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法廷傍聴控え 暴力団トカレフ射殺事件1

昔、こんな事件がありました。

 1991年2月19日、東京で、中国製自動装填式拳銃・トカレフを使った初めての殺人事件が発生した。

 午後7時ごろ、東京都下のマンション7階に住む会社員吉原三郎さん(34歳)方で、チャイムが鳴った。吉原さんがドアを開けたところ、2人組の男が突然吉原さんに拳銃を発射した。吉原さんは病院に収容されたが、弾が心臓を貫通しており、間もなく死亡した。同日午後11時過ぎ、暴力団組員の金田良夫(23歳)と三枝明(22歳)の2人が、「自分たちがやった」と、警察に出頭した。
 この事件は東京地裁八王子支部で裁判が行われ、初公判から半年も経過しない、91年10月29日、第6回の公判で早くも判決が言い渡された。実行犯の2人に加え、その後、2人に殺害を命令した西川健二(32歳)も逮捕され、一緒に被告席に着き、殺人、銃刀法違反、火薬類取締法違反の判決を聞いた。

「被告人西川健二を懲役15年、被告人三枝明を懲役12年、被告人金田良夫を懲役11年に処する」

 主文を読み上げた裁判長は、続けて、「罪となるべき事実」に触れる。

 ──西川は暴力団福島組総長代行、金田は総長代行補佐、三枝は組員である。3人は、福島組総長の福島重男と幼なじみの被害者吉原三郎が、日頃から被告人らばかりか年長の福島総長も呼び捨てにするなど、横柄な態度をとることを快く思っていなかった。
 それに加え、吉原が西川から覚せい剤を受け取りながら、その代金をろくに支払わなかったり、覚せい剤使用の嫌疑で警察に検挙されるや、その入手先を西川であると供述したため、91年2月16日、被告人らが所属する組の上部団体本部事務所が警察の捜索を受けた。
 本部に対して面目を失ったばかりか、福島総長と西川が逃走を余儀なくされたことから、被告人らは吉原に対する憤りをつのらせた。
 ことに、西川は吉原に覚せい剤取引の再開を要求され、これに応じずにいると、業をにやした吉原から脅すような電話をかけられたうえ、福島総長と逃走中の2月19日、福島総長を通じて吉原に電話し、謝罪などを求めようとしたところ、かえって、吉原から福島総長に対し、「いつでも来い」などと喧嘩を売ってきた。このうえは、吉原に先制攻撃をかけて同人を殺害するほかないと決意するに至った。
 西川は、組の拳銃として入手していた2丁の拳銃を使用することとし、射撃は三枝の、その見届けを金田の役割と定めて、金田と三枝に指示を与えた。2人は他に預けていたトカレフ2丁を取り寄せて、これに弾を装填して所持し、吉原の自宅に向かった。
 吉原方の玄関で応対に出た吉原に対し、金田と三枝は、それぞれ手にした銃口を向け、三枝が胸部に1発命中させ、胸部射創による大動脈及び心臓損傷により殺害した──

 続けて、裁判長は「量刑の理由」として、次のように述べた。

 ──犯行の動機は暴力団特有のものであって、酌むべきものはない。また、犯行の態様も、西川の指示に基づき、その配下の三枝、金田が2丁の拳銃を携行して凶行を遂げたという組織的かつ計画的な犯行であるうえ、被害者のみならず、多数の一般人の居住するマンションに押しかけ、被害者方玄関において、被害者の妻が必死で制止するのを無視して、至近距離から確定的な殺意をもって、まったく無防備な被害者の身体の枢要部を目がけて拳銃を発射して殺害したという、極めて無法で冷酷な犯行である。
 これにより、被害者はいきなり自宅を一家だんらん時に襲われ、素手のまま拳銃で射殺されたのであって、34歳の若さで妻と幼子を残して生命を奪われた無念さは察するに余りあり、また、目の前で夫を射殺された被害者の妻の被った心痛はもとより、その幼子が将来受けるであろう精神的苦痛も計り知れず、かかる遺族に対して、さしたる慰謝の措置も講じられておらず、被害者の妻が厳罰を求めていることなどを考えると、被告人らの刑事責任は誠に重いというべきである──

