見出し画像

慰安婦 戦記1000冊の証言46 『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』下

「彼は、結局ここに(ラングーン)に安着できず、ペグー市に故郷の友人の金川栄周氏がいるという消息を聞き、金川氏のところへ行くことにした」
「ビルマ人の乗合自動車でペグーに到着した。文楽館という慰安所の新井氏の家で少し休んで、慰安所を経営している同郷人、金川氏を訪ねて行った」
(p58)

 ペグー行きは、43年2月から5月にかけてのようだが、同年1月ごろのペグーの慰安所状況は、以下のようだった。第55師団大尉の証言である。
「今日(18年1月1日)は師団長閣下の招宴に招待されている」「招待されているのはペグー駐留の各団体長である」
「中隊長たる私は大尉でも独立歩兵中隊長で団体長の中に入るのである。酒宴のサービス要員として、朝鮮の慰安娘子軍が動員されていた」「ついつい度をすごし遂には持ち前の酒豪振りを発揮して、遠慮なく大いに飲んだ」「私は師団長の招宴からいつ、どうして帰ったのか。気がついたのは丸顔の朝鮮娘の膝枕で寝ている自分を発見したときである」「この朝鮮娘と一夜の契りを結んだ」
「(翌日)行って見ると女はご馳走を作って待っていた」「私はこの女の考えが理解に苦しむのである。女たちは朝鮮では貧しい暮らしをしていたはずである。金のため慰安婦としてここに来ている。早く金を貯めて朝鮮へ帰り幸福な結婚をするのが唯一の希望であると思う。しかるに夜の客も取らず私を待っている」
「その夜も朝帰りとなった。昼間女は花と花瓶を持って私の部屋に置いて行った。それから毎日新しい花を持って来る」
「結局元日よりここペグーを出発するまでの30日間、交渉があろうとなかろうと、それに関係なく、蘭子(朝鮮娘)の部屋から出勤したのである。いとも自然に、そして公然と」(1)

「『5月26日、前年9月頃、菊水倶楽部からティモール島のほうへ行った李玉梅という女子が、今日シンガポールへ帰ってきたということで来ていた』」(p73~74)

 44年5月の日記だから、李は43年9月頃、ティモールへ行ったようだ。陸軍第48師団は、42年9月からティモールに駐留する。
「チモール(ティモール)に駐屯した日本軍は終始軍紀厳正だった。これはわれわれの師団長土橋中将が格別軍紀風紀のやかましい方だったせいもあるが、食においても性においても、日本軍の生活が原始社会のテトンとまるで領域がちがっていたことが最大の原因だったと思われる。
 日本軍が上陸すると間もなくクーパン、ディリー、ソエ、ラウテンなどの主要な駐屯地にはさっそく慰安所ができて、われわれの眼にいちおう女らしく見える日本の女が来た」
「2万名の軍隊に対してたった30名ぐらいの女では、何といっても数が足りないから女の体がもたなかった」
「占領前からこの島にいた外来人は、いちおう決められた地区に抑留されていた」「陸軍に収容されたものは、クーパンとディリーの近所に、おのおの数地区を設けてそこへ収容されていた」
「(慰安婦が足りないので)収容所の外来系の女たちの中に、もし希望者があれば外に出す、ということで相談を持ちかけて見ることになった。
 その条件はあくまで勧誘であって、それに従事することになっても、お客をとることを強制しないということを約束した」
「軍政部の方から、この相談を持ちかけてみると」「10名の申し込みがあった」(2)

 東ティモールについては、陸軍主計中尉の証言がある。
「女性というのは、日本人はいませんでしたが、朝鮮人が主で、あとは現地の人でした。3段階で、朝鮮の人、ティモールの人と、それからジャワから連れて来たのとおりましたね」(3)

「『1月30日』」「『市内の成武堂書店に行き、ビルマ新聞購読の申請をし、創刊号から今日までの分をもらった。ビルマ新聞は、今年1月1日から発行されていた』」(p94)

 後の読売新聞社長・務台光雄が、このビルマ新聞に関わった。
「(1942年)軍が4社に対し、占領地における新聞発行を委嘱した。ジャワが朝日、フィリピンが毎日、マレーが同盟、最前線のビルマが読売である。このうちビルマだけは非占領地であった。務台は(読売の)企画局長になって、2、3日したとき、ビルマ行きの命令を受けた」
「務台は17年10月に赴任し、19年6月に宮崎光男にバトンタッチするまで爆撃下の新聞発行に挺身することになった」
「ビルマ新聞はタブロイド判の4ページで3万部を発行した。当時ラングーンには約3000人の軍以外の日本人がいたが、ビルマ全土には10カ師団以上の軍人がおり、それに見せるために計画されたものである」
「務台のおもな仕事は新聞だが、側面から民間有識者との交友や、それに18年にはビルマが独立国家として誕生し、バーモが大統領となったので、間接には何かと仕事があった」
「ビルマでの務台の生活は、戦争さえなければ王侯のような豪奢なものであった。ラングーン郊外にビクトリア湖という人造湖があって、周囲16キロの湖畔には樹木がうっそうと繁っていた。この湖畔に元大蔵大臣チンモンの邸があったが、これがビルマ新聞社長公館であった。
 敷地4000坪、大きな松がたくさんあったので松風荘と名づけられた。湖畔には軍司令官、参謀長、沢田大使などの公館もあり、前の道路を隔てて司政長官の官舎があった」「務台の身分は将官待遇であった」(4)

