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法廷傍聴控え 日本赤軍女性幹部蔵匿事件1

昔、こんな事件がありました。

 2001年5月24日、東京地裁のある裁判を傍聴する予定だったが、かなり早く着いたので、ほかの法廷の開廷表を見ていると、日本赤軍の女性幹部Sを匿った事件があった。

 しかも、初公判であり、傍聴券も不要だ。時間つぶしにちょうどいい。早速、のぞいてみることにした。
 傍聴席はほぼ満員だ。背広姿で、頭髪は少しぼさぼさ気味で、中肉中背の山本誠治被告(55歳)は保釈されており、開廷数分前に、弁護人席前の被告人席に着く。弁護人は2人もついている。まず、生年月日、本籍、住所の順番に、裁判官の問いに答える。

 検察官が起訴状を朗読する。それによると、98年8月21日から25日まで、自宅のあった千葉・船橋市内の団地の部屋に、ハーグ事件で手配中のSことO(戸籍名)を宿泊させたという犯人蔵匿と、同月22日ころ、その部屋の鍵をSに渡したという犯人隠避である。
 山本はこの公訴事実を認め、弁護人も同様な意見を述べた。

 続いて、検察官が冒頭陳述を行う。それによると、次のようなことであった。
 山本は、71年3月、東京医科歯科大学を卒業したが、在学中、共産主義者同盟の学生組織である社会主義学生同盟に参加し、副委員長を務めるなど活発に活動し、69年3月、公務執行妨害で、懲役10月、執行猶予2年の判決を受けていた。
 大学卒業後、都立病院に勤務したのを皮切りに、新潟の病院などに勤務し、91年1月から98年12月末まで、千葉県内の病院長を務め、99年1月からは、山形県内の病院長をしていたが、01年3月9日、退職した。妻とこどもが3人いる。
 山本とSとの出会いだが、山本は、在学中、明治大学闘争を支援し、明治大学の学生会館に泊り込む。そのとき、同大学二部文学部学生だったSが、同じ社学同のメンバーだったのでしりあう。山本は、ドイツ語を使えて、机を運ぶなどの肉体を動かすことも得意なので、ドイツ語で筋肉を意味するムスケルというあだ名をつけられる。
 一方、Sは、69年7月、赤軍派に参加し、OGと結婚して、71年2月、レバノンへ行き、パレスチナ闘争組織と接触して、赤軍派アラブ支部を建設した。72年、日本赤軍を誕生させる。74年9月、オランダのハーグにあるフランス大使館を占拠し、フランスで逮捕された仲間の奪還を図ったハーグ事件で、75年5月、Sが国際指名手配される。
 72年5月のイスラエル・テルアビブ事件のため、イスラエルで服役していたOKが、85年、釈放され、パレスチナに戻る。精神的な問題を抱えているOKの治療のため、山本の後輩にあたる医師が、レバノンに向かうことになった。山本は、その医師にSへの手紙を託す。その内容は、医師になってからの歩みなどが書かれていた。しかし、Sからの返事はなかった。
 山本は、翌86年、レバノンに行って、Sと会う。以来、年に1、2回、Sは山本に電話をするようになる。
 レバノンで会ってから12年たった98年8月20日、山本が千葉の病院で勤務中、金井と名乗る男から電話が入る。

「Sをしっていますね。頼まれて電話をしていますが、あなたに会わせたい人がいる。あすの夕方、時間をくれませんか」という。「7時半以降なら、体があく」と、山本は答えた。
 翌21日午後7時ごろ、金井が病院にやってきたので、院長室に通す。会わせたい人がいるならば、院長室で会えばいいと、山本はいったのだが、金井は外出を促す。

 そこで、外で会うことになった。病院の正門のところに来ると、金井が、「ちょっと待っててください」といって、歩いていく。
 しばらくすると、金井が自動車に乗ってきた。山本が助手席に乗ると、後部座席から、「私、Sよ」という声がした。後部座席には、もう1人、工藤という男が乗っていた。「少し話のできる場所はないかしら」とSにいわれる。山本は、人目につかないところがいいと、ひとり暮らししていた団地の部屋に連れていく。
 金井が近くの店から、ビールと食べ物を買ってきた。しばらくして金井は帰るが、残った3人は昔話にふける。午後11時ごろになり、「きょうは、泊まっていけば」と、山本がいう。22日午前1時ごろ、3人は2部屋にわかれて寝る。朝、Sから、「しばらく部屋を貸して」といわれ、山本は承諾し、部屋の鍵を渡す。Sは25日まで宿泊した。
 その後、98年10月、山本はSを軽井沢までドライブに連れていった。99年1月以降も、Sは部屋を何回か使用した。99年10月には、東京・お茶の水の居酒屋で、一緒に飲んだ。2000年11月8日、Sが関西で逮捕されると、Sを泊めた部屋の鍵を取りかえたり、Sに教えてあった携帯電話の番号を変更した。