 幼子は、生まれたばかりの女の子であった。

 判決を聞いた後、3人の被告は覚悟していたようで、落ち込んだようすもなく退廷していったが、かれらの法廷における態度は淡々としたものであった。
 実行犯の金田と三枝の初公判は、判決から半年ほど前、91年5月13日午前10時から開かれた。40人ぐらい入る傍聴席には、組関係者らしい男たちが15人ぐらい陣取る。金田が法廷に姿を見せると、「太ったじゃないか」などと言い合っている。金田は色白で少し太り気味だ。もう1人の三枝のほうは、やせ形でメガネをかけている。
 吉原に対する殺人について、起訴状が検察官から朗読され、両被告とも、「間違いありません」と公訴事実を認めた。続いて、冒頭陳述も行われ、初公判は25分ぐらいであっさりと終わった。
 再び手錠をかけられ、腰縄をつけられて退廷する両被告に、「頑張れよ」「運動しろよ」と傍聴席から声がかかる。また、2人を護送する刑務官に対しても、「よろしく頼みますよ」などと頼んでいる。これに対し、両被告は、「すみませんでした」と何回もいって頭を下げた。
 第2回公判(7月10日)では、組関係者の傍聴は少なく、6、7人ぐらいだろうか。この日は、殺人にあたって拳銃を使った関係の追起訴である。2人は、それぞれ、8発と5発入りのトカレフを持って、吉原のマンションに行った。同夜、警察に出頭したとき、1丁を持参したが、もう1丁は、別の組員の供述から、5月18日、押収された。
 銀色に光る2丁のトカレフが証拠として提出された。
「この拳銃はだれのものか」
 裁判長から聞かれて、三枝が答える。
「組のもの。組から預かっていて、自由に使っていた」
 金田も同じ質問に答える。
「組の西川さんの拳銃」
 三枝と金田の答えが違った。
 第3回公判(8月19日)から、4月に別件で逮捕されていた西川が被告に加わった。金田も三枝も坊主頭だったが、西川は少し長めの髪で中肉中背である。細い顔でどこか幼さが残り、暴力団幹部には見えない。起訴状が朗読され、裁判長から公訴事実について聞かれる。
「間違いありません」
 西川ははっきりと認めた。
 続いて、西川に対する冒頭陳述が行われる。

 ──西川は左官職人の息子で、高校を中退し、露店の手伝いなどをするうち、暴力団組員となる。その後、暴走族時代の知り合いで兄貴分の福島重男が、新しく組をつくることを許され、福島組をつくり総長となる。西川は福島組総長代行となり、その後、西川も福島組の下部組織として西川組をつくり、組長にもなる──

 福島組のトップを総長と呼んでいるが、大きな組織ではなく、総長以下約10人の組である。
 第4回公判(9月17日)には、情状証人3人の証言と被告人質問が行われた。三枝は母親、金田は姉が出廷し、西川は内妻が次のように述べた。

 ──86年2月に結婚し、その年の11月に長男が生まれた。90年秋、離婚したが、その後、よりを戻し、いまは内縁の関係。結婚する5、6年前にお祭りで知り合った。当時、私は歯科助手をしていた。

 夫はテキヤで店をやっていた。やさしくて、こどもがすごく好き。乱暴したこともない。こどもが生まれた1カ月後に、夫は覚せい剤事件で服役した。それから、2年半後に帰ってきた。
 その間はこどもを実家に預けて働いた。それ以後、生活費はきちっと入れていたが、生活は不安定だった。家を留守にすることもあったし、私は普通の仕事をしてもらって、普通の家族みたいになりたいと思った。左官の腕もある。もう普通の人になってほしい。夫もそう話している。今度出てきたら、親子だから、また一緒に暮らしたいと思ってる──

