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慰安婦 戦記1000冊の証言28 拉孟の玉砕

「若い兵の為に考えてやらねばならぬ事は慰安所である。上司よりも17年の末には話があり、将兵よりも希望の申し入れがあった。
 私は拉孟は最前線であり、敵に長射程砲があれば弾着距離内にあり、かつ陣地外には置く所がないので、最初は置かない方針で、鎮安街までは許し、兵は鎮安街まで外出させたが、これも都合が悪く、長く続かなかった。
 その中に拉孟に是非置くように要望され、致し方なく場所を選び、記念碑高地と裏山との中間を切り開き、各部隊に割当て作業人員を出させて2軒を建築させた。
 作業員の努力は非常なもので、わずかの日数で拉孟で最も立派な建物が完成した。
 17年の暮れも押し詰まった頃、半島人の慰安婦10名が軍の世話で到着した。18年の夏頃、また内地人と半島人あわせて10名が派遣された。最初の半島人10名は、18年に龍陵の慰安婦と交代した」(1)

 敵の援蒋ルートを叩くため、ビルマから中国の国境を越え、雲南省怒江方面に進攻した第56師団歩兵113連隊長の証言だ。

 怒江方面では、拉孟、龍陵、騰越、遮放などに慰安所が設置された。拉孟にやってきた慰安婦に関して、詳しい話がある。
「初めは朝鮮娘(半島人)10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられ、いい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ。だから18、9から22歳くらいまでの若くて綺麗な娘ばかりだった。
 年が明けると、さらに日本人5名もはるばるやってきた。ほかに朝鮮娘5名も増え、みんなで20名ほどになった。日本人は内地での玄人だった」(2)

 拉孟慰安所について、衛生兵の証言もある。
「慰安所には男の抱え主が2人いて、慰安婦は2組、20名くらいいた。日本人は熊本の遊郭からきたというものもいたが、大半は年増で、モヒ患者もいた。薬が切れて暴れ出し、ひどいのは楼主が鍵をかけて閉じ込めたりしとった。
 慰安婦はときどき交代した。朝鮮人は若こうてきれいだった」(2)

 当初、拉孟は、怒江をはさんで中国軍と対峙していたものの、激しい戦闘はなかった。
「拉孟は、遠く人里を離れた憩いの場のない最前線で、将兵は連日、陣地構築のための穴掘りが日課で、荒涼たる生活の連続でストレスがたまる一方であった。
 しかし、部隊長の粋なはからいで、陣外の片すみに慰安所も開設されて、潤いのある生活も与えられるようになった」(3)

 それが、一転、昭和19年5月ごろから、中国軍の猛攻撃が始まる。
 9月7日、拉孟守備隊が玉砕、同14日、騰越守備隊も玉砕。
「これ等の慰安婦は、19年6月、後方との交通が遮断されたため、後方に脱出する事ができず、拉孟の将兵と共に玉砕した」
「これ等の女性は、最初は慰安婦であったが、拉孟が包囲されるに及び、全く日本婦人と変り、兵の服を着用し、炊さんに握り飯つくり、患者の看護等に骨身を惜しまず働いてくれたが、気の毒なことであった」(1)

 拉孟守備隊玉砕の2か月ほど前、辻政信が第56師団を傘下に持つ第33軍作戦参謀で赴任する。第33軍司令部は、ビルマ・メイミョーにあった。
 着任早々の出来事を、後方主任参謀が証言する。
「高級副官の中佐が、辻参謀のもっとも嫌いな、慰安所の配分計画をもって、合議を求めにきた。
 辻参謀はこれを一瞥すると、時が時だけによほど癇にさわったようで、『こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!』と怒鳴りつけて、書類を床にたたきつけた。
 中佐は、辻参謀のあまりの剣幕にびっくり仰天して、平身低頭して悄然として引き下がっていった」
 そして、拉孟守備隊玉砕を知ると、辻は「慰安婦総退却」を主張する。

