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慰安婦 戦記1000冊の証言19 中曽根主計中尉

 慰安婦とは、「単なる売春婦」ではなく、日本軍が企画・立案し、慰安所設営・慰安婦募集・慰安所管理まで、全面的に関与した「慰安婦分隊」の「兵士」とでも言うべき存在であった。
 続いて、慰安婦各論に入ってみたい。

中曽根主計中尉は慰安所をつくった

 中曽根康弘元首相は、海軍主計士官だったころ、南方の島で飛行場設営にあたる多数の徴用工のために、慰安所を苦心してつくったそうだ。
 中曽根の慰安所設営前史について、中曽根があるインタビューで次のように話している。

 昭和16年11月、この年、東大卒業し内務省に入省したが、短期現役で海軍主計中尉に任官する。
「呉の軍港へ行って参謀長に会って挨拶したら、『お前は設営隊の主計長だ』と言われた。
『設営隊というのは何ですか?』と聞くと、今度初めてできる部隊で、敵の飛行場を取って味方の零戦や中型攻撃機をすぐ飛ばせるようにする部隊だ。さっそくやれ、と。
 すでに2000人の徴用工員が徴用されておって、それを編成することになった」

 出港したのが11月29日。日本の委任統治領のパラオ到着が12月6日。太平洋戦争開始の12月8日まで、パラオで待機する。
「その間、船の中で2000人をどう訓練していくか。4月に大学を出て、四か月間経理学校で訓練を受けて、海軍の『か』の字も、戦争の『せ』の字も知らない、本当のトーシローの中尉ですからね」

「徴用工員の『経歴帳』を調べてみると、相当な刑余者がおるわけです、昔で言えば前科者、相当な重犯の人もおった。逆に三文文士が工員で入っていたり。全国からの徴用なものだから歯医者がいたり、文学青年がいたりと、大変面白い混成部隊でしたね」(1)

バリクパパンで苦心して

 そんな設営隊が、インドネシア・ボルネオのバリクパパンに、海戦を経て上陸したのは、昭和17年1月。バリクパパンは石油生産の拠点都市だった。

 上陸後、「やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」(2)。

 どのような苦労で慰安所をつくったのか。慰安婦はどのように集めたのか。中曽根自身は語っていないようだ。中曽根によって創設されたと思われるバリクパパンの慰安所に関しては、さまざまな証言がある。

 証言1「バリクパパンに相当規模の慰安所がありました。そのほかバデルマシン、ポンテナック、クラカンに中規模のがあった」
「慰安婦には、内地から日本人、朝鮮人の女性を連れて来ていた」「連れてきた慰安婦は海軍の責任で、当初は日本へ石油を運ぶ油槽船の船員慰安という名目になっていたはずです。それを後から軍が利用する形になっていきました」(3)

 証言2「ボルネオの日本軍の司令部のあったバリクパパンという町には料亭もあったし、大きな慰安所も三カ所あった。日本がボルネオを占領した直後に建てたものだろうと思う。
 造りは学校の校舎のような具合だったな。仕切りはアンぺラ1枚。床も同様。士官だけが入れる慰安所は日本人の慰安婦が10人ほど居たが、この他に下士官と兵が入る慰安所には70人からの慰安婦がいた。みんな原住民だな」
「ボルネオの慰安所は海軍が直接関係したんではなくて、商売人がやっていたんだよ。内地でその関係の商売をしていた人間が南方まで進出して、原住民を集めて慰安所をこしらえて、ボルネオで働いていた民間人や兵隊に場所を提供したんだ」(4)

 証言3「軍の慰安所には、兵隊、軍属を問わず、たいていの者が遊びにいった。その慰安所にも階級による差別があった。
 軍人、軍属の高等官待遇者は、将校クラブで日本内地の娼婦が相手してくれる。下士官以下は台湾や朝鮮出身の女性のいる『月明荘』と、現地人やオランダ混血の女性のいる『桂林荘』『千鳥荘』であった。
 19年7月のサイパン陥落後、戦況が悪化すると、内地出身慰安婦や従軍看護婦など内地女性はすべて引き揚げたので、『月明荘』は、1階級進級して高等官用のものになった」(5)
 