 続いて、被告人質問である。弁護人が質問したが、三枝の答えたポイントは次の1点だった。

 ──組の指示でやったのですか。
「自分と吉原のいざこざもあり、指示だからというのではありません。組の指示がなくてもやりました」

 金田は次のように答えた。

 ──事件での君の役割は。
「上の指示の段階では、三枝君がやるので、自分は見届けです」
 ──君の持っていた拳銃は調子が悪かったね。
「はい」
 ──撃ったら暴発するんじゃないですか。
「車の中で、銃身がぐらぐらするので危ないといった話を三枝君としました」
 ──怖くて撃てなかったんじゃないかな。
「吉原さんが喧嘩を売ってきたので、吉原さんのマンションには仲間がいるかもしれないというので、三枝君の命が危ないとチャカを持って行きました。自分は撃つ役割ではなかったんですが、玄関のチャイムを鳴らし、ドアが開いたら吉原さんがいたので、とっさに自分も銃を構えました。今後、自分はカタギになります」
 ──数珠とお経の差し入れを求めましたが。
「吉原さんが周りにずーっといるんですよ。それで冥福を祈ろうと思いました」
 ──般若心経を覚えて、その後、観音経を毎日読んでいますか。
「はい。読経しています」

 最後に、西川被告への質問である。三枝と金田は、捜査段階では私選弁護人が付いていたが、公判では国選弁護人が1人。西川は別の弁護人で私選である。

 ──事実関係に間違いないね。
「はい」

 最初にこのようなやりとりをした後、吉原殺害の動機などについて、次のように述べた。

 ──吉原は特定のヤクザ組織には入っていなかった。それだけ怖かった。怖いというのは、組織の人であれば、その組の親分さんと話をつけられるが、そういうことはできない。90年9月、吉原が覚せい剤で逮捕された。執行猶予だったが、戻ってきてからも覚せい剤を要求する。
 私は断ることにしたが、私がとくに頭にきたのは女房を脅されたことだ。覚せい剤で手入れされたことじゃない。私の家庭を壊されるんじゃないかと思った。女房への脅迫電話があったと知った後、吉原に電話した。すると、「三枝、金田はチャカを撃てるだろ」と挑発した。そこで、吉原のところに若い衆を向かわせたこともある。
 犯行に使った拳銃だが、2月はじめに2丁入手した。これは吉原を意識したのではなく、別の暴力団の組員から、「トカレフあるから購入しないか」という話があったので買った。1丁は西川組として持ち、試射もしている。もう1丁は福島組としての拳銃で、福島の愛人が預かっていた──

 西川は、自分の指示で行ったと強調したのだが、検察官の質問のポイントはただ一つである。

 ──福島総長の指示じゃなかったのですか。
「いえ、私自身です。親分に向かってくるものに対しては、私たちがやります」

 第5回公判(9月30日)で、検察官の論告求刑があり、弁護側は最終弁論の中で、福島総長が被害者の吉原の遺族に対し、100万円の香奠を贈ったことに触れた。最後に裁判長から、3人の被告に対し、最後に一言と促された。「ないです」と三枝、金田は「申しわけありませんでした」。西川は、「亡くなった吉原さんの遺族に対しては、出所したらなんとかしたい」と述べた。
 3人とも起訴事実を全面的に認め、第6回公判で冒頭のような判決が下されたのである。これで一件落着となるのが、この種の事件の裁判のようだが、どういうわけか、西川と金田が控訴したのである。金田は見届け役なのに刑が重すぎるということだった。西川の控訴理由は驚くようなものであった。

 年が明けた92年4月8日、東京高裁で控訴審の初公判が開かれた。金田は青々とした坊主頭。西川は長い髪のままである。西川は裁判所に控訴趣意書や上申書を提出し、控訴理由を明らかにした。それらによると、最大のポイントは、一審判決は事実誤認であり、吉原殺害を指示、命令したのは自分ではなく、福島総長だというのである。
 西川の“新供述”によると、真実は次のような状況だった。
 上部団体本部が覚せい剤事件関係で警察の家宅捜索を受け、福島と西川は身を隠し、山梨・石和のホテルに泊まっていたときのことである。

(2021年11月26日まとめ・人名は仮名)



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