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[ A Coffee Shop ]

カララン、と入口のドアベルが音を立てた。俺はコーヒーをドリップする手を止めずにいらっしゃい、と声をかけた。店にやってくる客は限られている。一応はコーヒーショップだが、路地裏の人通りの少ないところにあるし、看板も出していない。エントランスのしつらえも古臭いし暗くて狭い。席はカウンターに8つだけ。入ってくる勇気のあるやつは少ない。
「おはよう。アメリカンふたつね。」
明るくて感じのいい声が返ってきた。数少ない常連客だ。顔を上げたら人懐こい笑顔がカウンターを覗き込んでいた。キュートなルックスと小柄な体型に騙されてはいけない。射撃の名手で武道はだいたい黒帯、笑顔は可愛いが市警の敏腕刑事だ。
「またチリを焦がしてる。」
後ろから現れた長身のハンサムが鼻をひくつかせてそう呟いた。こいつも刑事だ。どんなに暑くても常にスーツにネクタイ、昼でも夜でもサングラスを外さない。まるで映画に出てくるエージェントだ。実際かなりのエリートらしい。絶対にサングラスを外さないのは実はベビーフェイスなのを隠すためじゃないかと俺は密かに思っている。二人は市警の名物凸凹コンビだ。小柄で可愛い方をデニム、でかいハンサムをスーツと俺は呼んでいる。

二人にアメリカンを出してやりながら外の通りに目を凝らす。刑事コンビが現れたということはそろそろ彼が来る時間だ。この店のオーナー、俺の雇い主でもある。いや、雇い主というより持ち主、もしくは飼い主、と言った方がいい。彼は俺の全て。俺の生きる理由。俺の美しきご主人様だ。
彼のためにコーヒーを淹れる準備をする。彼は毎朝だいたい決まった時間にこの店に顔を出し、コーヒーを一杯飲む。残念ながら俺に会うためじゃない。凸凹刑事コンビと密談をするためだ。裏社会に生きる彼が市警の刑事と毎日やりとりをするなんて、なにやらきな臭いがそれには俺はなんの興味もない。その日の彼の体調に合わせた渾身の一杯を淹れて出すのが俺のこの店での役割だし、首を突っ込まないからこそ置いてもらえているという自覚はある。分を弁えるのも下僕の才能の一つなのだ。
ひたすらに窓の外ばかり眺めていたらスーツの方がまた、チリ、と呟いて顎をしゃくった。仕方なくカウンターに背を向けて鍋を掻き混ぜようとしたその時、彼が入ってきた。すらりとした長身にメッシュの銀髪。スーツは黒地に細かなシルバーのドット入り、シャツも光沢のある黒だ。若き起業家としては身なりが派手だし、ファッション業界にしては目つきが鋭すぎる。だがマフィアやギャングにしては知的すぎる。それが彼だ。今日も見惚れるほど美しい。

彼は動く時ほとんど音を立てない。滑るように一番奥のスツールに腰をかけた。顔の前で指を組むと無言で俺の目を見つめる。いつも通り肌は白くて滑らかだが、ほんの少し目の下に隈がある。目つきの剣呑さを裏切るふっくらとした唇が乾き気味だ。今日は熱くて濃いめがいいだろうと判断し、丁寧に淹れた一杯をそっと彼の前に置く。彼はもう一度俺を見つめてから静かに口をつけた。ほんのわずか、俺にだけわかる程度に口角が上がった。気に入ったらしい。それを確かめたいが、この店で彼に声をかけることは許されていない。仕方なくコーヒーを飲む彼を眺める。コーヒーを飲み、刑事コンビと短いやり取りをしたら、彼はすぐに帰ってしまう。上質なスーツの下の肌に最後に触れてからもう一ヶ月ほど経っている。見つめるだけじゃ足りない、恋しい、と視線で訴えていたら目の動きだけであっちに行ってろ、と返された。すごすごとカウンターの奥のコンロに向かいチリを掻き混ぜる。次に振り返った時、彼の姿はもう、消えていた。

[ Treat After Work ]

