚きには気づかずに、彼は続けた。
「昔のことだけど、かなり辛かった時期があって、眠れなくて、食事もできない状態だった。その日はとても暑くて、乗ってたバスの中で貧血起こして隣の人にもたれかかっちゃって。そしたらその隣の人が、大丈夫かって水をくれて、一緒にバスを降りてくれた。それからフラフラの俺を近くの屋台まで連れて行って、お粥を食べさせてくれたんだ。」
思い当たることのある話だった。眉をひそめて彼を凝視している俺を見て、彼はちょっと嬉しそうな顔になった。
「その人は俺が何日もろくに食べてないって言ったら怒り出して、周りの人に心配かけたら駄目だろって。心配するような人なんていない。って俺が返したらさらに怒り出して、じゃあ作れよって。心配してくれる人がいないなら、自分が心配する相手を作れ、そしたらもっとしっかり生きなきゃならなくなるぞって言ったんだ。」
それは俺だ。多分俺だ。何を言ったかはよく覚えていないが、何年か前、バスで具合の悪くなったやつにお粥を食わせてやった。そんなことを言ってたなんて。
「その時食べたお粥の味は忘れられない。屋台のお粥なんて、衛生的にやばそうだし、分量なんか適当で味が一定しないし、食べる気になれないと思ってたけど、見ず知らずのやつのためにバスを降りて、食べさせて、説教までするなんて。残すわけに行かなくて必死で食べたよ。その人のことも忘れられない。自分の面倒もまともに見られない俺と比べて、なんてハートの余白が大きいんだろうって思ったから。」
俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。自分が恥ずかしくなった。その頃はまだわかってなかった。大切な物を失ったりとても辛いことがあった時、人がどんなふうになるのかを。
彼は俺の表情を見て、思い出したことに気づいたようだった。でもそのことには触れず、言われたことも忘れられないよ、と付け足すと食器を片付けるために立ち上がった。

その日は一日中彼の話を思い返していた。夜になってもなかなか寝付けず、やっと眠ったら夢を見た。
母さんと一緒に朝ごはんを食べる夢。豆乳は体にいいからちゃんと飲んで、と言われて、匂いが苦手なんだよ、と返す俺。母さんこそ忙しくて夕食抜いたでしょ。俺一人で食べたんだよ。今日は早めに帰るから。そんな毎日の会話と毎日の食事の場面。いつの間にか食卓には人が増えて、えらく賑やかになっていた。
食事を作っているのはアイツだ。食べる順番が違う、野菜を残すななどと他のやつに文句を言っている。俺はうるさい、早く食え、と言い返しながら、なぜか楽しそうに笑っている。不思議なことに母さんも一緒にいる。一緒に笑っている。

目を覚ましても母さんの笑い声が頭から離れなかった。でもなぜか昨日までよりも悲しくなかった。何が幸せだったのか、なんで満ち足りていたのか思い出したからかもしれない。
「おはよう。」
いつもの朝のルーティーン。テーブルには湯気のたっている食器が二つ。アイツがこっちを向いて笑っている。俺はいつものようにのそのそと起き上がると、訊かれる前に彼に声をかけた。
「スプーン取って。」
見ると彼の手には、もうすでにスプーンが二つしっかりと握られていた。初めて食べた彼の料理は、よく食べる屋台のよりもはるかに美味しかった。

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