見出し画像

【個人解釈】Overdose

1.変に間の悪い嘘が嫌い

カーテンから薄く込む陽の光に、薄く目を開けた。
少し明るく照らされた光を頼りに記憶を手繰る。
切り傷の残る腕で少しの間自分の瞼を塞ごうとして、目の端にちらりと見えた薬の箱と、床と机に無数に散らかるPTPシート。
乱暴に錠剤を取り出したせいで、グニャグニャと曲がった鈍色のそれが、陽の光を受けて乱反射する。

ああ、「また」やったんだなと、そう思った。

少し冷えた腕が瞼の熱を奪うようにやさしく溶けた。

ベッドの枕元に放り投げられたスマホにSNSの通知がポンと鳴る。

「ん、」

床には脱ぎ捨てられた衣服と、男性器の着いたベルト…ペニバン、所謂、癖(へき)専用の玩具が転がっていた。
ベッドの横に引き寄せられたゴミ箱は、いつもなら机の隅にあるはずだ。
そして、ベッドサイドに置かれたティッシュも。
いつもは、それも机の上だ。

乱雑に丸められたティッシュが転がるゴミ箱は、まるで枯れかけの白の薔薇の束が乱雑に押し込められているように見えた。
そこにメッセージカードのように添えられた避妊具のパッケージの、それ。
開封済を示す乱雑に封の開いた薄いそれは、薔薇のようにくしゃりとされたティッシュのどれかに包まれているのだろう。

「こんなこと、やめようよ」

かつて自棄を止めようと自分の手を握ったそのヒトを、
唯一自分を叱咤してくれるそのヒトを、オーバードーズしたぼうっとする頭のまま、欲に任せて、押し倒して。
―――――――――――――汚した。

甘く溶ける意識と、声と、熱と。
まとわりつく粘着質な音と、体温。
嬌声。背中に突き立てられる痛みも、また甘露で。

ただ、やるせなさと、情けなさと、ぶつけようのない怒りと。

…いや、他人にぶつけるものでもないのだ。
すべてのベクトルは自分に向けられているのだから。

こんなこともできない。
侮蔑、呆れ、絶望、放棄。
だから、逃げた。追及するヒトを振り払い、差される指に目を瞑り、罵声に耳を塞いで、馬鹿にするなと赤の他人に爪を立てた。
ウソでも自分に甘い言葉を吐いてくれる人がいればそれでよかった。

「そんなのほっときなよ」

ああ、君だけは傷つけたくなかった。

でももう、遅い。
言い訳なんてない。だって体が何よりも覚えているから。

頭がぐらりと揺れながら、眉尻を寄せながら必死に自分を呼ぶ声は。
躰が揺さぶられるのに合わせて叫ぶ声は。

「ごめんなさい・・・・っ、あ、ごめ・・・な、さ、、」

甘い感覚に交じって聞こえる、懺悔。
関わってごめんなさい、なのか?
知ったかぶりしてごめんなさい、なのか?

その真意はわからない。
ただ、自分が「やってはいけないこと」をしていることを知って。
それを「善意」と「正義感」で止めようとしたのだ。
強く歯を噛み締めて、ただただ体を揺らした。
ああ、壊れていく自分達。
君の悲鳴を、懺悔を、自分に手を伸ばしたばかりに巻き込まれてしまった、巻き込ませてしまった。
それは、その懺悔は、自分だけが知っていればいい。

床に散らばった衣服を拾い、下着を持ち上げ身に着ける。

背中に回した腕でホックを着け、ぱちん、と響く肩紐のゴムの音。

大きめのTシャツを頭からかぶると、ベッドにそっと膝をかける。
きしりと、音が鳴った。

ベッドの横には、君が眠っている。
涙の痕が少し残っていて、自分のした事が夢でもなんでもないことを示していた。

精神的なショックを受けると、人間は記憶をシャットアウトするのだという。
自分は時々、記憶が飛ぶ時があった。
何も覚えていなくて、気がつくのは、全てが終わったあと。