それから夕方まで客はほとんど来なかった。店の三階に住んでいる爺さんが昼前と午後に二回、日が陰る頃にはスーツがまた現れてコーヒーをふたつテイクアウトして帰っていった。特に営業時間は決まっていない。朝彼が来る時に店を開けておくこと、客に余計な口をきかないこと、特に彼には絶対に話しかけないこと、それだけがルールだ。店の売上なんてチェックされたことはないし、必要なものは出入りの業者が適当に運んでくる。俺は金を払ったこともない。考えようによっては気楽な生活だ。休みはないが、毎朝彼の顔が見られると思えば苦にならない。
俺は店の戸締りをすると二階の自室に上がった。小さなデスクとベッド、申し訳程度のキッチン、シャワーにトイレがあるだけの簡素な部屋だ。日課のトレーニングを終えてシャワーを浴びる。髪を拭きながらシャワーから出たところで、俺は立ちすくんだ。
「急ぎの仕事だ。」
部屋の真ん中に仁王立ちして俺にそう告げたのは、黒づくめの大男だった。決して小さくはない俺より頭ひとつ分はでかい。狭い部屋が余計狭く感じる。太い二の腕は仔牛くらい絞め殺せそうだ。こいつは彼の信頼する右腕兼ボディーガードだ。いつもJと呼ばれている。
「わかった。着替えるから...」
待ってくれ、と言い終わる前に布で口を塞がれた。急速に薄れる意識の中で認識できたのは、Jが急いでるんだよと呟く声と、剥ぎ取られて部屋の隅に飛んでいくバスタオルの残像だった。

「どうして裸なんだ。」
彼の声がする。顔を見たくて目を開けようとしたが、体がいうことを聞かない。
「急いでたし。ちょうどシャワーから出たところだった。」
これはJだ。二人で俺を見下ろしているらしい。
「強い薬は使うなって言ったろ。」
「新入りに準備を任せたら間違えやがった。」
やっと少し目が開いた。俺を見下ろす彼の顔がぼんやり見える。まだ目の焦点が合わない。
「起きたか。仕事だ。指示はJがする。」
姿がはっきり見える前に、そう言って彼はどこかへ行ってしまった。
Jから着替えと冷たい水を貰い、俺は仕事に取り掛かった。居場所を特定させないために薬で眠らされて運ばれるのはいつもの事だが、今回はきつかった。まだ頭がクラクラする。彼の顔すらちゃんと見られなかったのは残念だ。与えられたミッションはとある組織に属する全ての人間の交友関係を洗い出すことだった。ハッカーである俺の得意分野だ。とはいえ人数が膨大で思ったよりも時間のかかる作業だった。しかも急ぎだと言う。俺は連日徹夜して三日で複雑な蜘蛛の巣に似た人間関係図を作り上げた。

連絡用に渡されたスマホでJに任務完了の連絡をする。しばらくしてやってきたのはJでなく彼だった。深い燕脂色のシャツにチャコールグレーのスラックスを履き、服装だけならどこかの金持ちの御子息といった風情だ。彼はできたか、と声をかけて背後からモニターを覗き込んだ。
「思ったより時間がかかった。すまん。」
彼はモニターから目を離さず、いや、と呟いた。
「思ったよりも早かった。相変わらずいい腕だ。」
褒められてにやにやしていたら、彼が急に俺の方にかがみ込んだ。画面をスクロールしようとマウスに手を伸ばしたのだ。ホワイトムスクの甘い匂いがする。俺は思わず椅子ごと後ろに体を引いた。連れてこられてすぐ狭くて換気の悪い部屋に放り込まれて篭りきりだったから風呂に入ってない。もちろん着替えてもいない。
「どうした。」
振り返ってそう訊く彼は微かに微笑んでいた。面白がっているのだ。シャツから覗く滑らかな首筋を物欲しげに見つめながら俺は答えた。
「臭いだろ?寝てないし風呂に入ってない。」
彼は体ごと俺に向き直るとシャツのボタンを外し始めた。俺の視線がその仕草に吸い寄せられるのはもちろんわかってやっている。俺を見下ろしたままスマホで誰かに電話をかけ、手短にいくつか指示を出す。多分Jだ。後は頼んだ、と言って通話を切ると、逃げられないように椅子の肘掛けに手をかけて俺の髪に鼻先を突っ込む。覆い被されて彼の白い肌と甘い香りが俺を包んだ。
「確かに。さっさと眠らせてやろうと思ってたが、シャワーが先だな。」
手を取られて、来いよ、と囁かれたら俺には従う以外の選択肢はない。

