When You Said Yes
何で読んだか忘れたけど、人の感情は20秒しか持続しない、と言う研究結果があるらしい。喜び、怒り、理性的だとその場では思っている判断ですら、なんらかの理由で20秒後には変わってしまう可能性がある、と言うことだ。もちろん愛の誓いでさえも。
長く続く愛情や悲しみというものがある、ということはわかっている。でもそれだって時間が経つにつれ薄れていく。少なくとも変わっていく。世界に変わらないものなんかない。晴れの日と雨の日があるように、エベレストの高さが10年前とは違うように、刻一刻と移り変わっていく。人の気持ちもそれと同じだ。
僕は気まぐれな人間じゃない。何事もよく考えて行動する方だし、行動には理由が必要だと考えているので衝動的に何かをするということは少ない。一瞬の感情に任せて言葉を発したり、判断したりする事はできるだけ避けたいと常に思っている。
それでも。たとえ20秒しか持続しなくても、よく考えた末の判断じゃなくても、誰かの感情や言葉が真実でないとは思わない。そのほんの一瞬、間違いなくそれはそこにあったのだから。
それに持続しないからこそ貴重だとも言える。考えてみれば僕らの毎日はそんな消え去っていく一瞬の積み重ねだ。嬉しいことも、楽しいことも、苦しいことも、日々消え去って過去へと流れていく。二度と同じ瞬間はやってこない。形作られては溶けて消えていく雪の結晶のように。
彼が「全部渡すよ」と言った時、僕のものになる、と言って微笑んだその瞬間、そこにはそんな雪の結晶が確かに存在したと思う。
だから僕は写真を撮った。あの時の彼の表情、キャンドルの光が反射した瞳の煌めき、ゆるやかな風が揺らした前髪、夜の海の波間のざわめき。
これから先何かが変わっても、二人とも同じ気持ちではなくなっても、あの瞬間が存在した事は間違いない。揺るがない真実がそこにはあったのだ、と僕は思う。そしてそのことが、僕のこれからの人生の支えにきっとなるだろう。そしてできれば彼にとってもそうだといい。
そんな思いが高じて、自分には分不相応な買い物をしたのが一週間前。永遠など信じないようなことを言っておきながら、自分でもおかしいと思うけれど、どうしても記念になるものが欲しくなったのだ。
彼にはまだ見せていない。大げさだと思われるかもしれないし、受け取ることで縛られているような気になるかもしれない。そんな事は望んでいない。実際のところ、あの答えが聞けただけで僕は満足だったのだ。
「そろそろどうするか決めないといけないと思うんだけど。」
僕の前に仁王立ちになって彼は言った。リハの休憩時間、みんなはそれぞれスナックをつまみに行ったり仮眠を取ったりしていて、スタジオには僕らしかいなくなっていた。
「どうするかって、何を?」
彼は大きな溜息をつくと、僕の隣にどかりと腰を下ろした。不機嫌そうだけど、取り返しがつかないってレベルじゃない。さすがに何年も一緒にいれば、雰囲気でだいたい掴めるのだ。これは謝る必要はないが、話はきちんと聞くべきレベルだ。
確かにここのところ、少しイライラしている感じはしていた。でもあれ以来二人とも殺人的なスケジュールで話をする時間も取れていなかったし、そのせいかと思っていた。
「いろいろあるじゃん。決めとかないといけないこと。どんどんスケジュール埋まってきちゃうしさ。行けなくなっちゃうよ。」
「行けなくなる?もしかして旅行に行きたいの?」
彼は横目でちらりと僕を見ると、つん、と顔を逸らした。唇が尖っている。まずい。今ので不機嫌レベルが上昇したらしい。僕は慌てて彼の膝に手を置いてそっと揺らした。
「りょ、旅行なら僕もいきたいよ、行こうよ。」
効果があったみたいだ。こっちを見た。唇は尖ったままだ。
「それだけじゃない。一応あるじゃん。ほら、式とか、会見とか、その前に挨拶回りとか。」
びっくりした。確かにそういう話をしたし、約束もしたけれど、そこまで具体的に彼が考えるとは思っていなかった。
「そんなことしなくていいんだよ。僕ら二人だけで...」
弾かれたように彼は立ち上がった。頬がみるみる赤みを増して、唇は一文字に結ばれている。完全に怒りモードだ。
「どういうこと?」
「誰にも言う必要はないよ、っていうことだよ。答えてくれただけで、僕は十分だし、すごく嬉しかった。二人だけの約束があればいい。友達や家族とも、今まで通りでいいんだよ。大切にしてるものを何一つ捨てる必要はない。そんなことさせたくない。僕はともかく、言えるとも思ってな...」
「もう言ったよ。」
持っていたスマホを落としそうになった。僕の驚愕の表情を見て、彼は顎を逸らし、ふふんと勝ち誇ったような顔になった。
「家族にも、マネージャーにも、友達にも何人か、もう言った。旅行に行くのは会見してからじゃないとダメだってマネージャーに言われたよ。あと、会社に言うのは一緒に行ったほうがいいって。」
「は...もう言ったの?僕になんの断りもなく?」
「自分だってなんの断りもなく秘密にするって決めてたんじゃん。どうしたいか聞きもせずにさ。全部かゼロかとか、追い詰めたくせに。こっちに選ばせといて何も捨てる必要がないってなんだよ。とにかく、もう言ったから。」
そっちもどうするか考えといて、と言い捨て、彼はどかどかとスタジオを出て行ってしまった。取り残された僕は呆然と彼の後ろ姿を見つめるしかなかった。もちろん、そのあとのリハの出来は散々なものだった。
帰宅した僕は、しばらく何も手につかずソファに座って外を眺めていた。彼の怒った顔ばかり目に浮かぶ。彼は感情が顔に出やすく、子供みたいに無邪気で直線的なところがあるけれど、その分周囲の人間の気持ちもいつも気にかけている人間だ。正直僕とのことをすぐに打ち明けられるとは思っていなかった。もし知られたら、どんな反応をするか怖がっているんじゃないかとさえ思っていた。
全部か、ゼロか、覚悟ができていなかったのは僕の方だったらしい。
ローテーブルの上の木箱を手に取る。思い切って買った記念の品。蓋を開けて均等に並んだ石を見つめた。彼の誕生石であるトルマリンだ。何にでも加工できるように、原石で虹と同じ七色を揃えた。これからどんな形にでもできるし、どの色を選んでもいい。変わらないものなんてない。でも僕ら二人が変わっても、取り巻く環境が変わっても、二人で選んでいけばいい。やっとそう思うことができそうだった。
僕はスマホを取り出すと、彼にメッセージを送った。
「今日はごめん。渡したいものがあるから明日会いにいく。」
送ったとほとんど同時に返事が返ってきた。OKのスタンプだけ。それでも彼が嬉しそうに笑った顔が見えた気がした。