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慰安婦 戦記1000冊の証言45 『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』上

『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』(ハート出版・2017年発行)という本がある。著者は、韓国の東亜大学人間科学部の崔吉城教授だ。
 2013年、韓国で『日本軍慰安所管理人の日記』が出版されたのを契機に、この日記全文を調査し、検討を加え、感想を記している。
 この日記を書いたのは、韓国・金浦出身の朴。1905年生まれで、1942年から44年にかけて、ビルマ・シンガポールの慰安所管理人(帳場人・主に会計担当のようだ)を務める。この間、43年から44年にかけての日記が紹介されている。

 そこで、『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』を読みながら、「戦記1000冊の証言」を加えて、ごく一部を簡単に紹介していきたい。『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』からの引用は、太字にする。

「この慰安所帳場人日記を書き残した朴氏は、どうして遠くビルマやシンガポールまで行ったのだろうか」(p42)

 朴は、1922年に金海の公立普通学校を卒業した後、登記所職員、代書人事務所に勤めていたという。
 朴は、42年7月、慰安所を経営する義理の兄らと一緒に、釜山港から出立したが、43年10月ごろ、韓国からビルマに向かった人に関する証言がある。証言者は、朝鮮生まれで、41年、京都大学を卒業し、翌年、朝鮮総督府に入り、敗戦まで勤務した。

「彼(友人)は私より2歳年上の朝鮮人であった。普通学校(小学校)卒業だけの学歴であったが、日本語は上手で、そのうえ立派に事務処理のできる有能な青年であった。田舎の小さな郵便局に勤め、郵便と電信、電話の業務を担当していた」
「その彼が昭和18(1943)年の初めであったろうか、思いもかけぬ相談を持ちかけてきたのである。
『こんど何人かの女性を連れてビルマに行くという人から、仕事を手伝ってくれないか、と頼まれている。仕事は会計を担当してもらいたい。報酬は半年で1500円払う、と言われている』ということであった。
 突然なことであったため、私も戸惑ったが、『そんな遠いところまで行ってどうするんだ。報酬の約束だって確約と言えるのか』と否定的な答えをしたところ、彼は『今のままでは、もらった給料を飲まず食わずで全部貯めても、1500円を貯めるには5年はかかる』と、いつになく、きりっとした態度で応じたのが印象に残っている。
 当時、彼の月給は30円くらいであった。大学出で、高い月給の人でも初任給が75円、地方で一番偉いと思われていた知事の月給が300円程度であった時代のことである」
「秋になって『やはり、ビルマに行くことにした』と言ってきた」「そして私が18年10月、京城(ソウル)から新しい任地、春川に移って間もなくのころであったが」「別れの挨拶に来てくれた」(1)

『1月29日』『朝、ケーンヒル・ロード88号の西原君の家で起き、オーチャード・ロードの偕行社に出勤した』
『2月2日』『朝、ケーンヒル・ロード90号の西原君の家で起き、朝食を食べた。終日菊水倶楽部の帳場の仕事をした』」
(p44)

 昭和19年、シンガポール滞在中の朴日記である。
「ケーンヒル・ロード」について、こんな証言があった。
「後方基地昭南(シンガポール)は、兵站参謀が脚光を浴びる時代となったが、料亭の開設も、兵站部の担当であった。ソファイア路にあった南幸女学校を軍兵站部が接収していたが、やがて東京大森海岸の料亭『かにや』が進出してきて軍の高級料亭となった。
 ケーンヒル路の南洋女学校も軍の料亭となり、清水建設の手で立派な日本風に改造されて絃歌と嬌声が周囲に響いた。スコット路には海軍の筑紫、バルモーラル路には五十鈴、さらにジョホールバルには、艦隊用として新喜楽が開店した」
「昭南の治安が一応確立されると、軍兵站部は早速オーチャード路の裏、ケーンヒル街の一角を接収して兵隊の為の慰安所を開き、朝鮮から連れて来た親方と、台湾人であった日本名山口君子という女性に経営させた」(2)

「出発の2年後、1944年4月6日の日記には、『おととし慰安隊が釜山を出発する時、第四次慰安団の団長として来た津村氏は鮮魚組合の役員をしていた。その事情を聞いて、簡単に挨拶をした』と書いてある。つまり、彼は、この第四次慰安団として来たということになる」(p47)

 昭和17年3月ごろ、ビルマのラングーンで、新聞記者たちを騒がせたのは、次のような、朝鮮からの「第一次慰安団」だったかもしれない。
「ある日、『日本から女が来た』という知らせがあった。連絡員が早速波止場へかけつけると、この朝到着した貨物船で、朝鮮の女が4、50名上陸して宿舎に入っていた。まだ開業していないが、新聞記者たちには特別にサービスするから、『今夜来て貰いたい』という話だった。
『善は急げだ!』ということになって、私たちは4、5名で波止場ちかくにある彼女らの宿舎に乗りこんだ。私の相手になったのは23、4の女だった。日本語はうまかった。公学校で先生をしていたといった。
『学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか』ときくと、彼女は本当に悔しそうにこういった。『私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話で募集がありました。私は東京へ行って見たかったので、応募しました。
 仁川沖に泊まっていた船に乗りこんだところ、東京へ行かずに南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで、半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。
 歩いて帰るわけにも行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ可哀想なのは何も知らない娘たちです。16、7の娘が8名います。この商売はいやだと泣いています。助ける方法はありませんか』。
彼女たちのいうように逃亡できる状態ではない。助ける方法って何かあるだろうか。
 考えた末に、『これは憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい』といった」「これらの少女たちがかけこめば、何か対策を講じてくれるかもしれない」
「結局この少女たちは憲兵隊に逃げこんで救いを求めた。憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って、8名の少女は将校クラブに勤務することになった」(3)