長い廊下の突き当たりが彼の居室らしかった。コンクリート打ちっ放しの無機質な廊下と打って変わってホテルのスイートのような豪奢なしつらえだが、部屋を眺める間もなくバスルームに引っ張り込まれた。シャワーを浴びてこい、と外から鍵でもかけられるのかと思っていたら、彼が俺のシャツのボタンを外し始めた。
「おい、自分で...」
慌てて彼の手を掴む。彼は焦る俺を下から見上げると動くな、と命じた。
「触るな。終わるまで、じっとしてろ。」
そう言って手早く俺を裸にすると奥のシャワーブースに押し込んだ。自分もあっという間に服を脱ぎ捨て、入ってくるとガラスのドアを後ろ手で閉める。
「洗ってやる。」
棚にあるボトルからジェルらしきものを手に取り、彼は本当に俺の体を洗いだした。形を確かめるかのように、両手でゆっくりと。首から肩をなぞり、腕を撫で下ろし、指の先まで。胸から腹にかけて撫で回されてもまだ彼の肌に見惚れる余裕があった。向かい合ったまま背中に腕を回されたあたりからやばかった。息が乱れるのを抑えきれない。俺と彼とはほとんど身長が変わらない。鼻の先も唇も触れるか触れないか、という近さだ。たまに彼の吐息が頬を掠め、足が触れ合う。思わず両手で彼の腰を掴む。こら、と睨まれた。
「誰が触っていいって言った。」
勘弁してくれ、と目で訴えたが無視された。唇には楽しそうな笑みが浮かんでいる。俺の下半身にちら、と目をやると、一層笑みが深くなった。
それから彼は満足げな笑みを絶やす事なく、ゆっくり時間をかけて俺の全身を洗った。性器も尻のあわいもなんの躊躇もしなかった。ひざまづいて足を洗われる頃には、俺はガラスの扉に両手をついて荒い息を吐いていた。細かく震えながら。彼は丁寧にジェルと泡をシャワーで洗い流すと、濡れた俺の髪をかき上げ、両手で顔を掴んだ。
「いい子だったな。」
それからのことはあまりよく覚えていない。彼の唇、濡れて滑る肌、肩に食い込んだ歯の感触、彼のあげた声と濃密な匂い。全て途切れ途切れだ。とにかく許されることはなんでもやったような気がする。ベッドに移動して続きがしたいと訴えたことは覚えている。だが悲しいかな、まるまる三日間一睡もしていない。よろよろとベッドに運ばれたのは俺の方だった。目覚めたら、そこはもう見慣れた味気ない自分の部屋のベッドだった。

[ Paradise Falls ]

「大丈夫だって。ちょっと忙しいだけだって。」
そう言って可愛く小首を傾げたのはデニム。
「そんな顔するな。置いてきぼりにされた犬みたいだぞ。またチリが焦げてるし。」
これはスーツだ。チリより俺を心配しろよ、と睨みつけたがどうにも力が入らない。彼が店に来ないのだ。もう五日になる。俺が店を任されるようになってから半年近く経つが、こんなことは一度もなかった。どんなに短い時間でも、どんなに疲れた様子でも、毎朝俺の淹れたコーヒーを飲んで、俺の視線を受け止めてくれた。触れることができなくても、声すらかけられなくても、交わす視線には想いが篭っていると、勝手に俺は思っていた。たとえ一方の想いの方が圧倒的に比重が重いとしても。
「大丈夫だ。大丈夫じゃないと俺たちも困るんだよ。」
デニムの笑顔が珍しく弱々しい。思い切って尋ねてみる。
「なあ、何かあったのか?」
「あったにしても、話せるわけないだろ。」
思った通りの答えが返ってきた。肩を落とす俺にスーツが長い腕でカップを突き出した。
「アメリカンおかわり。なあ、これは架空の国の架空の話だが。」
しょぼくれた俺を見かねて何かヒントをくれる気になったらしい。デニムが脇腹を肘で小突くのに構わずスーツは続けた。
「裏社会を牛耳ってる組織がいくつかあるとする。そのうちの一つがデカくなりすぎて制御が効かなくなった。やりたい放題だ。そこで警察、いや、国家権力がその組織を分裂させるために対抗勢力を作った。コントロールできる犯罪組織のほうができないよりずっといいからな。」
俺は身を乗り出した。頼まれたアメリカンは後回しだ。
「対抗勢力はありとあらゆるシノギで先回りをして組織の資金源を叩いてきた。なにしろバックに国家権力がついてるから金があるし動きも早い。同時に組織の主要メンバーを洗い出しては誘惑したり脅したり叩き潰したりして弱体化に努めた。もう少しだ。もう少しで息の根が止まりそうなところに来てるんだ。ところがだ。」
そこでスーツは言葉を切るとため息をついた。同時にデニムもため息をつく。この二人はよくシンクロする。
「国家権力の内部も分裂してたんだよ。」
「それは...潰したい方の組織側についてるやつが警察内部にいるってことか?」
「警察だけじゃない。国家権力って言ったろ?」
そういえばこの間求められたのはそういう類の組織の情報だった。秘密がありそうなやつを脅して金でも強請るのかと思っていたが、誰がどちら側か洗い出していたのかもしれない。
「組織と組織側についてる奴らは今最後の悪あがきをしてる。何が起こるかわからない。ギリギリの状態なんだよ。」
スーツはもう一度ため息をつくと立ち上がった。俺の表情を見ておかわりは諦めたようだ。デニムはカウンター越しに俺の肩をぽんと一つ叩くと、大人しくしてろよと言い残して去っていった。

