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慰安婦 戦記1000冊の証言5 慰安所バッパ

生ける軍需品

 作家の吉屋信子は、廃娼運動に焦点を当てたルポ「ときの声」で、慰安婦にも触れている。
 名古屋の中村遊廓では、「半分ぐらい戦地の慰安婦に徴用されて、いくつもの楼がガラ空きになり」「《公娼》がついに生ける軍需品に転用されたのも《戦争悪》の一つである」と報告。
 その「転用された軍需品」に出会う。
 吉屋は「1941年の12月8日の日米開戦の日を、旅行中の当時仏印(現ベトナム)のサイゴンで迎えてしまった。
 その数日前、サイゴンの銀座通りとも言えるプラス・ドラ・カテドラル(大寺院広場)の舗道を安南人の車夫のひく洋車――日本の人力車と似たものが、二十数台連なって走る。
 どの車上にも日本婦人がきもの姿で乗っていた。どの女性もみな白粉やけのした顔色だった。その前後の車にはたくましい男が軍属の腕章を巻いて、婦人一行の監督のように昂然とそりかえっていた」
「その一行こそ、日本の島原遊廓からはるばる運ばれた(慰安婦)だったとあとで聞き知った。
 当時すでに仏印に平和進駐中の日本軍隊の(慰安所)は、サイゴンのフランス修道院経営の女学校校舎のすぐうしろにおかれてあると聞いて、そのあまりに不適当な場所柄に驚かされたのも、その時である。
 それから、まもなく、カンボジアのアンコール・ワットを見に出立」
「いよいよアンコール・ワットへ入る密林の径を進むと、密生する木々の枝から枝へ小猿数匹飛びかわすだけのさびしいジャングルの中から、忽然と日本の浴衣を着た婦人が現れたのには肝がつぶれるようだった。
『あれは慰安婦ですよ。この近くにもう施設が出来たんでしょう』
 同車の御案内役に言われて、やっと腑に落ちた。
 その奥の木の間がくれに新造の小家屋が透いて見えた」(1)

 日本軍は、中国以外にも、占領地に次々と「慰安婦分隊」を設置していった。

勇気あるプータ

  昭和7年、フィリピンに移住し、戦時中は日本軍の通訳などを勤めた男性の証言。
「上陸作戦以来、(日本)兵たちは女という者に接していない。昭和17年の3月頃になると、婦女子がそろそろ隠れ場所から町や村に帰りはじめた」
「その時期までは兵隊の遊ぶ場所は皆無の状態だったのである。(軍道路隊の)中尉が、『遊び相手の女を探してくれたまえ。兵士たちが間違いを起こすと困るから是非頼む』と相談を持ち込まれた」
 マニラ湾にあるカビテ軍港を偵察しての帰りだった。
「この地域は軍港に近いので、アメリカ水兵を相手にしていた女たちが必ずどこかに隠れているに違いない。
  探し出すためには、カレサ(客馬車)を操るコチェロ(馬車夫)に尋ねるのが一番近道だと思った。さいわい、うまくコチェロを見つけることができた」
「(彼の案内で)約30分ほど走ったと思う頃」「繁茂した枝で空の星さえ見えない真っ暗な下に、粗末なコーポ(小屋)を造り、女たちが10名ほど避難していた。
 さっそく私は女たちに日本兵たちが女をほしがっている。私が連れて行くので、絶対大丈夫だと交渉してみる」
「勇気のあるプータ(売春婦)3人が、『私が帰りにも送る』条件で、兵隊の待つ小学校舎を訪れたのである。兵も下士官も、たった3人の女を相手にたいへん喜び、満足していた」
「帰りの馬車の中で、3人のプータは思いがけない金儲けができて、こちらのほうも大喜び、明日は大勢で乗り込むと約束してくれた」(2)

「女性を供出せよ」の命令

 インドネシアを占領した昭和17年、早速“慰安婦部隊”結成をはかる。
 バリ島では、「慰安所用の女性を供出せよ」という日本軍命令が、駐屯地周辺の村々に出された。
 しかし、「表面はあくまで話し合いという形をとった。軍から村長に“慰安所で働いてもいいという女性がいたら斡旋してくれないか”という依頼をする。
 そこで村長は村の主だった者と相談し、適当な女を捜して頭数を揃え提供するのだ。
 だが、バリ島には強い宗教心からもともと売春婦という者は皆無と言えた。だから供出するとすれば、素人の女性しかいなかった。
 未亡人だとか、貧しいために、といった女が集められた。そんな女たちが泣きながらトラックで運ばれてゆく」(3)。

