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fallen

「おまえ、またきたの?」
ガラス戸越しに見えた黒い影に声をかける。ここのところ数日おきに姿を見せるカラスだ。開き戸を開けてやると、躊躇なく入ってきて店の奥の小さなスツールに飛び上がった。真っ黒な瞳、真っ黒な嘴、つやつやと光る真っ黒な羽根。カラスだから真っ黒なのは当たり前だけど、光沢のある羽根は青や緑、時にはピンクに光の加減で色を変える。近くで見るまでカラスがこんなに美しいとは知らなかった。
「そこがお気に入りだね。持ち主が帰ってくるまでだからな、使っていいのは。」
自分の口から出た言葉に苦笑する。帰ってくる?本当に帰ってくると自分は思っているのだろうか。

彼との出会いは突然だった。それは人生にいきなり降ってきた隕石のような出来事だった。まさに天から降ってきたとしか思えない。ある嵐の晩、彼は店の前に倒れていたのだ。倒れていた、と言うより置いてあった、もしくは落ちていたと言った方がいい。
その日は夕方から土砂降りの雨で、俺は早々と店を閉めていた。こんな天気に町外れの小さな花屋に立ち寄る客なんていない。そもそも誰も通りを歩いていなかった。夜中近くになると雨に加えて雷まで鳴り出した。ラジオの音が聞き取れないくらいの雷鳴だ。その轟の中に、雷じゃない物音が混じった。店のガラス戸が何かに当たってがしゃん、と音を立てた気がしたのだ。恐る恐る二階の窓から店先を見ると、黒っぽいものが横たわっていた。人が倒れてるように見える。慌てて階下に降りてガラス戸を開けたら、それは黒づくめの若い男だった。
一瞬死んでるのでは、と怯んだが、まつ毛が微かに動くのが見えて生きているとわかった。よく見ると黒づくめに見えたのは彼を包んでいる黒い布のせいだった。歩いてきてここで倒れたんじゃない、布に包まれて置いていかれたに違いない。何か物騒な気がして怖くなったが、そのままにもしておけなくて仕方なく彼を自室に運んだ。目を覚ます気配はない。びしょ濡れの布の下は全裸だった。寒いのか微かに震えているが怪我はしていなかった。適当に髪と体を拭いてやり、途方に暮れた。どうすんだよ。こんな素性の知れない奴拾っちゃって。怪我もしてないし、きっと酔っ払いの悪戯だ。朝になったら叩き起こして、出ていってもらおう。

「自分でも不思議なんだよな...」
スツールに陣取ったカラスに話しかける。最初に店に入ってきたときにはびっくりして大騒ぎしたが、鳴く訳でもなく、イタズラするわけでもない。試しに食べ物や水を差し出してみたが見向きもしない。ただ時々訪れては店の中で数時間を過ごし、またどこかに去っていくカラスにすっかり慣れてしまっていた。今では店が暇な時の貴重な話し相手だ。
「なんかほっとけなかったんだよ。俺は優しいのかな?おまえのことも追い出さないし。」
彼が忽然と姿を消してからもう数ヶ月が経つ。忘れられない。彼を見つけた日のことも、その後のことも、何もかも。

彼が現れた夜の翌朝は嘘のような快晴だった。俺が目を覚ますと彼は窓際に座って空を見上げていた。大丈夫か?と声をかけたら無言で振り向いた。黒々とした瞳には何の感情もなかったが、何か目が離せないような引力があって俺は思わず腹減ってないか?と聞いた。雨は止んだんだから出ていってくれ、と言うつもりだったのに。どうかしている。
何を聞いても彼は答えてくれなかった。名前も、倒れてた理由も、全裸だった理由も、もちろんどこから来たのかも。ただ黙って俺を見つめるばかり。そうこうしてる内に店を開ける時間が来てしまって、俺はとりあえず彼を階下に連れて行き、店の隅のスツールに座らせておいた。ショックで口が聞けないのかも知れない。落ち着いたら話すかも知れない。それでもダメなら病院に連れて行こう、いや、警察かな?
「なぜ白い花がないの?」
鋏を取り落としそうになった。いきなり彼が口を聞いたのだ。
「白い花は好きじゃないんだ。何となく悲しい感じがするから...」
びっくりしすぎて、思わず質問に答えてしまった。彼は何事もなかったかのように店の花を眺めている。俺は仕事の手を止めて彼に近づいた。
「話せるんじゃん。名前、教えてよ。」
彼はしばらく無言で俺の顔を見ていたが、やがて視線を床に落とすと小さな声で呟いた。
「僕の名前は知らない方がいいと思う。」
「ふうん。帰るとこはあるの?」
「帰るところはある。でもあるものを見つけないと帰れない。見つけた後、受け取ってもらえたら帰れるんだ。」
「あるものって何?誰に受け取ってもらうの?」
「それはまだわからない。しかるべき時がきたらわかるはずなんだ。」
だからそれまで、ここにいてもいいかな?と彼は続け、静かだが雄弁な瞳で俺を見上げた。何が理由かは自分でもわからないが、俺はそれに抗えなかった。