その日俺は早々に店を閉めた。彼が心配で居ても立っても居られない。かといってできることは何もない。居場所も連絡先も知らないのだ。店の掃除をする気にはなれず、トレーニングにも身が入らない。食欲もない。夕方まで狭い部屋の中をうろうろと歩き回ってイライラが頂点に達した俺は、早々に考えることを放棄した。酒でも飲んで寝てしまおう、ビールでも買ってくるかと部屋を出た途端後ろからすごい力で羽交い締めにされた。振り向く間も無く袋のようなものを被せられ、突き飛ばされて床に転がった。あっという間に手足を縛られ、担ぎ上げられる。Jじゃない。体格が違う。俺を担いで階段を降りる足取りが覚束ない。だいたいJなら縛ったりしない。店で聞いたスーツの話が頭をよぎる。車に押し込まれて運ばれる間、俺は着いた先に彼がいてくれることだけを祈っていた。

「くそ、結束バンドなんか使いやがって。」
乱暴に床に投げ出され、拘束された手足の痛みに耐えていた俺の耳に聞こえてきたのは、待ち焦がれていた彼の声だった。心底ほっとした。自分の身の安全よりも彼が無事だったということに。
彼は俺の頭に被さっていた袋を取り、拘束を解いてくれた。縛られていた俺の手足を手に取って調べると、擦れて血の滲んだ場所をぺろりと舐める。
「かすり傷だ。舐めときゃ治る。」
俺は何も言わなかった。彼に聞きたいことも言いたいことも山ほどあったが、彼が話せないことも、聞かれたくないこともよくわかっていたからだ。代わりに彼の手を取って手のひらに口付けた。今回も仕事が終わったら俺は帰されてしまうのだろうがそれは嫌だった。現れない彼を毎日待つのは堪え難い。危険でも足手纏いでもそばにいたい。そう言いたいが言えなかった。
彼は俺に手を取られたまましばらく無言で俺の顔を見ていた。何か言いかけた、と思った時にドアが開いてJが顔を出した。彼に向かって顎をしゃくる。
「俺が戻るまでこの部屋を出るな。プールは使っていいがあっちの廊下には出るな。お前の顔を知らない奴も多い。命は保証しない。」
彼はそう言うと親指で俺の頬をひと撫でして足早に部屋を出て行った。