両親の母親の家系に癲癇を持病で持つ伯母がいたと聞いたことがある。
その人は痙攣するのではなく、ふ、といきなり眠るように意識が飛ぶのだと言う。
そしていつの間にか倒れていて、いつの間にか机に突っ伏していて。いつの間にか箸を落とし、食器をひっくり返していたと。
引越し、子供の受験、結婚相手の親の介護とストレスが溜まっていた一時期は発作が酷かったと聞くその人は、子供も自立し、介護も終えて生活が安定してきた今も、薬が欠かせないのだと、いつぞや、親戚の集まりで話をしていた。
穏やかそうな人だった記憶がある。

自分もそうじゃないかと、疑って、回数が重なる度に確信して。

……でも、違った。
向き合わないといけない。

「・・・朝だよ」

ゆっくり揺すると、相手の瞼が薄く開いた。

「・・・おはよう」

かすれた声の君の瞳は、自分を映していて、でも寝起きのせいか焦点ははるか遠くだ。

「おはよ、」

ふんわりと、どちらともなく笑った。
どちらかは悲しげで、どちらかは寂しげで。

それが、たとえ偽りの・・・・アナログ放送のような、ガサガサで、古くて、解像度がとても劣るテレビで見るドラマのようでも。
それが今ひと時のウソであっても。
心地よいと思えたのは、一瞬なのだ。


2.甘いハッタリ

ハッタリ。
いい加減なことを大胆に本当らしく大げさに話すこと。その内容。

ハッタリとやらを、その子は話すでもなく、『身につけていた』。
そしてそのハッタリは、脆くて、チグハグで、私の言動一つで壊れてしまうことも、すべてを知っていた。

貴方・・・そう、貴女は。
いつからだろう、強いストレス――――例えば受験、テスト、成績、人間関係、バイトでの嘲笑、嫌がらせ、そんなことに耐えて耐えて、その矛先を、自分に向けだしたのは。

高校生の頃から学費を自分で賄っていた彼女は、バイトを掛け持ちし、中には、所謂「売り」も含まれていた。

汚された自分が許せなくて情けなくて、あの人は、自分で自分を傷つけ始めた。

それが自傷なのだと気づくのはそう難しいことではなかった。
彼女の腕や脚に巻かれた包帯に言及する人は誰もいなかった。
教師も・・・そう、大人でさえも。

折れてしまいそうにか細い彼女は、それでもその傷がないものかのようにふるまった。
体育の授業や、部活にも普通に参加する。
その学費が、どうやって捻出されているのかも、きっと誰も知らないのだ。

寂れたラブホテルから出てきた彼女は封筒から数枚の万札を数えては、悔しそうに唇を強く噛み締めていた。

それはきっと、私だけしか知らない。

「…大丈夫だよ、何言ってんの」

かつて、大丈夫かと、彼女に聞いたことがあった。
その言葉に、困ったように目線を右上にして、ん~とか、あ~、とか。歯切れの悪い相槌の後にそう言葉を返したのだ。

何でもないように、笑いながら。
歯切れの悪い言葉に、嘘だと、はぐらかされたと、そう感じた。

「変なの、突然そんなこときいてくるなんてさ~、ってか、この曲いいよ、一緒に聴かない?」

いつか話してくれる時が来るだろう。自分から無理やり聞き出すものじゃない。
都合のいい言い訳を自分に言い聞かせて、笑う彼女を見つめた。

きっとその頃から、彼女の心は罅が入っていたのだろうと思う。

ワイヤレスのイヤホンを片方耳に嵌め、私は彼女の肩に頭を預けた。
少しびっくりしたみたいだけれど、彼女はゆっくり柔らかく笑ったのだ。
いつかを待とう、と。
いつか、話してくれる。
その時は、絶対にこの子を守りたいと。そう思った。

でも私は、私がしたことは、ただの暖簾の腕押しなのだ。

成績が悪くない訳でもないのに、校内の素行が目に余る訳でもない彼女が頻繁に担任の教師から呼び出されるようになり。
えー、また雑用〜?なんて面倒くさげに苦笑いする、その度に少しだけ彼女の顔が曇ること。

