見出し画像

焼き飯を巡る思い出

炒飯が好きで、ラーメン屋でも餃子屋でも中華料理屋でも、炒飯があると注文したくなる。そして注文してしまう。何が好きか説明は出来ないが、炒飯が好きなのである。

ところで、炒飯はどういう料理なのだろうか。ご飯を"炒める"という漢字だが、ご飯を"焼く"と書く焼き飯とはなにか違うのだろうか

【焼く】は、

火に当てて熱を通し、食べられるようにする。

【炒める】は、

野菜や肉などを、少量の油でいりつけて料理する。

らしい。分かるようで分からない

個人的に【焼く】は対象物をあまり動かさないで火をいれていくが、【炒める】は対象物を動かしながら火をいれていくようなイメージがあるがどうだろう。

では、もう少し踏み込んで、炒飯と焼き飯の違いではどうなのか調べると、

チャーハンが「卵を先に入れてからご飯を入れて炒める」のに対し、焼き飯は「ご飯を先に炒めてから卵を入れる」

らしい。漢字の意味、全然関係無かった。むしろこれでは卵が必須ではないか、高菜炒飯とかどうするんだ、て感じもするけど。

でも今日はそんなことはどうでも良い。

なぜなら結論として、炒飯も焼き飯もどちらも大好きだし、どちらかの名前をメニューで見かけたら無条件に食べたくなるし、両方がメニューにあるような店には出会ったこともない。1客としては炒飯と焼き飯の違いにさほど興味はなく、脳内で同じ食べ物として取り扱っていることになる。きっとね。

さて、何を書きたいか、というと、思い出である。いつから好きなんだろうか。思い出の中身が焼き飯なのか炒飯なのかは、厨房に立って作り方を見ていないから分からないが、ここから登場するのはおそらく焼き飯のような気がするので、焼き飯に統一する。

最初に好きになった焼き飯の思い出

初めて食べた焼き飯の記憶はないが、好きになった味は、素朴な家庭の焼き飯、という記憶はある。

飴色になるまで火を通した細かく刻まれた玉ねぎと、小さめに切られたウインナーの塩味、そこに卵、塩胡椒で味を整えたシンプルな祖母の作る焼き飯。幼い頃に口にした食べ物の記憶はほとんどないが、これは覚えている。

幼き私ががっつくように勢いよく食べたのか、美味しいと連呼したのかは定かではないが、たまに遊びに行ったときの昼食として必ず用意されたから、祖母には孫の好きな食べ物とインプットされていたのだと思う。

10代も半ばくらいになった頃に、飴色の玉ねぎの甘さと、ウインナーの塩加減のちょうどいい具合を自分でも再現しようと、何度か作ることを試みたが全然同じ味にならなかった。もしかしたら塩胡椒が足りなかっただけな気もするのだが、今となっては、元の味も、再現に失敗した味も思い出せないので、熟練の技術は2、3回のお試しで再現できるほど簡単ではない代物だったのだ、と思うことにしてる。

店で食べた焼き飯の思い出

学生になった頃には外食も増えていて。かれこれ20年以上前のことだが、その頃も今と変わらず世の中ではラーメンが流行っており、人気の店ともなれば軒先に列をなして一杯のラーメンを求める風景が当たり前だった。

気分に任せてお気に入りのいくつかの店のどれかに通っていたが、一番よく行ったのは、駅から遠く、しかし車を停めることも出来ないお世辞にもアクセス性と立地の悪い、正確に言うならとても不便な店だった。今風のおしゃれな外観、内装ではなく、いつからやっているのか?と思うくらい寂れた外観と内装の小さな古くからある店。にも関わらず、いつ行っても外には列が出来ていた。ご主人はそのときでも既にかなり高齢のおじいさんだった。最後に行ったときは、息子らしき人が手伝っていたから今はこの息子らしき人に代替わりしているのではないか?と想像している。(ちなみにググったら店はまだあるみたいで、食べログの評価は3.5)

その店の人気商品は味噌ラーメンと焼き飯。この組合せがセットになっているメニューをよく頼んだ。

味噌ラーメンは札幌の味を謳っている一品で、中太の麺に味噌のコクとバターの甘味がからむのだが、これがとにかく普通なのだ。とにかく普通の味噌ラーメン。もしこのラーメンのために不便な立地にも関わらず列をなしているとしたら、地元の味覚は総じておかしいと言わざるを得ないが、今食べログを見てもレビューは口を揃えて「ラーメンは普通」の文字が多数なので、まぁ、そういうことなのだろう。

そう、この列の先にあるのはラーメンではなく、焼き飯なのだ

この焼き飯がとにかく美味しい。大きい中華鍋でどれだけ炒めるのかというくらい時間をかけて炒められて出てくる焼き飯。セットなのにラーメンを半分くらい食べた頃にやっと出てくる焼き飯。これが美味しかったのだ。量も普通サイズにも関わらず大盛り。だが気がついたら食べ切っている。最後の一口が惜しい気持ちで食べ切る、そんな焼き飯

これまでいろんな店で焼き飯を数多く食べてきたし、だいたいどれも美味しいのだが、また食べに行きたいと思う焼き飯はそんなにないもんだなー、と思う。

次の思い出はきっとまた作られる

祖母の味をまた味わうことは今となってはもう出来ないし、きっとあのご主人の焼き飯を食べることも出来ないだろう。

だけど、またきっと美味しい焼き飯に出会うだろうし、そのときからそれは次の思い出になる。今は味だけでなく、誰と食べたか、誰とその時間を楽しんだかが大切に感じている。

だから次の焼き飯はきっと幸せな焼き飯になるに違いない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?