俺は擦りむけた手首をさすりつつ部屋を見渡した。大きなソファセットにキングサイズのベッド、本格的なキッチンまである。ホテルというより金持ちの別荘といった雰囲気だ。彼が出て行ったドアの反対側は広々としたテラスに繋がっていた。大きなプールの向こうに海が見える。プールの縁が海と繋がっているように設計された、インフィニティプールというやつだ。特にすることもないのでプールで浮かんだりしてみたがすぐに飽きてしまった。バスルームの立派なジャグジーも一人ではつまらない。彼はなかなか戻ってこない。巨大な冷蔵庫の中にはつまみやフルーツ、大量のビール等が揃っていたが相変わらず食欲もない。仕方なくビールを飲みながら夜通し待ったが、彼は帰ってこなかった。
結局そのまま俺はソファで眠りこけてしまい、目を覚ましたのは翌日の夕方だった。廊下の方から壁を蹴ったような大きな音がして飛び起きたのだ。次の瞬間ドアが開いて物凄い勢いで彼が入ってきた。大股でテラスに出るとその場で服を脱ぎ捨て、下着のままプールに飛び込んだ。俺も慌ててテラスに出てそっと様子を窺った。彼はプールの端から海を見ていた。離れていても立ち上る怒りのオーラが見えるようだった。何かうまくいかないことがあったのか、誰かが下手でも打ったのか、理由はわからないが彼が苛立っていることは確かだった。
俺は服を脱ぐとプールに入り、音を立てないようにそっと近づいた。恐る恐る背後から腕を回して抱きしめる。彼は鋭い眼差しで遠くの一点を見つめ、肩で息をしていたが俺を振り解いたりはしなかった。彼の肩に顎を乗せ、しばし二人無言で海を眺める。陽はまだ沈んでいない。濃い橙色の光が波間にきらきらと反射して黒い島影を浮き立たせていた。
「綺麗なとこだ。」
彼の呼吸が落ち着くのを見計らって俺は呟いた。彼は海を見つめたまま大きく息を吐いた。
「砂浜がないから人が入ってこない。海だけを眺められる。」
意外にも答えが返ってきた。見下ろすと十メートルほどの高さの崖になっていた。彼のいう通り下に砂浜はなく岩場が広がっている。落ちたら命はなさそうだ。
「この景色が気に入ってるんだな。」
彼はわずかに首を傾けて俺の顔を見た。強さを増した夕方の光が彼の顔の陰影を際立たせる。瞳に太陽が映って輝いている。まるで燃える炎だ。
「お前のことも気に入ってる。お前は何も聞かない。ここはどこか、何があったのか。普通は聞きたくなる。」
俺は驚いて少し目を見開いた。俺をどう思っているか彼が口にしたのは初めてのことだった。質問しないのは遠慮しているからだけじゃない、彼さえいれば他のことはどうでもいいからだ。俺がそう言うと彼は微かに微笑んだ。怒りのオーラはすっかり影を潜めている。さっき言えなかったことを、今なら言えそうな気がした。
「頼みがある。」
「ものを頼める立場か?」
彼は目を細めて軽く俺を睨んだ。気分を害してはいないと判断して俺は続けた。
「いらなくなったら、殺してくれ。古くなった道具みたいにほったらかしにしないでくれ。殺して、ここの崖から捨ててくれ。」
彼はしばらく無言だった。答えは貰えないか、と諦めかけた時、わかった、と呟く彼の声が聞こえた。
どう言うつもりで彼がそう言ったのかはわからなかったが、俺は満足だった。キスしてもいいかな、と彼の横顔を窺っていたその時、彼を呼ぶ大きな声がした。Jだ。Jはテラスに走り込んでくるとプール脇の手すりに駆け寄り、手早くロープを結びつけ、崖下に垂らした。
「ここから降りるぞ、早くしろ!」
彼は俺の腕を振り解くとプールサイドに上がり、濡れた体も構わず急いで脱いであった服を身につけた。部屋の外から銃声がする。俺は動けなかった。Jが先に崖下に器用に降りていくのを呆然と眺めていた。彼はJが崖下に着くのを見届けると手すりに登ってロープを手にした。行ってしまうのか、俺を置いて。目が合った。彼は俺の目を見つめたまま銃を取り出して俺に向けた。

撃ってくれ。声には出さず、俺は祈った。これで終わりなら、撃ってくれ。

永遠とも思える数秒があった。彼は撃たなかった。銃を下ろした次の瞬間、銃声が響いた。彼の左胸から真紅の花が咲いたように鮮血が飛び散った。何が起こったのかわからなかった。何もかもがスローモーションになった。周囲の音も聞こえなくなった。喚き声を上げながら駆け寄ろうとした俺の視線の先で、彼は捨てられたマネキンのように崖下に落ちて行った。

そして俺は、絶叫した。

絶叫した。

絶叫した。


[ Epilogue ]