「『6月15日、村山浩二君と一緒にラングーン市内に行くことにした。軍司令部へ行くと、慰安所経営者会議があるという。山添准尉に会ってしばらく話をし、村山浩二君と市内の各所に立ち寄って、インセンに帰った』」(p130)

 この日以外にも「山添准尉」がしばしば登場する。この「山添准尉」について、ビルマ方面軍司令部恩賞課に勤務した中尉の証言がある。
「ラングーン付近の、いわゆるP屋には、最高級の翠香園にはじまって、竹の家、南国会館、黒金荘等、約20軒もあり、陸海軍、将校下士官兵、人種ごとの差別もあり、さながら大東亜女性展の感があった。
 総元締めは慰安部長と呼ばれた山添准尉だ。彼は慰安婦の人事、服務、衛生検査まで指示する立場だから、もててもててと羨望されたが、そのうち兵站病院に入院してしまった。
 病名は顔面神経痛とのことであった。神経衰弱がこうじたらしく、傍目ほど余禄のある勤務ではなかったらしい」(5)

「『6月25日』」「『夕方にラシオで慰安所の経営をしている大石氏が小山氏と一緒に来て、時を過ごし、小山氏は帰り、大石氏は泊まった。大石氏もこのたびの慰安婦の募集のため帰国するそうだ』」(P131)

 ラシオのようすについては、44年2月、補充兵で、朝鮮・竜山の第49師団に入隊し、ラシオに派遣された一等兵の証言がある。
「ラシオで朝鮮出発以来、初めて俸給を支給された。約40円程であったが、3か月分である。給料袋と一緒に"突撃一番"を2個支給された。
 経理下士官に『あの家の前で並んでおれ!』命令だと思って、指定された大きな家の前で、既に並んでいる兵隊の最後尾についた。私の列には、30名以上いたが、30分ほどしてから初めて話しぶりから慰安所とわかり、迷った」
「話に聞いた慰安所を後学のために知っておこう」「大体一人の所要時間2分30秒」「女が朝鮮人とわかり、『表で待っている。仕事が終わったら朝鮮の話をしよう』夜半まで待った。やがて営業?を終った彼女が出て来た。まず彼女の流れて来た経過を聞き、ビックリした。
 女の話では、最初、特志看護婦だった。しかしビルマに入国してから病院に1日も勤務する事もなく、高級将校の相手をさせられ、月日と共にだんだん下に落とされ、今は兵隊相手で1日に数十人の相手をさせられ、今日も百二十人余りの相手をさせられたと、涙を流して夜更けまで時間の経過も忘れて語った。
 金が沢山出来れば朝鮮に帰れる。ラシオから先には、金を使う所もない。慰安所も此処が最後と聞き、全部信用した間抜けな兵隊になってしまった。朝鮮から持ってきた朝鮮銀行券(原注・朝鮮通貨)全部と、其の日貰ったばかりの給料の残りも全部渡してしまった。
 作業賃金1回5円也?私が騙されたかもしれない。でもその時は、とても良い事をしたような満ち足りた気分でした。それより先慰安所はないはずなのに、数多くの慰安所があった」「見事にやられたのである」(6)

「慰安婦募集のため帰国」の点では、中国・漢口の出来事だが、憲兵曹長の証言がある。彼が慰安所街の積慶里で、旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、2年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。
 女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った300-500円の前借金も1、2年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで1年に1、2度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです』」(7)

「あくどい手口」かどうか不明だが、この慰安所街・積慶里で、こんな話も伝わっている。
「孝感から来た朴という50位の朴訥な朝鮮人が、武漢楼の権利を買いとって商売をはじめた」「朴はいちど朝鮮へ帰って新しい妓をつれて来たいというので、公務旅行の証明書を持たせて朝鮮へ帰してやった。
 明けて昭和19年の1月、南京から朴たち11名が乗船して漢口へ行くという電報が兵站に届いた。追いかけるようにして、今度は乗船した船が、九江付近で米空軍機の爆撃をうけて沈没し、全員行方不明という報せが入った」「暁部隊からも、正式に朴や慰安婦たち全員死亡の報せがはいった。乗船者名簿には、朴ほか10名としか書かれておらず、朴につれられて来た妓たちの氏名はまるでわからなかった」
「朴の郷里に手紙を出させ、同行した少女たちの身元を調べるよう手配したが、返事もなく結局何もわからなかった」(8)

《引用資料》1、今日の話題社『大平洋ドキュメンタリー第18巻』今日の話題社・1970年。2、三浦重介『チモール逆無電』自由アジア社・1961年。3、インドネシア日本占領期史料フォーラム『証言集―日本軍占領下のインドネシア』龍渓書舎・1991年。4、松本一朗『闘魂の人―人間務台と読売新聞』大自然出版・1973年。5、二輸会『わだちの跡』私家版・1970年。6、都築金光『ビルマ戦線"地獄の霊柩車隊奮戦記"第49師団歩兵第168聯隊手記集』私家版・1975年。7、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社・1999年。8、山田清吉『武漢兵站』図書出版社・1978年。

(2022年2月10日更新)







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?