放課後の教室、忘れ物をして取りに戻った時。
普段ならしないドアの施錠がされていて、中から聞こえる水音……例えば、『口の中に異物を詰められている』ような呻き声。それに優しくかけられる低い声。

私は、どちらの声も知っている。

消化器のしまってある壁のでっぱりに隠れていた私に幸か不幸か気付かず、何事も無かったかのようにドアの施錠を解除し、時間差で出ていく二人。
もう教室には誰もいないのに、締め切っていたせいで篭って何となく匂う、それ。
忘れ物のノートを机の中から取りだし、スマホでSNSを開き、今どこ?と、友達へと送った。
ポン、と直ぐに返事が来た。

2階のトイレ!
先生の雑用手伝ってたら、女の子の日来ちゃった〜!!マジ最悪!!!
スカートとか汚れてるし、ちょっと洗いたいから、先に帰ってて!

ごめんなさい、とキャラが手を合わせるスタンプと共にそのメッセージが書かれてあった。

スカート『とか』『汚れてる』
『洗いたい』

変なワードだけ強調して見えるのは何故なのだろう。
あんな現場を見てしまったからか。
あの子は、あんなことを、繰り返しているということを、ひたむきに隠していた事実に触れてしまったからか。

いってはいけないという警告と、知ってはならないと大きく鼓動する心臓、それぞれの警鐘が頭で響くのに、足音がしないよう静かに向かう先は、トイレ。
教室があるのは、2階だから。そのトイレは、恐らく、彼女のいる、トイレは。

女子トイレの前、並んだ個室に一つだけ閉められた1番奥の個室。泣きながら水を飲み干す音と、数秒後に嘔吐する声と、ばしゃりと濁った水音が聞こえる。
その合間に苦し気な泣き声が聞こえること。
声は間違いなく、彼女で。

たすけて、と。小さく小さく声を上げてすすり泣いていた。

音を立てないように早歩きで廊下を進み、頭で何も考えないように、何も想像しないように、何も想像出来ないように走って帰った。

大事な人だから、止めないと、と。
偽善だと怒るかもしれない。
放っておいてと罵られるかもしれない。

でも、心が堪らなくなったのだ。

友達が風邪ひいたみたいだから行ってくる、そう両親に告げ、温い暑さの中、彼女の家へ向かって走る。
知っていると。全部知っていると。
だから寄りかかってよ、と。
打ち明けるつもりでいた。堪らなくなって、貴女の家に駆けこんだ時。
辞めてほしくて。
止めてほしくて。

彼女は母と住んでいた。娘を、子供を養うために夜と昼と働き、懸命に育て、……そして、壊れた。
中学に上がってまもなく、ぱたりと家に帰らなくなったと言う。
帰宅した時、ごめんなさいという書き置きと共に机の上には娘名義の通帳とカードが残されていて。
勤め先に連絡すると、店の客と逃げたらしいというとんでもない話を教室であっけらかんと彼女は口にしたのだ。
1人暮しって自由で贅沢出来るし、ゲームやり放題だよ、なんて、にひひと笑っていた彼女の腕に巻かれた包帯、その下には、色んな感情が篭っていたと思う。

頼って欲しかった。

ただ、もう遅かったと気づいたのは、彼女の部屋につながる扉を開け放った時に振り返った、貴女の瞳が、光を映してなくて。

無数に散らばる錠剤のシート。

所謂「パキる」状態の彼女は、私がどんなに肩を持って揺さぶっても、吐き出させようと口に指を突っ込んでも、唾液がぐちりと音を立てるだけでなされるがままの人形そのものだった。

「なら…助けてよ。『アカリ』を」

焦点の合わない目で口角を上げた、君は、貴方は誰なの。

「夢でもいいからさ。悪い夢と思いなよ。これから『アカリ』がすることは」

その後は、流されるままに。
彼女の中にいる『アカリと名乗る誰か』に。
服を乱され、中を乱され。
口付けをするその人の姿は彼女そのものなのに、熱を求めるかのように触れる手つきは男性のよう。
ガチャガチャと何かを準備する音をぼんやりと聞いていた私は、再び覆いかぶさってきた影と、長い髪をかきあげる姿を見つめ、…彼女には絶対についてはいない“ソレ”を押し付けられた時、小さく、彼女の名前を呼んだ。

