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慰安婦 戦記1000冊の証言14 看護婦詐欺

 日本人慰安婦の「済南への誘拐」の手口は、「大陸慰問団」、応山も「皇軍慰問」だった。
 中国での事例をもう一つ紹介しよう。山西省の陸軍病院に派遣された軍医中尉の証言だ。

「敗戦の前の年のことである。将校団の軍人会館、つまり慰安所に、若い慰安婦が10人位やって来て、大変賑やかになったという話を聞いた。
 数日後、わたしが兼務していた憲兵隊へいくと、若々しい女たちが来ていて、騒然としていた。
 彼女たちは日本で、大陸へ行ったら将校さんたちのお酒の酌をするだけで、将校さんと結婚できると聞いてやって来たのだった。憲兵隊に夜の相手をするなどというのは約束違反だといって、訴えに来ていたのだった。
 憲兵隊は女たちを帰国させれば軍の士気に関係することになるし、弱っていた。が、結局、年端のいかない者は、1年位は客をとらせない、ということで話がついたようだった」(1)

「結婚詐欺」みたいな手口もあったのか。

 南方・ラバウル、海軍の慰安所に行った海軍少佐らの前に現れたのは、九州なまりのある19歳の女性である。
 門司から船に乗り「最初は第一線の野戦病院の従軍看護婦ということであったのに、こんな仕事をさせられて」とこぼした。(2)

「看護婦」詐欺は、よくある手口のようだ。
 これもラバウルの出来事。第八海軍病院にやってきた慰安婦が、院長に訴える。
「『私は、騙されました。お願いします、お願いします』と、声をあげて泣き出した」
「その女は、静岡の田舎の者で27歳になっていた。ある時、女の村へ、海軍の徴募兵と自称する軍服の男がやって来て、村役場に本部を置き、前線行の篤志看護婦を募集した」
「そこで勇躍して応募し、横須賀から、同志の娘達と輸送船に乗り込んでラバウルに到着してみると、看護婦というのは真っ赤な嘘で、その晩から客をとれと強いられた」(3)。

 ビルマの沖合、ベンガル湾に浮かぶカール・ニコバル島でも「看護婦」詐欺話が聞かれた。
 昭和18年6月、海軍に徴用され、231設営隊の一員として、同年8月、カール・ニコバル島に到着し、飛行場建設にあたった軍属の証言。
 昭和18年12月ごろ、「内地から慰安婦が4人きた」「『すごいベッピンなんだ、4人とも選りぬきの美人だぞ、たまんねえなあ』」と噂話が飛び交う。
「2か月余り、海軍将校と下士官連中に占領されていた慰安婦が、やがて私たち軍属にも解放される日がきた」
「中隊の事務所前の広場に、慰安所ゆき全員が集合した」「1台のトラックに50人ずつ乗って、島のマラッカ海側の海岸を通って、慰安所に向かって走った。
 途中にインドネシアの慰安婦のいる陸軍の慰安所があった。5、6人のインドネシア女性が、井戸端で裸になって身体を洗っていた。陸軍の慰安所をすぎて、さらに何キロか走ってトラックは止まった。
 椰子の葉で屋根を作った小屋が3棟あった。1棟は倉庫をかねたもので、この慰安所を経営する老夫婦の部屋、1棟は喫茶店、あとの1棟は4つに仕切られ、慰安婦の接客部屋になっていた」
「その部屋ごとに、30名か40名の列がならんだ」
「私のならんだ列は、4号であった。慰安婦を呼ぶのは、『何号さん』という番号であった。私は顔も名も知らない4号の慰安券を50銭で買って、その部屋の入口の列にならんだ。兵隊は20銭だったが、軍属は倍であった」「4号の慰安婦は丸顔の美人で、年は22、3に見えた」
「かの女ら慰安婦の多くは、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされてきたのだそうだ。かの女らは看護婦になるつもりで、戦地に従軍してきたらしい。
 そんなわけで、かの女らも、私たちと同じ軍属である。だまされたといって、最初、かの女らは泣きわめいたそうだが、かの女らは、『特殊』という看護婦にはちがいなかった」
「(2回目の4号行き)かの女は、3週間ほど慰安婦の仕事を休んだあとであったという。ベビー箪笥の上には、戦死した設営部隊長の写真が飾られてあった。
 かの女の話によると、われわれの部隊長は、この4号を愛していたということであった。だまされて、このニコバル島につれてこられ、泣いているかの女を、『親のような気持ちで、うちの隊長が慰めてやったんだよ』というのが、みんなの話であった。
 かの女の休暇も、隊長の戦死を悲しんで、喪に服していたのだろうということであった」(4)