 これらの証言は内容を吟味する必要もあるだろうが、慰安所をめぐっては、こんな「突撃話」もあった。

 突撃したのは、海軍の102号哨戒艇の大尉である。昭和18年のころか。
「バリクパパンの根拠地隊」に着任以来、「10日間で2隻の敵潜水艦を撃沈し」、11月2日午後7時バリクパパンに入港した同艇は、翌3日明治節の遥拝式後、「兵員には半舷上陸を許可」する。バリクパパンへの「初上陸」だった。
 しばらくして、大尉が「甲板へ出ると、喜々として上陸した兵達が三々五々帰って」いた。
「私はそれらへ歩み寄っていって、声をかけた。まだ時間は十分あるのに、なぜ早く帰ってきたか、陸上には楽しい所はないかと聞いた。
 スラバヤと違って、見るところも買い物するところもなく、慰安所も陸上部隊の兵で満員だという。
 私はこれらを聞いて頭にきた。掌砲長を呼んで、いきなり下士官1、兵4名をもって完全武装させよ、俺が連れて上陸すると命じ、艇長へはちょっと陸上を見聞して来ますと断って出発した。秘かに私物のモーゼル拳銃を携えていた」
「慰安所では、建物の前の広場の正面に設けた壇の上に立ち、兵達を建物に向って横隊に整列させ、私の拳銃を合図に、空に向けて一斉射撃を命じた」
「喚声が起こり、半裸体の男女が騒然となって外へかけ出て来た。私は引き続き斉射を命じた。中には素っ裸の女性もいた。
 驚き騒ぐ群衆に向って、ここの代表者前へ出ろ!と命じて、
 一体貴様たちははるばるこの赤道直下のボルネオへ金を儲けに来たのか、それとも色恋いをしに来たのか!と怒鳴り、お前達の使命は銃後の人達に代わり、第一線で命を捨てて戦う戦士達を慰安するのが使命ではないか、
と諭した」
「これからは海上部隊の兵隊さんを最優遇すると誓わせた。陸上の兵達にも、艦船の兵達が上陸したときは、誓って遠慮するように伝えた。
 効果はてきめんにきた。第一班はもっそりとして帰艦したが、第二班は大はしゃぎの笑顔で帰ってきたという」(6)

 部下を思う心、中曽根中尉と同じか。

 以上は戦時中の様子だが、敗戦後、慰安所経営者にも危機が訪れる。ある海軍軍人の回顧録によると……。
「慰安所の親父たちは、いろいろと口でうまいことを言って原住民を集めたんだろう。ある所では女が泣き騒いで暴れているというんで、私が行ってみたら、騙されたといって泣きわめいている。
 それで店の親父に、本人がこんなに嫌がっているんだから家に帰してやれと命令して、私自身がトラックに乗せて、女の村まで連れて行った。そしたら家族だの近所の者だの大勢出てきて、喜んで大変だったよ。
 こんな具合に、いやいや連れて行かれた女たちは終戦になるとオーストラリア兵に訴えた。それで親父たちはみんな捕まって、ほとんど現地で銃殺されたんだ。
 この事は公式記録にはのっているかどうか疑問だが、正真正銘、確かな話なんだ」(4)

 真偽のほうはどうだろうか。その一方、正式にオランダの軍事裁判で裁かれた事例もある。

無罪になった慰安所経営者

「昭和17年和蘭軍投降後、本人所有のバリックパパンの建物を日本軍の慰安所とし、(インドネシア人女性の)強制売淫及び婦女の誘拐をなす」との理由で、日本人石山三郎(仮名)が起訴された。バリクパパンの慰安所経営者の一人だった。
 この時、法廷の通訳を務めた藤田勝の証言がある。

「蘭領東印度時代に刑務所暮らしをした経歴を持つ石山が、なぜか軍政下で慰安所を開設していました。彼は戦前にバリックパパンに出稼ぎに来て、的屋稼業をしていた男です」

 中曽根の引き連れた徴用工には刑余者もいた。石山も刑務所経験者という。何やらつながりがありそうな気配もする。
 石山は、昭和22年10月に起訴され、公判で10年を求刑される。
 ところが、「検察側証人として出廷した3人のジャワ人女性が、『トゥアンのおかげで楽をさせてもらった』『トゥアンに助けてもらった』という証言を繰り返したのです。
 なかには石山の顔を見て泣き出す者も出て、検察側の意図した虐待の立証はできませんでした」(7)。
 結局、石山は昭和23年2月、無罪判決を受けたのである。

何もしないで座禅

 戦争中、中曽根にある評判が立った。

「ちょっと不思議な士官がいるという噂を聞いた。なんでも親しいSを決めて、泊っても、何もしないで座禅を組んでいるというのである。
 万松楼(海軍関係者がよく利用した佐世保にある料亭)の近くに禅宗のお寺があり、Sが寝るまで待って、そっと夜中に抜け出して座禅を組みに行き、明け方、そ知らぬ顔でもどってきて、Sが目を覚ますと『ご苦労、ご苦労』と背中をなでるのだという」(8)

 ある海軍主計中尉の海軍用語解説によると、
「芸妓は"S"で、これは"Singer"の頭文字をとったもの、海軍専用の芸妓は、酒の相手をして、唄を歌い、踊をおどるだけでなく、夜一緒に寝るものとされていた」(9)

《引用資料》1,新保祐司「『海ゆかば』の昭和」イプシロン出版企画・2006年。2,松浦敬紀「終りなき海軍」文化放送・1978年。3,千田夏光「従軍慰安婦」双葉社・1973年。4,佐賀純一「戦火の記憶」筑摩書房・1994年。5,磯村生得「われに帰る祖国なく」時事通信社・1981年。6,南ボルネオ会『戦時回想録』私家版・1977年。7,プラムディア・アナンタ・トゥール「日本軍に棄てられた少女たち・増補改訂版」コモンズ・2013年。8,織田五二七「海の戦士の物語」竹井出版・1984年。9、岸昌「一以貫之」堺日日新聞社・1973年。
(2021年10月9日まとめ)

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