「当時は公娼制度があったので、いまのような罪悪感は比較的少なく、必要悪ぐらいに考えている者が多かった。戦場は、男性の戦う場で、女性はいないはずであったが、事実は慰安婦と称して多くの女性が進出していた」
「拉孟のような最前線で危険なところにも、日本人、朝鮮人あわせて約20名の慰安婦が進出していたが、敵の総反攻時に取り残されて戦火にまき込まれた彼女らの大部が、玉砕した将兵と運命をともにした」
「その衝撃は大きかった。なかでも辻参謀の受けたショックは大きかった。辻参謀の女嫌いは有名で、戦場に女性を連行するなどもってのほかと大反対であったが、
 南京では料理屋征伐のため、料亭の焼き打ち事件まで引き起こしたことは有名で、その噂は遠いビルマの涯のわれわれの耳にも入っていた。
 ラングーンの方面軍では、翠香苑という料亭を抱えており、(第33)軍でも翠明荘という料亭をかかえていた。辻さんは、ここに絶対に足を踏み入れたことはなく、かねてからこれを白眼視していた。
 拉孟守備隊が玉砕したとき、慰安婦たちが将兵と運命を共にしたことを知って、婦人部隊は即時かつ全面的に後方に送り返すべきだと強く主張した。辻参謀の論拠は、
『戦局は今後ますます深刻苛烈となり、第二、第三の玉砕部隊が出ることも予想される。戦闘員でもないか弱い女性を戦火の巻き添えにすることは、余りにも残酷だ。犠牲はわれわれ軍人だけで沢山だ。今さら女にうつつを抜かしているときではあるまい』
 ということであった。
 これに対して、参謀長は絶対に反対だった。
 参謀長は、酸いも甘いもかみ分け、人情の機微にも通じた豪放磊落の将軍で、酒を愛し、みずからもよく遊んだが、
『戦局が苛烈になればなるほど婦人部隊が必要なのだ。明日をも知れぬ運命にある将兵に、せめて一時なりとも苦しい戦いを忘れさせて、安らぎの場を与えてやりたいものだ。
 この戦争は国家総力戦で、戦闘員も非戦闘員もない。老若男女がことごとくその分に応じて、力を尽くさなければ勝ち目はないのだ。婦女子といえども戦力だ。
 いよいよというときは軍属として処遇し、准看護婦その他の面で戦力化すればよい。死なせることは気の毒だが、戦死した場合は、後の救恤、栄典の授与、遺族の生活の補償など、軍人に準じて取り扱ってやればよい。
 靖国神社にもまつり、その遺烈を顕彰してやればよいではないか』
 と主張した」
「この問題は、後方主任参謀の所管だということで、その尻ぬぐいをさせられる羽目になり」「私は考え抜いたすえ、辻参謀の意見に同意して、全部の女性を後方に退けることに決心した」
「私はまず翠明荘を後退させるとともに、第一線の部隊にも全部の女性を後退させるように指導した」「私の指導に対して面従腹背で、陰でひそかにコソコソと温存していた部隊もあった」(3)

 そのころ、第56師団司令部のある芒市を訪ねた同師団傘下の中隊長・中尉の証言。
「9月の終わり頃だったと思う。芒市の師団司令部の次級副官から連絡があって」「師団司令部に出頭せよということであったので、夜、兵隊1名を連れて約5キロの道を歩いて芒市に行く。暗夜であったが、9時頃司令部に副官を訪ねた。その時司令部に副官はいなかった」
「司令部の将校の会食があるとかで、今司令部には将校は誰もいないらしい」「私はその会食場の場所を尋ね探して夜の町を歩く。
 宴会場は内地で見るような立派な料亭の構えであった。後で知ったのであるが、芒市には郷土久留米から、わざわざこの地まで来たという、屋号は知らないが、有名な料亭で、芸妓というのか、酌婦というか、そのころまでまだ相当数残っていたようだった」
「(玄関を入ると)奥のほうからは酒がまわっているのか、女を交えた嬌声が聞こえて来る。副官はすぐ玄関まで来た」
 用事が終わり、その帰り道、旧友の獣医中尉を訪ねる。夜も更けて12時頃になっていたであろう。
「中尉と昔話をして、暗い芒市の町を歩いてみることにした」「市街地は死の町となっている。家屋は敵の連日にわたる爆撃で、原形を留めるだけのものも少なく、住民は皆どこかへ避難しているのだろう、一人も見えない」
「中尉が慰安所があるので行ってみようということで、時間は遅いようだったが、探して行ってみる。ここだけは割合繁盛しているらしい。食う物を売っている所はないが、地方人が支那酒を売っていたので、中尉と一杯飲んで慰安所を出た」(4)

 やはり、怒江方面の遮放のようすを証言する軍医少尉。昭和19年11月ごろか。
「遮放の町は中国軍の攻撃で殆ど焼かれていた。朝早く道路端たたずんでいると、
「若い女が壕の中から寝ぼけ顔をのぞかせた。
『アレイ、トミ子さんョ……一寸来てみんナ、征く時にはあれバッカ家があったバッテンどげんしたとッ、チャカンチャカンにやられとるバイ』
と焼け跡にたまげて仲間を呼んだ。
 彼女達は竜兵団(56師団)専属の慰安婦で、昨夜遅く退ってきたらしく、次の便のあるまで待っているのである。殆どが九州の天草あたりか朝鮮の出身である。
 夕暮れ時になると、山に退避していた、これ等の娘子軍がてんでに毛布を抱えて帰って来た。蝋燭の灯りのかすかに洩れる小屋からは、つい最近に生まれたらしい赤ん坊の泣き声が聞こえて、この索漠たる戦野に奇妙な雰囲気を醸し出す」(5)