慰安婦のバッパ(お父さん)

 やはりインドネシアのスマトラ・メラボウで、中隊長から「慰安所を作れ」と命じられた陸軍将校の証言。

「慰安所を作ることになった。場所はすぐ決まった。かつて、オランダ人の旅行者が宿泊したホテルが無人のままになっていたのを利用したのだ。
 個室が7部屋もあり、新しい洋館なので慰安所にはもったいないくらいのものだった。
 次は女達の募集だった。これも、蘭印軍がいなくなってあぶれている女達が何人も町に残っていたので問題はなかった。
 が、病気があっては大変である。何人か集まった女達を、軍医が検査して、合格したものだけ4人を慰安婦としてホテルに入れた。
 料金も決めたりして、慰安所を開設することが出来た」
「私はそれなりに懸命にその職務を実行した。慰安婦達から、私は『バッパ』と呼ばれた。『バッパ』とはお父さんという意味である」(4)。

 皇軍将校が慰安婦から“バッパ”と呼ばれる。これほど日本軍と慰安婦との関係を教えてくれる言葉はない。日本軍は“慰安婦のバッパ”だった。

オランダ屋敷

 昭和17年9月からチモールに駐留した陸軍第48師団将校の証言。
「日本軍が上陸すると間もなく、クーパン、ディリー、ソエ、ラウテンなどの主要な駐屯地にはさっそく慰安所ができて、われわれの眼にいちおう女らしく見える日本の女が来た」
「2万名の軍隊に対してたった30名ぐらいの女では、何といっても数が足りないから女の体がもたなかった」
「占領前からこの島にいた外来人は、いちおう決められた地区に抑留されていた」「陸軍に収容されたものは、クーパンとディリーの近所に、おのおの数地区を設けてそこへ収容されていた」
 慰安婦が足りないので、「収容所の外来系の女たちの中に、もし希望者があれば外に出す、ということで相談を持ちかけて見ることになった。
 その条件はあくまで勧誘であって、それに従事することになっても、お客をとることを強制しないということを約束した」
「10名の申し込みがあった」「女たちの大部分は占領前から、たぶんこれを職業にしていたものだろうと思われた。集まった10人の女たちは、人数は少なかったが、まるで人種の見本を集めたようなものだった。
 純白系と見える女が2人いた。目鼻立ちや身体はよく整っているが日本人よりずっと色の黒いインド系混血、中柄で小麦色の肌をしたオランダ・インドネシア混血、インドネシア支那混血など混血が大部分で、中には華僑そのままではないかと思われる女も一人いた。
「こうして集まった女たちに、軍政部はディリーの町の一角で一軒の家をあてがうことになった。
 ディリーの町はづれに出来たこの娼家を、兵隊たちはオランダ屋敷と呼んでいたが、毎晩8時から9時頃になると、このオランダ屋敷に日本人が訪れて、賑やかな声が窓から洩れるようになった。
 これが日本から追送された慰安婦に対してだったら、男性の強制配給もできたであろうが、自由意志の志望で狩り集めた彼女たちに対して、そんなことは出来なかった。
 この娼家のお客になるには、曲りなりにも英語の少しくらいは話せることが必要だったから、いつのまにか、オランダ屋敷は自然に幹部専用のような形になってしまった」(5)

 評論家の鶴見俊輔は、20歳のころ、昭和18年2月、海軍軍属として、インドネシア・ジャカルタの海軍武官府に派遣される。渉外課に配属されたため、慰安所との関係を持つようになる。
「私が関わったのは、ジャワにシンガポールなどの海軍将校(将官・佐官)たちが来たときのための、士官クラブの設営です。そのほか、ドイツの潜水艦隊の基地もジャワにあるわけでしょう。そのドイツ人の将校の相手をする慰安所もあった。
 私が関係したのは、まず、その士官クラブの場所を決めに行ったことです。ジャワで指折りの中国人の女性の金持ちが、広大な土地を持っていたんです。そこの敷地を接収しに行ったんです。
 それから、将官クラスの人間がジャワに来て、官舎に泊めるときに、女性を世話しなければいけない役目を負っていた。そういうことに応じる女性を探しに、街に出て行った」
 それらの費用は、使い放題の「機密費」で支払った。
「日本の軍人は、白人の女性が好きでした。ジャワはオランダの植民地でしたが、オランダ人は収容所に入れられていたんです。だけど、ハーフ・キャストという、白人と現地人との混血の人びとは街にいて、そのなかに、そういうサーヴィスに応じる集団がいくらかあったんです」
 女性たちは、自発的に応じたという。(6)

