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慰安婦 戦記1000冊の証言40 靖国の英霊

「英霊として、靖国に祀られたい」という願いを、慰安婦の口から聞いた人もいる。
 南洋・ラバウルにいた朝鮮人の慰安婦は、米軍機の空襲の際、相手の軍人にこう語ったそうだ。
「監督の説明では、もし万一ここで戦死するような事があれば、身分を1階級進めて特旨看護婦として公報され、靖国神社に祭ってもらえるとの事です。私は(前借金を返済し、貯金をして)店開くより、靖国神社に祭ってもらい、立派に軍属として父母に公報を届けて貰った方が良いのです」(1)

 中国・海南島では、日本人慰安婦が親しくなった従軍看護婦にこう話した。
「これでも、私たち〝帝国の勇士〟なのよ。だって、死ねばちゃんと〝戦病死〟の公報が家に行くんだから……。軍属なんだもの」といった直後、急に笑い出したそうだ。(2)
 靖国神社と直接言わなかったものの、「戦病死」となれば、靖国にまつられると考えていたのかもしれない。

 激戦が続くビルマ・中国国境方面の最前線にも慰安婦がいた。第33軍の「慰安婦担当」だった参謀の証言。
 同軍の辻政信参謀は慰安婦の即時かつ全面的撤退を強く主張した。これに対して、山本参謀長は絶対に反対だった。次のような理由からだ。

「戦局が苛烈になればなるほど婦人部隊が必要なのだ。明日をも知れぬ運命にある将兵に、せめて一時なりとも苦しい戦いを忘れさせて、安らぎの場を与えてやりたいものだ。
 この戦争は国家総力戦で、戦闘員も非戦闘員もない。老若男女がことごとくその分に応じて、力を尽くさなければ勝ち目はないのだ。婦女子といえども戦力だ。
 いよいよというときは軍属として処遇し、准看護婦その他の面で戦力化すればよい。死なせることは気の毒だが、戦死した場合は、後の救恤、栄典の授与、遺族の生活の補償など、軍人に準じて取り扱ってやればよい。靖国神社にもまつり、その遺烈を顕彰してやればよいではないか」と主張したのである。(3)

 さて、山本参謀長の主張どおり、戦死した慰安婦は、靖国神社にまつられたのだろうか。
 靖国神社の祭神を調べた秦郁彦によると、女性の祭神は以下のとおりである。
「女性合祀者の第一号は、戊辰戦争で後方補給の一員として『賊軍』の銃弾に倒れた秋田藩の農婦山城美与である」「明治2年6月の第一回合祀者3588名のうち、ただ一人の女性でもあった」
「昭和10年までの女性合祀者は累計49人にすぎないが、支那事変以後は急増し、範囲も広がって2006年末までの祭神は5万6161柱」
「5万6161人と意外に多いが、うち5万6003人が大東亜戦争関係だから、それ以前の合祀者は158人にすぎない。
 次に彼女たちの身分を多い順に大別して、概要を紹介したい。a、沖縄等の戦闘協力者(準軍属)、b、日本赤十字社の救護看護婦、陸海軍看護婦、c、ひめゆり部隊などの沖縄女子学徒、d、軍需工場等に動員され爆死した女子学徒、e、その他の女子軍属。
 数の上で圧倒的多数を占めるのは、沖縄戦に巻きこまれて死没した女性たちで、食糧の供出、運搬、炊事、救護等の雑役、壕の提供、道案内、集団自決など積極的、消極的に貢献し、『戦闘協力者』(準軍属)と認定された」(4)

 次のような戦死者も、靖国にまつられた。歩兵第220連隊兵士の証言。
 昭和16年、中国での出来事である。
「7月の暑いさかり、内地よりはるばる最前線まで、陸軍恤兵部演芸慰問団がやってきた。その団長は帝都漫才界の重鎮、桂金吾で、以下同夫人の花園愛子ほか、漫才(夫婦)2人、奇術(女)親子3人、声帯模写(男)1人、浪曲(男女)2人の10名であった」
「(北京から出発し)封門口から大店の警備隊を慰問する予定で、7月22日8時半、4両編成のトラックで済源を出発した」「谷間の道路を進行中、突如!およそ200名ばかりの敵兵の襲撃を受けた」
「団長夫人は、負傷した運転手を抱えて、下車しようとした刹那、右大腿部に2発の敵弾を受け、骨折して歩行不能となり、車内で苦悶する」「(結局)団長夫人は応急手当もままならず、ついに出血多量で落命した」
「団長夫人は、当時36歳であった。名誉の戦死という取り計いを受けて、帰途、北京では、北支派遣軍司令官岡村大将列席のもとに、官民合同の葬儀が、厳粛に行なわれた」
「帰京後の9月1日、浅草本願寺において、帝都漫才協会葬が盛大に営まれ」「昭和40年4月21日、陸軍軍属として、靖国神社に合祀されている」(5)

 このように、戦後、靖国の合祀基準がゆるやかになり、戦犯も合祀されるようになった。東条らA級戦犯はじめ、BC級戦犯もまつられる。その中の一人に慰安所関係の男性もいた。
 昭和21年12月27日の獄死時は60歳だった「佐藤(仮名)は、バタビア(インドネシア・ジャカルタ)の桜クラブという慰安所の経営者で、オランダ軍事法廷で『婦女子強制売淫罪』により10年の刑を受け、服役中に病死している」(4)

 この佐藤は、戦前からインドネシアで生活していたが、「海軍から慰安所の開設を頼まれ、いくたびか断ったが、ついに"お国のため"の仕事として押し付けられてしまったのである。
 ここに必要な女性は(オランダ人)抑留所から希望者をつのり、未成年者はことわって、いちいち契約書に署名させたのは、佐藤の性格でもあったろう。
 しかし、こうした手堅さも空しかった。希望して働いたはずの女は、ほとんど被害者として証人に立ち、裁判ではすべて佐藤が、甘言をもって誘惑し、未成年者までも強制したとされ、あらゆる弁明も証言も一蹴されてしまったのである」(6)

 慰安所関係者でも、戦犯として獄死したので、靖国にまつられている。
 実は、「39 援護法適用」で紹介したように、昭和40年代前半までに、40人から50人の慰安婦が援護法の対象となった。
 援護法の担当は厚生省だが、同省と靖国神社は、靖国神社への合祀について随時協議している。その際、援護法の適用者は合祀検討対象になるようだ。
 慰安婦は「戦闘協力者」として、援護法を適用されたのだから、少なくとも40人から50人の慰安婦は、靖国神社に合祀されている可能性が高い。

《引用資料》1,角田和男「修羅の翼」今日の話題社・1990年。2,大石淳子他「白の墓碑銘」桐書房・1986年。3,野口省己「回想ビルマ作戦」光人社・1995年。4,秦郁彦「靖国神社の祭神たち」新潮社・2010年。5,220会「歩兵第220聯隊」医学研究社編集部・1982年。6,池田佑「秘録大東亜戦史・改訂縮刷決定版・第5巻・比島蘭印篇」富士書苑・1954年。

(2022年1月3日更新)








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