 ざっと、このような陳述をした後、検察官が証拠を請求し、弁護側は大部分同意し、裁判官は、それを採用した。

 それらの証拠の中には、Sが逮捕されたとき押収されたスケジュール帳がある。98年8月21日から27日までの行動記録の中に、山本のことは、暗号でムスケルなどと書かれていた。やはり、押収されたメモには、山本の携帯電話番号があり、山本の部屋の鍵も見つかった。

 弁護人が、「情状証人が在廷しているので、本日聞いてほしい」と請求し、早速、証言を求めることになる。証人は、紺色の背広上下にメガネをかけた小柄な男性だ。

  弁護人が細かく聞いていく。証人は、64年、東京医科歯科大学に入学以来、山本の同級生で、やはり、71年から医師をしている。

 ──学生時代の被告の性格ですが、人となりはどうでしたか。
「一言でいうと、正義感が強く、実行力がありました。人から頼まれたら、いやとはいえない性格です」
 ──当時、学生運動が盛んなころで、あなたも被告と一緒に参加しましたか。
「はい」
 ──どんなことでしたか。
「私たち医学部のインターン制度改革、社会では日韓条約、原子力潜水艦寄港問題などで、連日、クラスで討論をやっていました」
 ──被告の活動はどうでしたか。
「つねに先頭に立ち、自治会の委員長として、リーダー的存在でした」
 ──被告が医者になった動機をしっていますか。
「山本君は、弟をがんで亡くして、がんを治せる医者になると、入学当初からいっていました」
 ──被告が医者になってからの活動領域はどうですか。
「大学との関係でやっていかないとうまくいかない世界ですが、かれは大学と無関係で、自分で道を探し、外科医としてやってきました。尊敬しています」

 山本は、都立病院で外科医の基本となる麻酔を3年学ぶ。その後、地域医療をライフワークとし、新潟などで実践する。91年、全国展開している医療グループの千葉の病院長に就任する。

 ──そのいきさつは。
「医療グループの代表者の先生が、かれの新潟での活動を非常に高く評価して、先生から請われて就任しました」

 証人の医師も、95年から5年間、同じ病院に副院長として在籍していた。

 ──この病院での被告の医療の考え方、やり方はどうでしたか。
「かれは学生時代からそうでしたが、つねに人の意見をよく聞き、それから、まとめます。病院でも、看護婦などの専門家の意見もよく聞き、まとめた上で活動します。かれとならどんなことでもやるという関係ができており、すばらしいものでした」

 地域にも出向き、医療講演を月に2、3回、病院のスタッフと手分けして行った。

 ──ほかの医療機関との関係はどうでしたか。
「医師会との関係が大事ですが、医療グループとの関係はどこもあまりよくありませんが、病院の側から医師会加入を希望し、市立病院もやっていない救急体制があったことなどから、医師会に加入を認められました」

 また、2年に一度、全国地域医療研究会を開いているが、97年、山本が実行委員長になり、幕張メッセで、1000人規模の研究会を開いた。

 ──シンポジウムも行いましたか。
「大会のメインのシンポジウムは、地域医療の推進で日本をかえようというものでした。当時の小泉厚生大臣にも出席願おうと、山本君が取り仕切って、来てもらいました」
 ──小泉大臣は討論に参加しましたか。
「そのとおり。5人のシンポジストの1人でした」
 ──被告がやってきている地域医療の総決算というものでしたか。
「そうです」
 ──今回の事件について、あなたの考えはどうですか。
「かれは人から頼まれたら、断れない性格です。しかし、法に触れることをしたのはいけません。反省してもらわないといけないと思いますが、かれも反省しています」
 ──今後、被告は医者に復帰できますか。
「できます」
 ──あなたは、今後、かれにどうあってほしいですか、何を期待しますか。
「罪は罪として償って、1日も早く医療活動に復帰することを期待しています」

(人名は仮名)



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