最初に目に入ったのは見慣れない真っ白な天井だった。頭を巡らせて見えたのはぼんやりした色のカーテンと自分につながっている数本のチューブ。体が鉛のように重くて起き上がれない。どうやら病院にいるらしい、と気づくと同時に彼が崖下へ落ちていった時の光景がフラッシュバックして俺は両手で顔を覆った。あの後の記憶がない。殺して崖から捨ててくれとまで言っておきながら、なぜ自分がおめおめと生きて病院のベッドなんかで寝ているのか、理解できなかった。体は動かない、頭も働かない、何より混乱していた。残っているのは、衝撃と絶望の感情だけだった。看護婦がやってきてどこか痛みますか、と訊くまで俺は自分が泣いていることに気づかなかった。
何も答えない俺に看護婦は何か注射をして去っていき、俺はまた眠ってしまった。次に目を覚ました時にはベッドサイドに知った顔があった。スーツだ。
「気分はどうだ?」
そう尋ねるスーツの方が気分が悪そうだった。寝てないらしく顔色が悪い。うっすらと無精髭が生えている。話をする気分にはなれなかったが、俺の答えを待っている様子を見て仕方なく体が動かない、と答えると、呆れたようなため息が返ってきた。
「腹を撃たれたんだ。当たり前だ。」
覚えていない、と俺が言うと、スーツはまたため息をつき、ことのあらましを説明してくれた。彼の隠れ家を組織が急襲する情報を得たスーツとデニムは匿名の民間人から救助要請があったと嘘の通報をでっち上げ、現場に急行した。現着した時には既に銃撃戦になっていた。誰がどちら側なのか、誰が警察官なのかすらわからない乱れ打ちの中、なんとか隠れ家の最奥にある彼の居室にたどり着いた。そこでまた銃撃戦になった。決着がついた後、二人はテラスに倒れている俺を見つけた。だが彼の姿はどこにも見えなかった。
「俺の相棒に感謝してくれよ。倒れてるあんたを見つけて運んだのも、巻き込まれた民間人として処理したのも全部あいつなんだから。」
その肝心のデニムがいない。無事なのか、と一応尋ねてみる。
「無事だ。ピンピンしてるが、査問委員会に呼ばれてる。あいつが撃ったやつらの中にその場にいるはずのない警官と情報局のやつがいたんだよ。」
そう言いながらスーツは苦虫を噛み潰したような顔になった。やつれているのも、ため息が多いのも相棒を心配してのことらしい。だが俺が本当に訊きたいのはデニムのことじゃなかった。彼のことだ。訊くのは怖いが訊かなきゃいけない。躊躇している俺の表情で、察しのいいスーツは気づいてくれた。
「あいつのことか?正直それは俺にもわからない。行方不明だ。死傷者は全部回収したが、あいつの遺体はなかった。」
遺体、という言葉が胸に突き刺さった。胸を撃たれ、あの崖から落ちて生きている可能性は限りなく少ない。だが生死はわからない。もちろん行方もわからない。俺はどういう感情を抱いていいかわからなかった。生きたいのか、死にたいのかさえ、わからなくなっていた。

それから俺が退院するまでには数ヶ月かかった。心とは裏腹に、日に日に回復していく体が恨めしかった。病院から出た後どうしたらいいのか、いくら考えても答えが出なかったからだ。退院の日にはデニムとスーツが揃って迎えに来てくれた。傷が治ったとはいえ、相変わらず抜け殻の様な俺を二人は随分心配してくれた。俺の戻る場所はあのコーヒーショップしかない。それさえも彼がいない今、どうなるのかわからなかったが、数ヶ月ぶりに戻った店は、特になんの変わりもなかった。俺は亡霊のように店の中に佇み、ただ呆然としていた。店を開けても、もう彼は来ないのだ。やめてしまおうか、でも万が一、万が一彼が戻ってきたら?いくら考えても堂々巡りだった。
上の階の爺さんが店にやってきたのは、俺が戻って数日後のことだった。営業する気はなかったので帰ってくれと言いかけたが、爺さんは首を振って俺を制した。
「あんた宛の荷物を預かってた。持ってきただけだ。」
そう言って爺さんが差し出したのは、小さな小包だった。差出人の名前がない。開けてみると、それは一冊の本だった。英語で Walden, or, Life in the Woods とある。森の生活?中をパラパラとめくってみると書き込みが多数ある。様々な筆跡で書かれている所を見ると、多くの人の手を渡り歩いてきた古本の様だった。たいていは難しい単語の意味を他の言語で書いたものだ。中には感想めいた書き込みもあった。最初に目を引いたのは、赤い文字ではっきりと書かれた警句のような書き込みだった。
"In the total darkness, you will realise the brightness of the moon"
-完全な闇に包まれて初めて、月が明るいことに気づく-
数ページ後に、また赤い文字の書き込みがあった。同じ筆跡だ。
"If you take my hand, there will be no turning back"
-この手を取ったら、もう戻れない-
書き込みがあるページの本文とはなんの関係もない書き込みだ。もしかしてこれは俺へのメッセージではないか、そう思った。俺は必死でページをめくった。
"Love is fire, love is light"
-愛は炎、愛は光-
三つ目の書き込みを読んでもさっぱり意味はわからなかった。だがなんの根拠もなく、彼からのメッセージだと言う気がしてならなかった。最後の書き込みは「ガソリンスタンド」と言う文字と数字の羅列だった。電話番号ではなさそうだ。一晩かけて数字と睨めっこした挙句、俺は一つの可能性に賭けてみることにした。数字が緯度と経度で、ガソリンスタンドの場所を指し示している可能性だ。

