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Cananga Odorata

外は静かに温かな雨が降っていた。市街を見下ろすホテルの最上階スイートで窓際に座った僕は、湿った空気に滲んで瞬く車のライトをぼんやり眺めている。
今僕がここにいる事は誰も知らない。ただ一人を除いて。
彼に会うのはいつも深夜。
友人にも、マネージャーにも、もちろん仕事上のパートナーにも、秘密にせざるを得ないから、月に一度会えればいい方だ。時間もほんの数時間。僕も彼も仕事のスケジュールは分刻みだし、何時間も行方不明にはなれない立場だから。
でもそんなに頻繁に会いたいってわけでもない。会うのは恋しいから、と言うよりセラピーのようなものだ。

ドアが開く音がした。部屋のライトは消したままで待つのが二人の間の数少ない約束のうちの一つ。暗がりの中にシルエットが現れる。顔がはっきり見えるよりも早く、間違えようのない彼の匂いがした。いつものフレグランス、少し混じった雨の匂い。首筋にしがみついたら、耳元で彼が微かに笑ったのがわかった。
そのまま抱き上げられて、ベッドまで運ばれた。二人がしたいことが終わるまで言葉は交わさない。それがもう一つの約束。話をするのは後だ。仕事はどうだったとか暑かったとか疲れてないかとか、どうでもいいし時間の無駄だ。まずはお互いにやりたいことをする。したいだけ、したいようにする。我慢もしないし気遣ったりもしない。それが最後の約束だ。

前髪をかきあげられて目を開けた。まだ部屋は暗いまま。彼の瞳だけがぼんやりと光って見えた。
「水飲む?」
目だけで頷く。まだ声が出ない。手足も痺れたままだ。しばらく動けそうになかった。ベッドサイドのライトを付けてスマホを取り上げた彼を黙って睨みつけるしかない。
「まだ駄目?」
「あと一時間待って。三十分でもいい。」
かすれた声をやっと絞り出したら思いがけず懇願口調になった。僕が甘えていると思ったのか、彼は体を捻って僕の隣に片肘をついた。
「メールのチェックだけ。」
「駄目。ビデオコール来たらどうするの?僕もう嫌だよ。カーテンの後ろに隠れるのは。」
「こんな夜中に来ないよ。うちの子はよく寝るんだ。」

"うちの子"のことを話すとき、彼は必ず滲むような笑顔になる。その気持ちはよくわかる。僕にもそんな風になる相手がいるから。笑顔をじっと眺めていたら彼はなに?というように片眉を上げた。
「僕とのこと知ったら怒ると思う?」
「どうかな。意外と読めないところがある子だから。黙ってた事は怒るだろうね。」
「でもそろそろいいんじゃない?」
彼はふと真顔になり、何が?と言いながら僕を抱き寄せた。都合の悪いことを言われたら体で黙らせる気だ。
「言っても、いいんじゃない?僕のことじゃなくて。彼のことを本気で想っているって。もうそろそろちゃんと言ったら?」
こういう話は今までも何度かしたことがあったけど、ここまで踏み込んだのは初めてだった。彼はふっと息を吐くと僕から視線を外した。
「そう思う時もあるよ。言えば応えてくれる気もする。でもまだわからない。それが彼にとって本当にいいことなのかどうか。」
つまり愛されている自信はあるし、自分のしたいようにできないほど相手を想っているということだ。誰よりも手に入れたい相手と毎日一緒にいて、愛を伝え、愛を乞い、それでも最後の最後には手放す覚悟をしていたら心に澱のようなものが積もっていってしまうだろう。それでも本心を告げないなんて、抱くこともしないなんて。でも辛くても彼は待つつもりなのだ。自分も、相手も、次に進める準備が整うまで。

「そっちはどうなの?優しい優しい彼でもさすがに怒るんじゃないの?」
自分の話は終わり、とばかりに彼は黙ってしまった僕の頬をつついた。
「絶対に怒らない。ちょっとびっくりはするかもね。でもきっと応援するとか言い出すよ。そもそも怒ってくれるような相手なら、こんなことしてない。」
「大切に思ってくれてるんだよ。」
声が優しかった。泣きそうになる。
「大切に思ってくれてる。いつも励ましてくれる。何を言っても何をやっても怒らないし僕のことを世界一可愛いって平気で言うし、休みのたびに僕を実家に連れて行きたがるし、僕に恋人ができてもその相手も丸ごと大切に思うなんて言うんだ。馬鹿みたいに優しい。それにちょっと抜けてて、忘れっぽくて、私服のセンスは最悪で、すごく、すごく可愛い。」
好きなんだね、と言って彼は僕の頭を撫でた。
「でも絶対に僕のものにはならない。」
唇を噛んだ僕を彼は抱きしめてくれた。彼も優しい。そして彼も僕のものじゃない。
「でも、愛は愛だよ。人を一人何もかも所有するなんてありえない。結婚してもお互いの余白は必要だし。今彼が差し出している気持ちはちゃんと受け取って、自分の気持ちもちゃんと渡した方がいい。一つの形に拘らないで、二人で心地いい場所を探すこともきっとできるよ。」
僕の背中を撫でながら、ゆっくりと言い聞かせるように彼は言った。自分にも言い聞かせているみたいに。

そろそろ秘密の時間は終わりだった。それぞれ別の人に恋をして、相手の何もかもを手に入れたいと望みながら、想いすぎて、臆病すぎて、水溜りの中で立ち止まっている二人の時間。
「じゃあまた。辛くなってきたら連絡してきなさい。」
「そっちもね。」
わざと高圧的な感じで返事をしたら、彼は一瞬窘めるように目を細めたが、結局柔らかな笑みを残して帰っていった。部屋に来た時の獰猛な感じはすっかりなくなっている。僕にとって彼との時間がセラピーなように、彼にとってもそういう効果がきっとあるのだ。
スマホの電源を入れたら、メッセージが届いていた。優しすぎる可愛い彼からだ。
「どこか行ってるの?もう寝たんなら返事しなくていいよ。おやすみ。でも明日は起こして。」
見た途端頬が緩んだ。優しくて、可愛くて、でも絶対に手に入らない人。それなのに誰よりも大切にしてくれる人。
愛は愛。本当にそうだろうか。自分と同じ色の愛でなくても、互いに受け入れる事はできるのだろうか。答えはわからない。自分一人で答えを出すものでもないような気がした。
メッセージにスタンプだけの返事をしてから、僕はアラームをセットした。明日も大切な人を起こすために。




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