「…灯(アカリ)」

『アカリ』という人は、にやり、と、笑った。

「……そうだよ」

気づいてて、手を伸ばせなかった。
いつかを待ってた。
きっと話してくれるって。
ずっとずっと、待ってばかりで、動くのが遅くなって。
本当に、ごめん、ごめんね。

ぐっ、と腰が押し付けられ。
ぐちり、と。入り込んできた。


「ごめん…っ、な、さ……っ!」

3.問答で満ちていく

「…何してくれたの、灯(トモル)」

『ふは。何って。灯(アカリ)がずっとずっとしたかったことを代わりにやっただけだよ』

上半身裸に黒いパンツ、緩い癖っ毛。少し長い髪を緩くヘアゴムで束ねた後ろ姿。
立膝で暗闇にぽつりと座る男性を、アカリは見ていた。
アカリへ振り返り、してやったり顔で笑いかける男性、名は、トモル。

説明するには難しい、頭の中か、心の中か。
いつからか、嫌な記憶を忘れるようになった。
ストレスが溜まって泣きながら切り裂いた手や腕は、いつの間にかガーゼと包帯が巻かれ。

記憶のない行為に背筋を冷たくさせた時、いつだったか、夢か、なんなのか分からない曖昧な感覚の中。制服姿で暗闇を歩いていた先に、いつの間にかそこに『彼』は存在していた。

トモル。男。成人してる。あんたの別の『人格』。
怠そうなつり目で、いつか彼は私を指さしてそう言った。

アカリは、キッ、とトモルを睨みつけ、スカートの裾をぐしゃりと握った。

「そんなこと、私は頼んでない。勝手なことしないでよ」

アカリのその叫びに、心底面白くないという顔を向け、チッと舌打ちをするトモル。
のそりと立ち上がり、ぺたぺたと裸足でアカリの正面で止まった。見下げられている、と。視線で感じる。
トモルの足の甲を見ながら口を噤む。

『はは、よく言うよ。逃げたい、苦しい、…出来ない。それを叶えるために『僕』が生まれたんだ。むしろ感謝すべきじゃないか』

「どうして、」

あ?と低い声が聞こえる。

『どうして?
アカリの身体でもあるけれど僕の身体でもあるんだ。アカリが嫌なこと、逃げ出したかったこと、投げ出したこと。全部僕がやってあげたじゃないか。
ストレスをぶつけてくるうっせえ店長の罵声に耐えるのも。気持ちわりぃ手つきで触ってくるバイト先の先輩をいなすのも。カッターやカミソリで切った傷を手当てすんのも。色んな理由で呼びつけやがる担任の慰め役も。毎日泣きながらジジイに抱かれるのも代わった。身体を売る値段の吊り上げ方も僕が考えて僕がやった。毎日そんな奴らの相手してたら、相手が何が欲しいのか、何をして欲しいのか、どうしたら飛びついてくるかいやでも分かるさ。そして、アカリが1番欲しいものも、性別が隔てるからと諦めていたことを、僕が叶えてやっただろ?』

「…っ、」

返す言葉もない。嫌なことから逃げて、できないことは諦めて。
でもいつの間にか嫌なことは終わっていて、その感覚もなくて。

成長したんだと、割り切れるようになったんだと、勝手に舞い上がっていた。
そんな自分に、心底腹が立つ。
トモルが全部片付けてくれていたというのに。
自分が投げ出したゴミを、知らない自分が処理して、跡形もなく綺麗にして。
成長したんだなんて、錯覚だった。
全部押し付けて逃げていただけだ。
今まで通り、私は変わってなかった。

『むしろ感謝すべきじゃない?主人格はアカリのままで居させてやってるんだからさ』

トモルの方が何倍も大人だ。
いや、それも……そうなのか。いつだったか、トモルは自分で27だと言っていた。主人格の16歳の私よりも一回りは上で、要領も良くて。
私なんかよりも、ずっと上手く世の中を渡って行けるんだろうと思いながら。

