詩と小説のなにがちがうのか

文芸同好会二年のものです。三島由紀夫と舞城王太郎とドストエフスキーを愛しています。

僕は「詩」があまり好きではありませんでした。小、中、高校と国語の教科書なんぞに詩が載っていましたが、読んでみても意味がよく分からず、なんだかお説教みたいな愚痴みたいなことが書いてあるような感じがしましたが、「なぜそうなるか」という「理由」みたいなものが全然理解できませんでした。国語の先生は小説や評論については解説するのに、「詩」については全然解説しません。「詩はそもそも意味が分からないもの、理解できないもの、それでよし」みたいな感じだったような気がします。やはり僕は誰かと誰かが関係しあって話が進んでいく「物語」のほうが、読んでいて面白いし、好きだったのです。

そんな僕でしたが、高校三年の夏、受験へのストレスからか突然詩を書き始めました。すると、いままで読んでいてさっぱりわからなかった「詩の意味」が、なんとなくわかるような気がするようになっていたのです。

この記事では、「詩の意味が分からなかった僕が詩を書いてみて、なんとなくわかったような気がする詩の意味」を小説と詩と何が違うのかという視点から書いていこうと思います。

1.詩と小説のちがい「オチがない」

「オチがない」というのはどういう意味でしょうか。つまり「結論がない」ということです。

物語には結論があります。結論があるとはどういうことか?つまり、「始まり」があるということです。どうして物語では「始まり」と「終わり」を分ける必要があるのでしょうか。これは「始まり」の時点と「終わり」の時点とで状況に何らかの変化があるからだと考えます。たとえば「始まり」の時点で何かに苦しんでいたある人間が、何らかの方法を見つけて「終わり」の時点ではその苦しみを解消する。「始まり」の時点で仲の悪かったふたりが紆余曲折を経て「終わり」の時点では愛し合う、などなど、物語とは「変化」を楽しむもの、だと思うのです。

一方詩の方はこの「変化」がありません。詩の登場人物(もしくはその詩を書いている人)は成長もしませんし、誰かと仲良くなったりしません。「~だから苦しい」「~が美しい」「~が好き」見たいな「思い」があり、その「状況」があるのみなのです。「最後どうなるか」「どう変化していくか」は書かれないのです。まあ、実際人生この先どうなるかわかる人間なんて誰もいないのですし、完全に正しい予想というものを人間は持つことができません。だからこそ、「物語」には限界があります。詩は、その限界に融け込んでいくような意味があるのではないでしょうか。

2.詩と小説のちがい「詩は常に一人称」

「一人称の小説もあるじゃないか」ってそれはそうなのですが、物語では建前上、「彼はこう考えていた」というのが描写できることになっています。本来他人が何を考えているかなんて全くわからないはずなのです。他人の話す言葉や、表情や、身振り手振りから相手の気持ちを想像しているに過ぎません。しかし物語の書き手は、いろいろな人の気持ちや感覚を説明しています。説明できることになっているのです。

一方詩はひたすら「自分がどう思うか」なのです。詩には他者の気持ちは登場しません。ひたすら書き手の気持ちだけが表現されていくものなのです。

まあ、実際のところ人間というものは自分の気持ち以外の気持ちは説明できないようになっているはずなのです。よって物語というものは不可能なことをさも可能であるかのようにやっているところに、虚偽というか、真実でないところがあるわけで、その点で詩の方法は、「自分の思いうることを語る」点で可能なことをしているのであり虚偽がないわけです。

3.詩と小説のちがい「楽しみ方」

物語も詩も、人の心の中身がどんなものか、を扱うわけですが、上に書いたようにこの二つには大きな違いがあり、やはり楽しみ方は違ってくると思います。

まず物語は秩序や理論を楽しむものではないかと思います。こんなことを考えている人がいて、こんなことを考えている人がいて、二人出会うと、こんな風になります、という過程を楽しむもの。

次に詩は、秩序や理論以前のもの、思いや気持ちを感じ取るものなのだと思います。他人の考えていることなんてわからないのです。わからないのですが、やっぱり人間は他人が何を考えているか知りたいのです。詩は作者がひたすら自分の思いを分析、説明、表現していくことで、物語では表現しきれない領域の、人の思い、というものに触れられるもの、なのかもしれません。

おしまい

こんな感じです。読んで下さった方、ありがとうございました。

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