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By the Sea

真夜中を過ぎてもまだ昼の蒸し暑さが残る駐車場で、僕は彼の住むコンドーを見上げた。場所は知っていたが来るのは初めてだ。電話をしてエントランスを開けてもらう。もう着いたの、と彼は焦っていた。部屋の掃除でもしていたのかもしれない。ベッドのシーツを替えたのかな、などと考えてしまって少し恥ずかしくなる。ここに向かう前の電話で「僕をあげる」とは言ったけれど、彼がそれをどう捉えたかはわからない。もともとそういう方面のアンテナが彼はとことん鈍いのだ。
エレベーターの鏡に映った自分の顔がふと目に入った。頬が赤い。シャワーも浴びずに飛び出してきてしまったから、撮影用のメイクがさっきの涙で少し滲んでいる。そんなこと彼は気にしない。そうわかってはいたけれど、僕は指先に唾をつけて目元の滲みと前髪を直した。

彼の部屋の前に立ち、数秒息を整える。呼び鈴を押したら待ち構えていたかのようにドアが開いた。いつもの笑顔でやあ、と迎えてくれるとばかり思っていたのに、現れた彼はどこか心細そうな、置いていかれた子供みたいな顔をしていた。長い睫毛が濡れていて、目元が赤い。彼も泣いたのかもしれない、と気づいた瞬間抱き寄せられてどちらからともなく口付けていた。唇を合わせたまま抱え上げられ、ゆらゆらと運ばれる間も僕はキスをやめなかった。何度も触れたはずの彼の唇が、まるで初めてのように甘かった。彼は僕を抱いたままソファに腰を下ろすと、僕の胸に顔を埋めてしくしく泣き出した。頭のてっぺんにキスを落とし、サラサラの黒髪を撫でていたら、後ろからよかったな、と声をかけられた。
ぎょっとして振り向いた。人がいるとは全く思っていなかった。玄関先でのキスも全部見られていたに違いない。ソファの向かいのオットマンに、よく知っている人物が座ってじっとこっちを見ていた。彼の長年の親友だ。びっくりして固まっている僕ににやっと笑いかけると、オットマンを引きずって抱き合う僕らの目の前まで近づいてきた。

「悪い。邪魔するつもりはなかった。少し話したいことがあるって俺が頼んだんだ。終わったらすぐに退散するから。」
僕は向き合うために体を捻ったが、抱きついている彼が離してくれない。仕方なく彼ごと向きを変えようと四苦八苦していたら、そのままでいい、と溜息をつかれた。
「俺はたいして年上でもないし、偉そうに先輩ヅラする気はない。でも少しだけ長くこの業界にいる仲間として聞いて欲しいことがある。こういう仕事をしてる以上、俺たちは商品だ。自分の意思だけじゃ思い通りにならないことも多い。マネジメントの意向、スポンサーの思惑、ファンの要望、いろんなことでがんじがらめになりやすい。その中で必死でもがいているといつの間にかそういう圧力を自分の意思だと勘違いすることがある。お前のためだ、といいながらお前のためにならない事をする奴は意外に多い。大事なのは普段から何を大切にしているかわからせておくことだ。大切な人や事を傷つけられたらちゃんと怒ることだ。今お前にしがみついているそいつも、俺の大切な友達なんだ。お前が傷つけるならまだいい、周りの奴らに傷つけさせないでやってくれ。
それからこれは、まだ泣いてる俺の親友に言いたいんだが、俺やそいつの前で今みたいに泣くのはいい。弱ったり傷ついたりした時はそう言っていい。でも相手と場所を選べ。お前が弱ると、お前を守ろうとして他の誰かを傷つける奴もいる。結局はお前に、いやお前ら二人にとっていいことにならないこともある。
言いたいことはこれで全部だ。余計なアドバイスだと思うが、お前らには嫌な思いをさせたくない。信頼できて一緒にいて一息つけるような相手はなかなか見つからないから、互いを大切にしてほしい。今の様子じゃそいつはあんまり頼りにはならないが、マッサージだけはうまいしな。じゃ、これで邪魔者は消えるよ。」

彼はやっと僕の胸から顔をあげると、手の甲で乱暴に涙を拭いて見送るために立ち上がった。戻ってきた時、涙は消えていた。
「いい友達だね。」
少しばかりの羨望を込めて、僕は言った。僕は知り合いが多い。でも数は少ないけれど、彼には堅い絆で結ばれた仲間がいる。
「うん。動じないし、考えがブレないしかっこいいよ、あいつは。でもジムのあと部屋までついてきたと思ったらさっきまでずっと説教だった。めそめそすんなって。」
そう言ってもう一度目を拭うと、僕との間に少し間を開けて腰を下ろした。さっきまで本物のコアラみたいにしがみついていたくせに。二人きりになったら急に恥ずかしくなったみたいだった。こっちを見ない。
「手紙ありがとう。」
距離を詰めたい気持ちを抑えて彼の横顔を見つめる。少し遅れてうん、とだけ返事が返ってきた。
「話がしたいって書いてあったから来たんだけど。」
彼は俯いたまま手をもじもじさせている。僕まで恥ずかしくなってきた。しばらくして彼はまたうん、と言った。我慢できなくなって彼の足の間に横向きに体を捻じ込む。下から見上げて無理やり目を合わせたらやっとまともな答えが返ってきた。
「会いたかったからそう書いたけど、話したいことは手紙に全部書いたよ。」
「なにか直接言いたいことはないの?」
鼻先が触れるか触れないかの距離でそう囁く。彼は困った時によく見せる表情で僕の唇を見つめている。またキスするのかな、とと思った途端、彼は急に目を輝かせ、あるよ、と小さく叫んで立ち上がると、スマホを持って戻ってきた。彼がいつも使ってるのよりも小ぶりなやつだ。それに最新機種っぽい。
「専用のを買ったんだよ。」
「専用って、僕専用ってこと?」
そうだよ、と彼は嬉しそうだ。
「これで連絡来ても見逃したりしないから。」
「持って出るのを忘れなければだけどね。」
「忘れないように毎朝連絡くれる?」
「やだよ。」
軽口を叩く。ロマンティックなムードはすっかり消えてしまった。でもそれが彼なのだ。彼といると僕はとことんガードが緩んでしまう。ただそばにいて、優しい彼の声を聴いていたいような気分になる。

それから彼はマッサージとストレッチをしてあげるからシャワーを浴びておいでと言って、あたたかくて大きな手で全身を丁寧にほぐしてくれた。軟体動物のように指先まですっかり脱力してしまった僕をバスタオルで包んでベッドまで連れて行き、バスタオルごと太い腕で胸に抱き込むと、おやすみ、と呟いて眠ってしまった。
僕も眠りに落ちかけて、ベッドのシーツが真新しいことに気づいた。もしかしたら僕が思うほど鈍感じゃないのかもしれない。伸び上がってそっと唇にキスしてみた。彼は起きなかった。朝になったら、シーツを替えた理由を訊いてみようと思いながら、僕は目を閉じた。


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