「最低、」

『最低?…っは。よっく言うよ、弱虫のガキの癖に。手に入れたくてもできない、その努力もしない。でもでもだってだってで理由をつけて立ち上がろうともしない。境遇を割り切ることも出来ない。かと言って現状を変えてやろうと足掻くことすらしない…最低なのはどっちだよ』

「やめて、」

ッチ、とトモルの癖である舌打ちが響いた。

『逃げんな。せっかく僕が悪者になってやったんだ。あとはフォローしてやれよ。いつまで逃げ続けんだよ。いつまでガキの尻拭いしなきゃいけねえんだよ、いい加減にしろ』

「……馬鹿トモル」

『あーあーうっせえうっせえ。悪口は言われ慣れてんだよ。勝手にパキんじゃねえよ、逃げんな。受け止めろよ、正面から。いつまでもガキみてえに逃げ回ってたら、本当に無くしちゃいけねえもんも無くすぞ』

いけ、と光の先に押し出された。

4.Overdose

「…灯(アカリ)」

「星垂(ホタル)。…来てくれたんだ、」

「友達だもん。…灯のことは、幼馴染だし。…色々あること知ってたからさ」

シーツに顔を埋め、少し掠れた声に、灯は目を泳がせ。
ごめん、と、呟いた。

それに合わせて星垂も、ごめん、と呟いた。
灯は目を丸くして、慌てて手を振る。

「違う、違うよ、!なんで、星垂が謝るの?…謝るのは私なのに、」

「違くない。…私、知ってた」

「え、…なに、」

目を伏せる星垂は、言いにくそうに、口を薄く、開いた。

「灯がリスカしてること。…学費のために『売り』やってること。その中に…先生も、相手していたこと」

動揺を隠す余裕もなく、灯は目を躍らせる。
シーツを掴む指が白く、血の気を失っていく。
顔色も、どんどん…血の気が引いていくのを、感覚で感じていた。

「前にトイレで吐いてたよね。…先生が出した、アレ」

「…あ、。わ、私…」

「助けて、って。灯が言ってたから。…助けに、来たんだけど……遅くなって……ごめん……気付かないふりして、ごめん…押し付けがましくて……ごめん……」

星垂の鼻をすする声が少し遠くなる。
ぐるぐる、ぐるぐる。
記憶が巡る。
今まではトモルが黙って片付けていた『記憶』たち。
痛みも虚しさも。悔しさも。
ミキサーでぐちゃぐちゃにされたみたいに、感情が混ざっていく。
でも、感覚は全部全部、分離したまま。
悲しいものは悲しい。
痛いものは痛い。
悔しいものは悔しくて、抵抗できない自分が歯痒くて、怒りが湧いて。


震える喉で、息を吸いこむ。

『逃げんな』

トモルが中でじっと見つめている。

光──表の人格というステージから逃げるなと。
私の後ろ姿をずっと睨むように見つめている。
見られている。

前を向いたまま、光に当てられたステージから下りることを許されないまま、涙を流すしかなかった。
前を向いたまま、ぽつりと、灯は呟く。

『……どうしたらいいの、トモル』

はあ、という溜め息と、舌打ち。
これだからガキは、と、苛立ったような、トモルの低い声が響く。

『アカリ、お前バカか?隠してた事実に気づかれた動揺の方がでかいか?』

『だって…見られたくなかった、知られたくなかった、汚いもん、嫌だもん!星垂には、そんな裏面なんて知られたくなかった…嫌われた、』

『アカリ。バカなのか?いや、バカだわ。自分のことしか見えてねえ大バカ野郎。…やったことは変えらんねえよ。それは受け止めるしかない。そうやってでしか金稼いで生きられねえ状態だったんだから。でも見るとこ違うだろ。聞くとこ違うだろ。よく見ろ。よく聞けよ。そいつは。星垂は。何つって謝ってたんだよ』

