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慰安婦 戦記1000冊の証言42 天皇の大御心

「慰安所設置は主計将校の任務のひとつ」「ピー屋設置要綱もあった」などという証言は多い。
 しかし、疑問を持って、上官を問い詰めた主計将校もいた。
 南京の予備経理学校を卒業した見習士官の証言。昭和20年ごろか、中国での出来事。

「亭里村にあった<椿>の第216連隊長室は、その一隅に四帖半の日本間をしつらえてあった。日本風の障子で仕切ってだ。連隊長が専属の女を抱いていたのは、その四帖半においてである。
『戦死はしてもよいが、タタミの上で、も一度寝てからにしたい』とは兵士たちがよく口にした言葉である。兵士たちが故国にしかないと思いこんでいるタタミの部屋が、亭里村にはある」
 こんな兵士を取り巻く環境の中で、「慰安所の開設を準備せよ、という口頭の命令が××中尉に対して出た。中尉はその場で問い返した。
 第一に、正式の命令なのかどうか。
 第二に、正式の命令であるとすれば、典範令のうちの、どれの、どの条項に基づく命令なのか?
 ここで典範令とは、歩兵操典や射撃教範、作戦要務令や大東亜戦争給与令など、陛下がお決めになった諸規定の総体のことである。
 そのどこかに『主計将校をして慰安所を経営せしむるを可とす』とでも書いてあるかどうか?
『書いてあるなら大隊長の命令を上御一人の命と心得て実行致します。しかし書いてないなら、上御一人の大御心に反することになるから、実行致しかねます』。
 そう言われて、大隊長は二の句を継げなくなってしまった。
 日本軍の占領下どの大都市にも、兵站は堂々と慰安所を開設している。何らかの法的根拠があるに違いない。だが根拠とされている規則に、御名御璽(天皇のサインと捺印)があるかどうか?
 困って、情報担当のK少尉が私を泣き落としに来た。『先任の主計サンのやらぬ穴を埋めてやってくれよな』と言う」
「読んでくれと少尉から手渡されたのは、ガリ版で十数ページのパンフレットであり、<呂>集団司令部発行のものだったと記憶する。
 要点は、およそ次のようだった。
<イ>兵站の慰安所施設が整っていた地域から、はるかに進撃してきたが、高級の将校が個別に女を囲い、満足している傾向がある。
 これは兵の不満を爆発させやすい。女は将兵が共同利用し、輪番制を確立するなど、利用率を高める工夫をすべきである。
<ロ>その場合、性病が蔓延しやすい。対策の確立が肝要であり、毎日、その日の利用者を整列させ、軍医が事前検査する以外に良法はない。
 とりわけ将校について一人の例外でも認めると、どんな堅固な堤防も『蟻の一穴で崩れる』のたとえの通りになることを決して忘れてはならない。
 一読して、『やはり、主計には関係のないことのようです』とパンフレットを少尉にお返しした。
『関係はあるだろ』と少尉が指で示したのは、ゴム製品の不足対策としての“被服”に関する文章のところだ。豚や羊の膀胱や盲腸が使えるとある。
 私は答えた。『洗って10回使えるとしても、よっぽど大量に屠殺しなきゃ足りませんよ。これ、肉は飽きるほど食べてモツの食べ方を知らぬ人の発想でしょう。自分はとても付合いきれません』」(1)

 中尉や見習士官に問われ、即座に示すような規定は、この現地司令部になかったようである。「上御一人の大御心」としての「慰安所設置」命令はあったのだろうか。

「上御一人の大御心」のうかがえる証言がある。昭和15年から北千島要塞司令部参謀付となった陸軍大尉は、占守島、幌筵島など北千島をめぐる状況を述べる。

 昭和17年だったろうか。「春早く、東京で全国軍司令官、参謀長会議が開かれた。そのとき北部軍(北千島も管轄)司令官浜本喜三郎中将は北部軍の軍状をつまびらかに奏上した。
 一般の奏上が終ったのちに、陛下は特に北部軍司令官に向かって御下問になられた。
『北部軍司令官、北千島の部隊はどうしているか』
『はい、昨年の冬は無事に越冬致しました』
『そうかそれはよかった。向こうにいる軍隊は何をもって娯楽にあてているか』
『……』
 軍司令官はくわしいことは判らなかった」「即時に回答ができ得ない」「一応退下した」
「(調査後)再び天皇陛下に拝謁を仰せつかった。
『北千島におります部隊はラジオ3台、蓄音機7台、若干の単行本をもって娯楽にあてております』と奉答した。
 陛下はつぶさにその状況をお聞きになったのち、お言葉を続けて『そうしたことにも手ぬかりのないように』と仰せになったそうである。
 軍司令官は恐懼して下がり、このことを現地のわれわれに伝達された」
「昭和17年8月20日、たまたまこの島にはじめて慰問団を派遣されることになった」「これは浜本北部軍司令官が陛下の御仁慈の御心を体して、特にこの慰問団を派遣することにした」
「この慰問団一行が乗船すべく小樽まで来て」「船に乗る間際になってから急に一行の団員の中2人の女性は北千島行きを停止せられ船を降ろされたという。
 何事がはじまったのかと思って不思議に思って尋ねると、『北千島はいままで女のいないところであった。
 また血気盛りの者ばかり群がっているので、そこに女の姿を見せることはかえって挑発的であり、また刺激を与えてよくないではないか、女は危険だからむしろやらんほうがよろしい』ということになったそうだ」(2)

 しかし、結局、昭和18年の半ばごろ、北千島の幌筵島に慰安所が設置されたのである。これを「大御心」と説明したのだろうか。昭和天皇は慰安所の存在を知っていたのだろうか。

《引用資料》1,阪本楠彦「湘桂公路ー1945年」筑摩書房・1986年。2,能戸英三「郡司草」原書房・1979年。

(2022年1月6日更新)

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