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2010年からのこと

私がでんぱを好きになって、秋葉原のメイドになるまでのこと
来年になったら何もかも忘れてそうな気がするので、書いておきます。

アキバと電車男と村上隆

私がメイドカフェを知ったのは、多くの人と同じように0年代の「電車男」からのオタクブーム、メディアを通してだった。
その時は特に何の感情もなくスルーしていて、その後美大に進学して美術の勉強を始めた。

当時は現代アーティスト村上隆が「GEISAI」開催など若い人と一緒に何かをすることに力を入れていたので、美大生だった私の周りにも「オタク=秋葉原で何かが起きている」という認知はあったものの(当時のホコ天はパラダイスだったようだし・・)八王子の山の上の学校から秋葉原は遠かった。

2010年に夢眠ねむに出会うまで私にとって秋葉原は特別な場所ではなかった。

ねむきゅんの刺繍

ネオコス展と夢眠ねむ

2010年の秋の日、ラフォーレ原宿に 愛まどんな のライブペインティングを観に行った。
それは本当にたまたまネットサーフィンで、ポスカを使ってほとんど落書きみたいな女の子のイラストを大量に描いている愛まどんなという作家を知り、1番直近のイベントに行ってみようと出かけてみただけだった。

若者で盛り上がった会場に、突然現れた「夢眠ねむ」。
ケイスケカンダのすけすけセーラー服を着て「化物語」の八九寺真宵の曲に合わせてヲタ芸を打つ夢眠ねむ。
ひとめ見て好きになった。

帰宅してからねむきゅんのことをネットで調べ尽くして、それから毎日ブログも読んだし過去のブログも全部読んだ。
知れば知るほど、ねむきゅんは私と同じだと思った。同じ時代で、同じような環境で、同じことに悩んでいる人で、悩みながらもめちゃくちゃ元気になんかをやってる人。
自分も若くて思い込みが強かったというのもあるけど、
卵から孵ったばかりの雛鳥のように、ねむきゅんを追いかけて毎日が過ぎていった。(ただの在宅オタ)

知らずに観に行ったそのイベントは「ネオコス展」という服飾系の展示の一部だった。
ネオコスとはネオ・コスプレのことで「二次元と三次元を行き来しコスプレ要素を日常で楽しむファッション」とのこと。
確かにこの頃、街にいきなり「クリィミーマミ」のTシャツ着てる女の子が増えて、最近クリィーミーマミグッズ多いな・・と思ってたらその後アニメのTシャツを着る女の子が増えて、フルグラフィックのイラストTが流行ったりした。
セーラーカラーの服が一気に増えたり、自分の観測範囲にはいなかったけどキズナアイが着けているようなうさ耳リボンが流行したり、二次元ぽさを取り入れたファッションが原宿・渋谷の女子に人気になった時期だった。

そのあとの流行は「ゆめかわ」「童貞を殺す服」「量産型」「地雷系」「派手髪」「カラコン」「地雷メイク」など、もはや元ネタが二次元なのかわからないくらい2.5次元的な表現は普及した感じがする。

このイベントはまさにそんな流れをいち早く察知して、シブカル祭に出ていそうなクリエーターと、いけてる小さなファッションブランドと、秋葉原で活動するアイドルを結んだイベントだった。
2010年の東京に、渋谷のおしゃれと秋葉原の勢いがちょうど同じ場所に集まった瞬間があったんだと思う。
この頃のことをいろいろ調べていると、今では当たり前になっているコスプレっぽいファッションや「可愛い女だけどめっちゃオタク」な人たちが一気に増えていく夜明けの時だとわかる。
(余談だけど、インターネットの情報は流れて消えてしまうよね。大切な情報はオフラインに残すようにした方がいいのかもしれない。10年前ですらリンク切れの嵐で、記憶を頼りに検索ワードを捻り出して頑張った。)

でんぱが歌う秋葉原

そんなカルチャーのど真ん中にでんぱ組.incがいて、オザケンのカバーなんて歌っていて、「強い気持ち強い愛」がめちゃくちゃに良くて、「街は深く僕らを抱く」という歌詞が元々の意味の渋谷(多分)からすごくきれいに秋葉原にスライドしていて、私は真っ直ぐにでんぱ組のファンになっていった。
でんぱが歌っているのは、秋葉原ブームの時にスルーしていたメディア的な「アキバ」じゃなくて本物のアキバだった。
とにかく当時の自分のもやもやした何かに彼女たちは相当クリティカルだった。

でんぱ組は今でこそ(準)国民的アイドルだけど、当時はアイドル界隈で浮いた存在だった。TIFのエンディングに呼ばれなかったという話がだいすき。

でんぱ組にとって「アイドル」もまた、メディア的アイドルらしさを演じるムーブではなく、地でいく本当の「アイドル」を作ろうとしているように見えた。
そもそもアイドルになりたかったのはメンバーの中で未鈴ちゃんしかいなくて、2011年のメンバー6人のうち4人がメイドカフェでの勤務経験があり、アイドルになるためにディアステに入るぞ!というよりはメイドのアルバイトの延長で気になる新しいお店「ディアステージ」に入ったらアイドルになっていたという感じだった。

モー娘。黄金期に子供時代を過ごしていたのにいまいちハマれなかった私には、アイドルに憧れてアイドルになった人よりもすごく身近に感じた。
芸能人になりたい女の子の中には「有名になりたい」と言う子がそこそこいるように思うけれど、その欲望が全く理解できないから。
でんぱメンバーの「アイドルをやりたい」というよりも「でんぱ組しかできない」という気迫が好きだった。

そうして、ねむきゅんを追いかけるうちに、ねむきゅんが働いていたメイドカフェに興味を持ってねむきゅんを育てた秋葉原は私にとっても特別な街になった。

昔書いたでんぱの布教

中野から

メイドカフェで働いてみたいと思ったけど、メイドカフェは10代の女子がやるものと思っていたので、年齢的に聖地秋葉原は無理なのでは?と思い住んでいた中野で1番寂れてそうなメイドバーを検索して電話した。
ビンゴすぎて思った通り1番変なメイドバーだった。
最初の電話をかけた時、ドラえもん(のぶ代)みたいなボイスのおばさんが出て、今すぐ面接これる?と聞かれて、明日なら・・と答えたこと今でもリアルに思い出せる。
そこで2011年から6年間働いた。ちょうど震災の影響で他の仕事が減って暇だったのでたくさんアニメ観て予習?して行った。
メイド=可愛い女の子が働くというより、オタクな女の子が働くというイメージをもっていた。

2018年に閉店した中野のお店

メイドバーとも言えるのかわからないメイド界の端っこの変な店で、接客を覚えたし、友達もできたし、面白いお客さんも知り合えたし、そこから橙幻郷のオーナーのみどりさんと繋がりができて2017年には突然秋葉原のメイドになったりした。29歳だった。10代にしかできないと思っていたのに、29歳で秋葉原のメイドになった。

中野のお店

振り返えれば2011年の夏から2021年の夏まで10年メイドをしていたことになる。中野時代はメイドというほどのもんでもなかったが・・メイドの世界の片隅にいたから今があるので不思議な気持ち。
この10年でねむきゅんは卒業し、推しのえいたそも卒業し、みりんちゃんは子供を産み、でんぱは10人組になった。
アイドルを信仰する強い気持ちは薄れているけど、私の周りには友達も仕事もメイドを通して出会ったものばかり。


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