『……助けられなくて、ごめん、って』

『それが、ドン引きした相手にかける言葉かよ』

『…』

『嫌いになった奴にかける言葉かよ?』

『……』

助けられなくてごめん、と。頭を垂れた、星垂。
見損なった、嫌いになった、そんな言葉は、一言も発していない。

トモルのした事とはいえ、私──アカリに犯されたと言うのに、その事にも触れずに。

ただ、早く手を差し伸べられなかった自分を悔いて、怒って、泣いていた。

『今度間違えたら怒るからな、アカリ』

『……うん』


──ゆっくり、息を吐いた。

「星垂、ありがとう」

「ごめん……ごめんなさい……」

「ううん。星垂がいてくれた意味を、ずっと考えてこなかった。…嫌なことから逃げてばかりで、汚いものは見せたくなくて、ハッタリ被ってた」

こくり、と。頷きながら、星垂は灯の話を聞いていた。

「私……。叶えたい夢があって、大学に、行きたくて。でもそれにはお金が必要で。……方法とかなりふり構ってられなくて……でも、辛くて」

「うん、」

ベッドの端に腰掛けた灯は、そっと後ろを振り返った。ちらりと見える星垂の肩にそっと、そっと手を伸ばし、指先で、触れた。

…暖かかった。

「…私ね、星垂が、好き」

「……うん」

「星垂と、大学に行きたい」

「……うん」

「星垂と、……一緒にいたい」

「居るよ」

ん、と両手を灯へと伸ばす星垂は、朝陽に照らされて、まるで女神のようで。
灯が、私がしたことは許されないことなのに、それでも、にこりと笑みを浮かべていた。
星垂の腕の中に、泣きながら身を委ねた。
思い切り泣いた。思い切り叫んだ。
思い切り怒った。思い切り、好きだと言った。

星垂は、黙って背中を抱きしめ、時折優しくさすってくれていた。

「私ね。……私の中に、男の人が、いるの。上手く言えないけど、私が私を支えるために生まれた、人格」

「灯に押し倒された時、アカリじゃないって感じたんだ。…その人が、今までアカリを支えてくれてたんだね」

「うん。……辛いこと、私が投げ出したこと、全部、その人……トモルが、やってくれてた」

「…そっか」

「……疑わないの?変だって、思わないの?」

「思わないよ。なんで、好きな人を疑うの?」

好きな人。
甘い蜜が、パンケーキに染み込んでいくように。
あつあつのトーストに、バターがとろけていくように。

なんて甘美で、甘露な、その言葉。
欲しかった、ずっとずっと欲しくて焦がれて、諦めて。
でも背中を押されて、逃げられなくなって。
そんな中で、ぽとりと落とされたひと雫はじんわりと隙間を埋めるように染み渡って。

「私は、灯が好き。灯自身が、…アカリも、それを支えてくれてたトモルさんも。全部含めて灯だから。襲われたことも、嫌とは思ってない。…本当だよ?そばで見てきた。頑張ってること。嫌いになんてならないよ。…大好きなんだよ」

『アカリよりもしっかりしてんじゃねえか』

『うるさい。…でも、ありがとう、トモル』

『へーへー。ま、僕はまた意識の底にでも潜るとすっかね。最近誰かさんのせいでずーっと働きっぱなしだったしな』

『バカ。嫌い。でも、…これからも頼りにしてる』

『僕を呼ぶのもほどほどにな。目の前のことを大事にしろよ。夢見てえに消えちまうかもしれねえぞ?』

ひらひら、と手を振りながら、暗い暗い闇…意識の底と言っていたその場所へ、トモルは歩いていった。
気だるそうな足取りに、でも少し、鼻歌混じりに。

…なんだ、嬉しいんじゃん。
それもそうか……トモルも、私だから。

「トモルが、目の前のことを大事にしろって」

「私?」

ふふ、と首を傾げる星垂を、灯は思い切り抱き締めた。

暖かい。
これが夢でもいい。現実ならもっといい。
甘みを持った罠だとしても。ハッタリだとしても。

今この瞬間は、何も考えなくていい、幸せな感覚なんだから。
どうか、止めないで。
この幸せという時間を。
満たされるという音楽(ヒーリング)を。

overdoseは、君がいい。

床に散らばるシートがまた、キラリと陽の光で煌めいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?