 昭和19年、中国・広東、独立歩兵第222大隊(肝第3322大隊)第四中隊員の証言。
 広東市内の慰安所を覗いてみた。「海軍は立派な建物で、日本人は美人ぞろい。それに比べ、陸軍の方は日本人は少ないようだった。海軍にはかなわないと思った。聞くと、看護婦と騙されて連れてこられたのだという」(5)

騙されたァ

 昭和20年の敗戦直後、マレーの軍政関係者一団は、タイとの国境に近いメラ近郊の野戦病院跡に滞留していた。その関係者の証言。
 現地、ヤマ部隊の地区司令大佐からの指示を受けていたが、「その大佐から、私はまた一つ重荷を背負い込むことになった。
 それはその部隊の5人の朝鮮女の慰安婦だ。敗戦後取り扱いに困り果てていたらしい。わが邦人団に編入してくれという頼みである。いまは軍との関係は絶えた同胞人である。
 私が拒絶したらどうなるのか。やはり故郷へ送り還す面倒を見るほかないと考えて承諾した」
「彼女らの話では、5人とも相当の家の娘たちで、一番若い美しい娘は、京城のさる一流料亭の娘だと言い、大事に持っているその家の写真も見せた。娘たちは従軍看護婦という名目で勧められ狩り出され、なかには進んで応じたもので、したがって、良家の娘が多かった。
 現地に着いて、待っていた運命に気づいて泣いたときは抗うすべはなかった。それをまたしても、いま思い起こすのであろう。
『騙されたァ、騙されたァ』と泣き叫んで、発作のように時々半狂乱になる女がいて、仲間が取り鎮めるのに苦労していた。なだめる仲間の娘も心は同じである。みな泣いていた」(6)

 慰安婦の中には、戦時中、実際に病院で働いた人たちもいた。
 フィリピン・マニラの近郊キャビテに設置された103海軍病院勤務者の証言。
「昭和20年1月上旬、米軍がリンガエンに上陸戦を開始した頃、彼等(院長以下勤務員の大部分)は、そそくさと北部さして退却していった。看護婦達も病院船に便乗、内地帰還の航路をたどっていった」
「その後も、相変わらず運び込まれる患者の跡もたたない。人手が極度に足りない」「ふと、上海戦当時のことを思い出した。市中には、まだ、慰安婦が残っているはずだ。31特根の知り合いの参謀に頼んで、探し求めてもらい、十数名が集まってきた。
『君達は、今までは、日陰者としてだが、士気を鼓舞してくれた大なる功労者だったと思う。今こそ、大和撫子の本領を発揮して、傷ついた兵隊さん達のために、力を貸してもらえないだろうか』と呼びかけた。
 みんなは、明るい面持ちで異口同音に『お国のためになることなら何でもしますから、是非働かしてください』と感涙に咽びながら力強い声が返ってきた」
「患者の身の回りの世話や掃除など、身を粉にして病院を閉鎖するまでよく励んでくれた。
 その後、彼女等はどうなったろうか……。おそらく雇主には置いてきぼりにされ、頼るべき知るべもなく、異郷の地に果てたのではあるまいか。
 あえて、何処の誰とも聞かずに、1か月近く共に過ごした彼女達の身に思いをいたすと、おのずと心の疼くのを禁じ得ない」
「内地に、外地に幾多の慰霊碑が建てられ、幾千人の遺族が戦跡参拝に赴いたが、彼女達の話はついぞ耳にしたことがない」(7)

《引用資料》1,吉開那津子「増補新版消せない記憶-日本軍の生体解剖の記録」日中出版・1996年。2,松岡泰輔「或る海軍士官の軌跡―太平洋戦争と品川淳大尉地域情報センター・1984年。3,濱本浩「火だるま大佐」日本週報社・1957年。4,河東三郎「ある軍属の物語」日本図書センター・1992年。5,肝第四中隊史刊行編集委員会「南支派遣軍肝第四中隊転戦記」私家版・1991年。6,佐藤多紀三「赤道標―南支派遣軍・記録」私家版・1975年。7、マニラ103海軍病院パサイ会「ルソン島思い出の記―第103海軍病院記」私家版・1980年。

(2021年12月23日更新)


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