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慰安婦 戦記1000冊の証言44 帰還

 陸軍58師団将校の証言を聞いてみよう。
「第58師団が『九江』(中国江西省)周辺の農村に分宿を完了したのは、昭和20年10月の初旬であった。或る日の午後のことである。
 一人の朝鮮人元従軍慰安婦が私たちの将校宿舎にどなり込んできた。元慰安婦の言葉はひどく乱暴であり、その態度はひどく横柄だった。そして言うのである。
『お前ら、日本の将校よ。お前らの国日本は戦争に敗けて四等国だ。そして、朝鮮は一等国だ。もうわしらは、お前らの自由にはならんぞ!』と」「私たちはだまって聞いているだけで、なすすべがなかった」「(与えられた酒を)女はガブガブとうまそうに飲んでいた。
 そしてまた、『お前らは戦争に敗けたが、それでも、お前らには帰る国日本がある。それにくらべ、朝鮮は一等国になったというが、わしらのような女に帰れる国がいったいどこにあるのか!』。
 酒を一気飲みした女の口説きには、最初のすごみはだんだんとなくなっていた。そして酔いも大分廻ってきたようである。
『エエッ!お前ら!わしらをこんな体にしたのは、いったい誰なんだ!こんな体でどうして祖国へ帰れるかよ!エエッ!お前ら!いったいこれをどうしてくれるんだ!』と、女はかき口説くのである」
「女の皮膚はひどく荒れているし、髪の毛もバサバサしている。まだ年も若いのであろうが、女には若さというものが全く感じられない。
『わしはお前らの顔は全然知らん。どこの部隊や。きっと、奥地から逃げてきたんやろ!ああ!わしはどうしよう!どうしよう!』と、遂に女は声をあげて泣きだした」
「女の口数がだんだん少なくなってきた」「女はついに酔いつぶれてしまった。大隊副官が『少し休ませてやれ』といって女に毛布をかけてやった。女の寝顔は、ひどく幼かった」(1)

 慰安婦たちはそれぞれの「祖国」へ帰れたのだろうか。
 インドネシア・ボルネオのゼッセルトンの様子は、次のようだった。
「(日本人)婦女子収容所には、こうしたタワオの日産農林会社の農民達以外は、全部戦争によって日本軍について来た慰安婦や、軍の事務員として来た、言わば戦争の侵入者達だけでした。
 慰安婦で台湾や朝鮮から来た台湾人や朝鮮人もいるのでした。戦争がすむと、多くの台湾人慰安婦は早々この国の中国人達と結婚して定住することにした者が多く、ここへはほんの少ししか入っていないのです」(2)

 同じインドネシアの隣島セレベスの状況について、第2軍参謀中佐の証言がある。
「セレベスには日本人および朝鮮人の慰安婦が数十名派遣されていた。終戦とともにこれらの慰安婦をどう処遇したらよいかとの問題がおこって、南方総軍からも特殊看護婦に仕立ててはとの指示もあった。
 連合軍将兵に凌辱を加えられず、日本軍の一部として無事内地に送還することは、今までこれを利用してきた軍の責任であった。それだからといって強制はできない。あくまで本人達の自由意志にまかせなければならない。そこで日本内地人および朝鮮人ごとに各個に説得することとなった。
 この勧めに対し、日本内地人の方はすぐ受け入れ、陸軍病院で正規の特別教育を始めることとなった。病院長軍医の言によると、大体熱心に看護婦として修業を積み、その成績もまずまずというほどで、内地帰還後正業に転向できる者も相当出るのではないかとの観察であった。
 これに反し、朝鮮人慰安婦の方は説得に応ぜず、かえって説得者の方が冷やかされて引きさがるありさまで、さんざん手を焼いた」
「そのうちに朝鮮人帰還船の回航が本ぎまりとなり、とうとう教育の問題もお流れとなって、わたしの悩みも自然解消となり、ヤレヤレと思った。
 私はこのごろかつて日本の同胞として聖戦の名の下に遠く南の国に存分の働きをしてくれた朝鮮の方々へ、果たしてそれに報ゆるだけのことをなし得たであろうかと思い自責の念にたえない」(3)

 やはりインドネシアのスマトラについては、同島メダンにあった軍政部衛生局のメダン病理研究所で働いていた人の証言がある。昭和21年3月ごろ耳にした話のようである。
「スマトラには全部で6000人ほどの慰安婦がいたそうです。大部分は現地人で、終戦後すぐに解放されて、それ相当の手みやげを持たせて帰らせたので表面的には問題はありませんでした。
 日本人女性もいましたが、連合軍に要求される前に、看護婦やなんかに仕立てて病院関係者と一緒にいち早く帰還させていました。
 残りが朝鮮人の慰安婦で450人いました。そのうち300人はすでに朝鮮に帰還していて、あと150人残っていました。
 ところが、先にその300人を乗せて帰った船の輸送指揮官だった衛生局の人が行方不明のままだというのです。船は確かに朝鮮に入港したのです。おそらく、当時の朝鮮の混乱した状態の中で、これまで日本が犯してきたことへの恨みから、血祭りにあげられたのではないかという話でした」(4)

 引揚げ船の中で、戦時中の恨みをはらす光景が見られたという話はよく聞く。その類と思われるが、本当に、輸送指揮官が朝鮮で血祭りにあげられたのだろうか。
 スマトラからの引揚げはベラワンから行われたようだ。第25軍渉外部ベラワン出張所長として引揚げ業務に当たった人の日記がある。
 それによると、「昭和21年2月2日 第1回引揚開始。泰東丸、南進丸、南興丸、南明丸、弥栄丸、すみれ丸」。
 以後、「2月18日 第2回引揚輸送。南興丸、南明丸、弥栄丸、すみれ丸を除いて、すべて戦時急造船で船会社でいう『E型』船。上甲板に人員を貨物並に乗せ、シンガポールまで輸送する。すみれ丸は病院船で女子病人を直接日本まで輸送」。
 さらに、「2月下旬 第3回引揚輸送」「3月26日 第4回引揚輸送。第3回、第4回とも前期E型船が多数入港、船名不明。軍政部、邦人は4回の引揚で終了」した。
 このような方法で「第三国人、婦女子、邦人、軍属の順に引揚げ、軍隊では近歩5が最後まで残り、ベラワン作業隊400名を残して、昭和21年末までに復員した」(5)。
 朝鮮人慰安婦は第三国人の範疇だろうから、第一陣は第1回引揚組だったろうか。残りの150人の帰国はいつごろだったろう。

《引用資料》1,加藤周一「私の昭和史」岩波新書・1988年。2,山崎阿燕「南十字星は偽らず」北辰社・1952年。3,今日の話題社「大平洋ドキュメンタリー第23巻」今日の話題社・1969年。4,権二郎「オラン・ジュパン―ジャワ、スマトラ・残留日本人を訪ねて」長征社・1995年。5,近衛歩兵第5聯隊史編集委員会「近衛歩兵第5聯隊史(下巻)」私家版・1990年。

(2022年1月11日更新)


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