「1月29日の日記に『朝鮮から一緒に来た野澤氏に会うと、マンダレー方面で慰安所を経営していたが、今度は部隊について来て、我々が以前いたプローム市で営業をしているという』とあることから、彼がプロームで慰安所の仕事をしていたことがわかる」(p48)

 プロームにいたのは、43年8月から11月にかけてのようだが、44年ごろのプロームのようすを、陸軍第73兵站地区隊兵士が証言する。
「自分はプローム兵站の勤務となった」「此処から先は所謂第一線なので、附近には例の慰安所がかなり沢山設けられていた」
「市の一画にあった大きなイギリス人や、支那人の家の一階、二階の部屋を細かに区切って、その小さな仕切の中に慰安婦が一人ずつ働いていた。
 彼女たちの出身国は様々で、広東出身、朝鮮出身、内地出身……といろいろ変わった人種の人が来ていて、それらが各々1グループとなって、一人の主人のような者が率いていた。
 宣撫政策上かビルマ人の慰安婦などは一人もいなかった。グループの人数も各種各様で多いグループは30人、40人であり、少ないグループでも6人か7人いた」(4)

「彼は、プロームからさらに北進して、インドの国境に近いビルマ北西部のアキャブに行き、『アキャブに来て、二か月と5日ぶりに、ここを離れた』と書かれていることから、二か月と5日間(勘八倶楽部という慰安所で)帳場の仕事をしていたことになる」(p48)

 アキャブには、42年11月から43年1月ころまで滞在したようだ。朴がアキャブを去った直後の同地のようすを、第55師団大尉が証言する。
「その夜、小隊長を誘ったが、誰も行かないので、私一人慰安所に行った。マユ半島の砲声が殷々と聞こえるなかの夜遊びである。敵機は昼夜を問わず連日数回の爆撃にくる。ここもやはり朝鮮の娘子軍であった。真夜中、例によって爆撃である」
「爆弾はこの家屋の周囲に落下しはじめた。女は『早く早く』と言って部屋の外で待っている。私は『先に行け』と言って防空壕に行かした。裸で、しかもピーヤで死んだとあっては自分はもちろん先祖にも申しわけない。せめて軍装を整えてと思い、闇のなかで服を着て靴を履き、革脚絆を手に持って入口をさがす」「手探りで壁を一周してようやく出口を見つけて部屋から出た」(5)

 朴は、アキャブを出て南下し、タウンガップを経由して、ラングーン方面に向かったが、逆に、アキャブを目指す一団もあった。43年5月ごろの話である。
「ビルマ南部のタウンガップ基地にいた船舶工兵第11連隊・Z一等兵は『朝鮮からの慰安婦が10人くらい来るらしい』との噂にいささか驚いている。ここまで船で来るにしても、マラッカ海峡を通り、アンダマン海をマレー半島沿いに北上し、ベンガル湾まで出なくてはならないのである。
『こんな辺境の地へ』『うれしい話だ。顔だけでも拝みたいものだ』」
「その日夕、Z一等兵は」「大発艇機関室に潜り込んでエンジンの調整をしていた。夜に入ってアキャブに向かうことになっていた」「表がにぎやかになったので、機関室から出てみておどろいている。
『日本語を話す女人が十数人、40歳半ばの夫婦者に連れられて乗り込んできた』『わが舟艇は戦闘部隊の兵員を乗せての敵前上陸が主な任務だと思っていた。女を乗せることなぞ夢にも考えていなかった』(Z・手記)。
 彼女たちは朝鮮人慰安婦だった。夫婦者は」「慰安婦の親方だった。大発に同乗してアキャブへ行くというのだった。やがて出港」
「(Zは一人の慰安婦と機関室で身の上話もするようになる)『500円か600円かでオトウサン(親方)に買われた』『年季は5年だが、頑張れば3年で故郷へ帰れると聞かされている』。女はそんな話をしている」(6)

《引用資料》1、大師堂経慰『慰安婦強制連行はなかった』展転社・1999年。2、篠崎護『シンガポール占領秘録』原書房・1976年。3、小俣行男『戦場と記者』冬樹社・1967年。4、白鳥隆寿『シッタン河に沈むービルマ敗走記』私家版・1962年。5、今日の話題社『大平洋ドキュメンタリー第19巻』今日の話題社・1970年。6、土井全二郎『生き残った兵士の証言』光人社・2004年。

(2022年2月10日更新)

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