 どこの慰安所の慰安婦であるか不明だが、ある兵隊の陣中日記には、こんな記載もあった。
「激戦をつづけていた救援作戦も、友軍の奮闘と犠牲とにより、どうやら龍陵部隊も救出を終るらしい。夜中に帰ってきた牛車から女の声がする。
 みんなびっくりして飛び出してみたら、髪を短く切った6、7人の女たちがぐったりしている。
 菊部隊(33軍の18師団)と共に怒江戦線に慰安婦として勤めていたのを、やっと救出してきたのだ。
『ご苦労さんでした、みなさん』
 ひげ面の我々は心から慰めの言葉をかけた」
「女たちの目頭には熱い涙が光っている。誰ともなく夕食に用意した牛肉の煮たのを差し出すと、彼女達はうれしそうに食べていた。
 1時間ぐらい経って、『ありがとう』『さようなら』『元気で生きてて下さい』などといいながら、彼女たちは装甲車に乗せられて去っていった」(6)

 ところで、「拉孟守備隊が玉砕したとき、慰安婦たちが将兵と運命を共にした」という証言を紹介した。玉砕の意味が、全滅という意味ならば、慰安婦は玉砕しなかったのである。

 怒江方面で中国軍の捕虜になった日本軍将兵らは、雲南省昆明の捕虜収容所に入れられた。
「昆明には、当時、OSSなどアメリカの機関や軍の中国における本部があった」
「昆明市内の中学校にある捕虜収容所は、国民党政府軍が管理していた。ここには23人の朝鮮人慰安婦のほかに、朝鮮人男性2人、台湾人男性1人、77人の日本人男性と4人の日本人女性が収容されていた。
 1945年4月にOSSが行ったかれらへの尋問は」「かなり大掛かりなものであった。その調書である『昆明における朝鮮人と日本人捕虜』には、次のように記されている。
「朝鮮人は男性も女性も戦闘で捕らえられたわけではなかった。かれらは日本軍を脱走し、中国軍側に投降した者ばかりであった」
「朝鮮人女性23人のうち、1人以外は強制と欺瞞によって慰安婦にさせられたことは明らかであった。
 たとえば1943年7月に韓国を離れた15人は、シンガポールの日本工場の女工募集広告を韓国内の新聞で見て、応募している。
 その際、少なくとも300人が応募して、南方に向かったが、彼女たちも全員だまされていた」(7)

 この収容所で捕虜生活をした日本兵の証言。
「昆明収容所では10人ぐらいを一組として天幕生活をした」「慰安婦は別の大きな天幕に入っていた」
「拉孟の慰安婦は、最後のとき日本兵が手榴弾で殺したとか、青酸カリを飲ませたと書いた戦記があるが、そんな事実はない。
 現に昆明の収容所には、大分県出身の『双葉』、大牟田市出身の『誠』、鹿児島出身の『君子』ともう一人、全部で4名の日本人慰安婦が収容されていた。
 朝鮮人慰安婦は5名だけ収容されていたのがわかっているので、拉孟にいた15名のうち10名は死んだのかもしれない。
 米軍が撮った横股の壕内の写真の説明に『この壕内には日本兵13名と慰安婦2名の死体があった』とあるので、その他の慰安婦は、他の壕か脱出途中で死亡したことも考えられる」(8)
 前述のOSS調書の「4人の日本人女性」と符合する。「23人の朝鮮人慰安婦」というのは、拉孟以外は騰越の慰安婦らしい。

 敗戦後、捕虜はどうなったのか。
 朝鮮人慰安婦たちは、朝鮮人民解放軍の要人たちに引き取られていき、日本人慰安婦は重慶の収容所に収容されたという。(2)

《引用資料》1,松井秀治「ビルマ従軍波乱回顧」私家版・1957年。2,品野実「異域の鬼」谷沢書房・1981年。3,野口省己「回想ビルマ作戦」光人社・1995年。4,橋本国雄「続・後世のために―死闘・雲南撤退の一駒」私家版・1978年。5,鹿野幸彦「ビルマ軍医日記」叢文社・1981年。6,津村敏行「ああ応召兵」講談社・1978年。7,山本武利「日本兵捕虜は何をしゃべったか」文春新書・2001年。8,太田毅「拉孟」昭和出版・1984年。
(2021年10月16日まとめ)


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