SDGsへの違和感の正体
今朝、スマホのフィード欄に「第2回BEST SDGs AWARD for University」におけるイェール大学の成田悠輔氏と学生のディスカッションに関する記事が流れてきた。この記事を読んで私がSDGsに抱いていた違和感が言語化されたように感じるためここに記す。
私は以前から”猫も杓子もSDGsを喧伝する”状況は異常であると感じていた。SDGsとは配慮事項であって宣伝材料ではないし、民間企業はSDGsに直接従うのではなく、SDGsを踏まえて作られる各国の政府方針に従うのではないかと考えていた。 これについて大学でディスカッションした際には、「MDGの反省に基づくSDGsのパートナーシップの理念を無視している」と指摘された。その上で「SDGsが喧伝され、配慮事項への社会的な認知度が向上することは”SDGsに基づく各国の政府方針”を実現しやすくする」として、この状況は悪いものではないと反駁されている。 この点について成田氏はファッションを例に以下のように述べている。
また東京大学の斎藤幸平氏も論点を企業全体に拡張して次のように指摘し、企業の取り組みが持続可能な社会に繋がっていないと訴えている。
つまり私は「持続可能な社会のためには企業の無制限な利潤拡大に対して抑制方向の圧力が必要になる」という前提が欠如したままに、企業によって喧伝されるSDGsに違和感を覚えているのだ。また私が各国の政府方針を経由して持続可能化を実践すべきと感じていたのも、企業に抑制の圧力をかけることができるのは政府のみだからである。
そして成田氏は”利潤拡大の抑制”という要素から導かれるSDGs特性を以下のように指摘している。
この”死ぬ人を決めるゲーム”とい我々のSDGsとの向き合い方を考える上で重要な要素であると考える。
まず、”死ぬ人”という社会の重要な決定事項を他国の影響を受ける国際的な取り決めの中で規定するのは主権国家として正しい行いなのだろうか? 社会契約説によれば国家にはその領域内において特別権能が与えられているのは自明であり、その権能の作用によって社会の在り方が規定されるのは間違いないだろう。そして主権国家体制下ではその権能の行使は他の国家主体に左右されないのは当然の権利である。
ならば”死ぬ人を決めるゲーム”の運用は自国の在り方や犠牲と利益の均衡を慎重に検討し、参加しない決断もあり得ると私は考える。 日本の国益はSDGsの提供している価値観と概ね矛盾することはないため、その受け入れに大きな抵抗はないだろう。しかし娯楽文化とジェンダー問題の関係など必ずしも全ての価値観が一致するわけではない以上、SDGsの取り扱いは慎重であるべきである。いわんや、統治体制の異なる国がSDGsを共有することがその国の利益につながるであろうか?
もちろん、大気・海洋・生態系など地球のコモンズを保護するために国際協調が重要であるのは間違いない。しかしSDGsはそれ以上のことを求めているルールである。
それは「主権国家にとって余計なお世話である」というのが私のSDGsへの違和感の正体と考える。先に述べた通り、必要な部分の規定についてもSDGs自体を商業化しようという試みによって歪められていることと合わせて、私がSDGsに違和感を覚えている事項がある程度言語化された。
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