翌朝早朝、最低限の荷物を持って俺は出発した。車もバイクもないのでターミナルで夜明かししながらバスを乗り継ぐことにした。最後のバス停に辿り着いたのは二日目の昼過ぎだった。目的のガソリンスタンドは辺鄙な山奥の国道沿いにあり、無人の自給式スタンドのようだった。営業しているかどうかもわからない、と俺が尋ねたバス停そばの屋台の兄ちゃんは怪訝な顔をした。バス停からは20キロ以上あるという。歩いていくしかない。there is no turning backという書き込みが頭をよぎる。戻ってコーヒーショップの亡霊になるよりマシだ。俺は水だけを多めに買い込むと歩き出した。
国道に沿ってひたすら歩く。入院で体力の落ちた体にはなかなかにきつかった。目的地に辿り着いても、そこに何かあると言う保証もない。西日に照らされて汗みずくになりながら歩き続け、俺がガソリンスタンドを見つけたのはもう日がとっぷりと暮れた頃だった。詰所のような小さな建物の非常灯がぼんやり灯っていなければ見つからなかっただろう。もちろん誰もいなかった。詰所には鍵がかかっていて入れない。俺は絶望しかけた。何でもいい、なにか彼に繋がるものはないか、一縷の望みをかけて、スマホのライトで詰所の中を照らしてみた。
「あった。」
思わず叫んでいた。詰所のデスクの上に。あったのだ。森の生活。送られてきたのと同じ本だ。
足元に転がっていた石を拾い、俺は詰所のガラスを割った。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、本のページを捲る。真ん中あたりに、同じ赤い書き込みがあった。本文の上にでかでかと書かれていた。

"ACTIVATE ALARM"  -警報を鳴らせ- 

それから数時間後、俺は疲れ果てて詰所の前のベンチに横たわっていた。ワンワンと耳障りな警報が鳴り続けている。詰所の壁にあった非常ボタンを俺が押したからだ。すぐに何かしら動きがあるのかと思っていたが、真夜中を過ぎても車一台通らなかった。もしかしたら、壮大な悪戯に引っかかったのかもしれない。水も食料ももう尽きてしまった。スマホの充電も持ってあと数時間だ。あたりはほぼ闇だ。このままここでのたれ死んでも、きっと誰にも見つからないだろう。獣に食い荒らされて、身元もわからないに違いない。それもいいかもしれない。でもどうせ死ぬなら彼に撃たれてあの時死んでしまいたかった。俺はそんなことを考えながらただ頭上の月を見上げていた。
その時だった。遠くから車の走行音が聞こえて俺は身を起こした。やがて月の明かりをかき消すようにヘッドライトがあたりを照らし、一台の車が入ってきた。眩しくてよく見えない。警備会社か、警察かもしれない。何もかもが黒い影だ。

だが助手席から降りてきた人物の輪郭だけで、俺はわかった。

俺の炎、俺の光。迎えにきてくれた。足が震えて立ち上がれなかった。ただ光に向けて手を伸ばした。黒い人影が一歩一歩近づいてくる。

黒い影は俺を見下ろすとこう言った。
「またシャワーが必要だな。」


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