 インドネシア・セレベス島のランテパオ、昭和20年5月のこと。駐屯の陸軍小隊長の証言。
「中隊に性病患者が3名出て、野戦病院送りとなった」「(現地のトラヂヤ族の“夜鷹”から)悪性の梅毒を伝染されたのであった」
 そこで、大隊長は「正規の慰安所を(岩盤トンネル式要塞)工事現場付近に開設したのである。
 慰安婦希望のトラヂア娘を募集し、軍医の厳重な検診の結果、合格した健康美グラマー8名に、清潔なブラウスとサロンを支給し、個室のあるバラック慰安所を開設した。
 兵士たちには、休養日交替の外出をさせる、という温情を示したのであった。
 200名の兵隊に8名の慰安婦ではどうにもならないが、妖怪ジャングルと山ビル陣地に閉口していた働きざかりの男たちに、花のにおいと色彩を点綴したかのような情緒とうるおいをあたえたのは、大隊長の識見といえるものであろう。
 兵士たちが一段と仕事の能率をあげ、生き生きと作業に励んだのは、申すまでもあるまい」(7)

慰安婦狩り

 昭和20年に入って、セレベス島の東、アンボン島でも慰安所設置が進められた。同島の海軍主計中尉の証言。
「ビアク島がとられ、ハルマヘラのモロタイ島にも米軍の前進基地が出来、いよいよアンボン上陸も近い」「日本人の婦女子は病院の看護婦、経理部の理事生、若竹、青嵐荘のSさんも含めて総引揚げということとなり、アンボンには日本人の女っ気は皆無となった」
 しかし、「昭和19年10月頃になると、アンボン地区の空襲も閑散となり、アンボンはラバウルと同様、取り残された前進根拠地となった」
 将兵2万5000人、「百年戦争を覚悟して、その劣勢をとりかえすまで、このアンボン島で頑張る他ない」
「命の心配がなく、食事も十分という事になると、夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、いまさら悔やんでもはじまらない」
 ある参謀が、昭和20年3月の転勤前に「長官からお許しを得ているからということで、アンボンに東西南北の4つのクラブ(慰安所)を設け、約100名の慰安婦を現地調達する案を出された。
 その案とは、マレー語で『日本軍将兵と姦を通じたる者は厳罰に処する』という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って、日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。
 その中から、美人で病気のない者を慰安婦として、それぞれのクラブで働かせるという計画で、我々のように現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった」
「いくら金や物がもらえるからと言って、男をとらされるのは喜ぶはずがない。クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を、私も何度か聞いて暗い気持ちになったものだ。
 果たして敗戦後、このことがオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者はすでにアンボンにおらず、それらの女性を引っ張った現地住民の警官達がやり玉に上がって処罰された程度で終わってしまった。
 彼女達が知っているのは引っ張った警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ」(8)

 敗戦後の昭和21年、インドネシアのスマトラ・タンジョンムラワに残留していた陸軍病院部隊は、慰安所を保有していた。慰安所担当者の証言。
「内地帰還の準備が徐々に始められ、洋服仕立業の方が何人かいて、その方達がリュックサックを毎日作っていた」
「部隊直営の酒保では、食物、酒、コーヒー等何でも出来て、日曜は賑やかだった。別室という部隊の慰安所が離れた所にあり、私はその管理を命ぜられた。
 構成人員は慰安婦8名、女中1名、と私の計10名。家族的な生活だった。他所の部隊の人が酒に酔って来て暴れたり、女の子相手に騒いだりした時の整理のためにいるのだが、そういう時は嫌だった」(9)

《引用資料》1,吉屋信子「吉屋信子全集12」朝日新聞社・1976年。2,藤原則之「在留日本人の比島戦」光人社NF文庫・2007年。3,戸川幸夫「戦場への紙碑」オール出版・1984年。4、中村八朗「ある陸軍予備士官の手記・上」徳間書店・1978年。5、三浦重介「チモール逆無電」自由アジア社・1961年。6,鶴見俊輔他「戦争が遺したもの」新曜社・2004年。7,奥村明「セレベス戦記」図書出版社・1974年。8,海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会「滄溟」私家版・1983年。9,ルマサキ会「近衛第二師団第1野戦病院出征記録」私家版・1980年。

(2021年12月9日まとめ)

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