彼は店を手伝うようになった。これまで何をして暮らしていたのかは知る由もないが、花の名前はすぐに覚えたし、不器用ながら簡単な花束なら作れるようにもなった。不思議なことに彼は客を見ただけで望んでいる花束の雰囲気がわかるようだった。俺が注文を聞いている間に彼はさっさと花を選んでくる。それを軽く束ねて見せると、客はたいていなぜわかったの?と驚き、満面の笑みになるのだ。
おかげで店の売上は順調だった。褒められることも増えた。常連客には花の仕入れ先を変えたのかと聞かれたほどだ。どうして、と聞いたら前よりずっといい匂いがするのよ、と言われた。花だけじゃない、店もとてもいい匂いがするようになったと。
彼との暮らしは静かで穏やかで、ずっと前からそうやって暮らしていたかのようだった。シンプルな一人暮らしで家族もいない俺の生活に彼はすんなり溶け込んだ。彼はとても小食で水しか飲まないし、いつも果物を少し摘むくらいだった。小鳥みたいだ、と揶揄ったらにっこり笑った。
「小鳥というには大きすぎると思うけど。でも羽根ならあるよ。」
「羽根があるって?」
「誰にでも翼がある。君のも見えるよ。」
何を言ってるのかはわからなかったが、彼特有の不思議な物言いには慣れてしまっていた。それより俺は彼の笑顔に釘付けだった。笑ったのはその時が初めてだったからだ。
俺たちは毎日一緒に店で働き、仕入れや買い物にも一緒に行った。夜は小さなラジオで音楽をよく聴いた。彼は歌が好きみたいだった。繰り返し流れるヒット曲にお気に入りができるとラジオに合わせて口ずさんでいた。俺も古いギターを引っ張り出してきて一緒に歌ったりした。
歌い疲れると一つのベッドで一緒に眠った。寒い夜に互いに暖め合う仔犬の兄弟みたいに。誰かの温もりを感じて眠るのはまた両親が生きていた子供の頃以来だった。名前も素性もわからない相手とこんな風に眠れるなんて思ってもいなかった。それがこんなにも自分に安堵感をもたらすなんてことも。

数ヶ月が過ぎる頃にはずっとそんな暮らしが続いていくような気がしていた。しかるべき時なんて来なければいい、そう思っていた。ほんの少しの不安を心に抱えながら。
でもそうはいかないみたいだった。ある夜二階の窓を閉めようとして、俺はそれに気づいた。店の前に背の高い男が立っていたのだ。暑い夜だった。しかも真夜中なのに黒っぽいスーツをきちんと着ていた。胸騒ぎがして彼を振り返るとベッドに入って眠っていた。ほっとしてもう一度窓の下を見たときには男はもういなくなっていた。
しばらくは気のせいだと思い込もうとしていた。一度見ただけで、すぐにいなくなったじゃないか。うちとも、彼とも何の関係もないのかも知れない。大丈夫だ。誰も彼を連れて行ったりしない。そう自分に言い聞かせた。
でも現実は残酷だ。俺はまた見てしまった。今度は昼間だ。通りを挟んだ向かいの店の軒下に、黒いスーツの男が立っていた。店の方をじっと見ている。血の気が引いた。幸い客はいない。床の掃除をしていた彼の手を掴んで二階に駆け上がった。
「一緒に逃げよう。」
彼の手を握りしめて俺は囁いた。
「どうしたの。」
彼は落ち着いていた。俺の目を覗き込んで、大丈夫?なんて言う。
「大丈夫じゃない。こないだから店を見張ってる奴がいる。捕まえに来たのかもしれない。買い物に行く振りをして逃げよう。俺も一緒に行く。」
「君は一緒には行けないよ。それに、逃げても無駄なんだ。」
「でも。」
目から涙が溢れた。もう離れ離れになることなんて、考えられない。それが一番怖かった。彼は指で俺の涙を拭うと、俺をベッドに腰掛けさせてその前に蹲み込んだ。
「一緒には行けない。君を死なせたくない。怖くないの?」
「怖くない。離れたくない。」
泣きながらそう言うと、彼は小さなため息をついた。
「僕なんかのために、どうして。」
「だって。」
愛してるから。と言いかけて口をつぐんだ。そんな話はしたことがなかったから、いきなり告げる勇気はなかった。ただしゃくりあげながら彼を見つめることしかできなかった。彼は俺を見つめ返し、一言ありがとう、とだけ言った。

その日は早く店を閉めたけど、結局俺たちは逃げなかった。俺が不安がっても彼は落ち着いたままで大丈夫としか言わないし、例の男はまたすぐに消えていた。君は疲れてるんだよ、と言って彼は俺のためにカフェオレを淹れてくれた。彼の肌によく似た色の甘いカフェオレを飲みながら、いつしか俺は眠ってしまったらしかった。
気がつくと部屋が明るい光で満たされていた。起き上がろうとしたが体が動かないし声も出ない。目も開けられなかった。彼がすぐそばに立っている。目を開けなくてもそれは分かった。指が目蓋に触れた。頬をなぞり、唇に触れて、首筋から胸に移動して、胸元にあった俺の手を握った。彼が行ってしまうのだとわかった。一人で。俺を置いて。
「泣かないで。」
彼の声がした。遠くから聞こえるような声だ。
「連れて行きたいけど、君は死んでしまう。そんなことはできないよ。」
それでもいい、と言いたかった。何も言えず、顔も見ずに別れるのが辛かった。
「探していたものを見つけてくれてありがとう。受け取ってくれて、ありがとう。僕はいかなくちゃいけないけど、またきっと会いにくるよ。」
それきり部屋は闇に包まれて、俺はまた眠ってしまった。

翌朝目が覚めたら、彼はいなかった。
まるでもともといなかったみたいに、何の痕跡もなかった。俺に残されたのは、いつも彼が座っていたスツールと、彼が好きだった小さなラジオ。それからまたきっと会いにくると言う言葉だけ。
「ひどいと思わないか?」
彼のスツールを拝借しているカラスに聞いてみる。
「いきなりやってきて、いきなりいなくなるなんてさ。そのうえ会いにくるなんて、期待させてさ。」
本当にいつか帰ってくるのだろうか。鼻の奥がツンと痛んだ。
掃除用のホウキを握りしめて静かに泣く俺を、カラスがじっと見つめていた。




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