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法廷傍聴控え 日本赤軍女性幹部蔵匿事件3

 警視庁は、「荷物も何も持たなくて来て」といったが、山本は、逮捕されるかもしれないと諸準備をしていった。逮捕状の被疑事実を見て、Sの指名手配の内容がハーグ事件であることをしった。

 ──部屋の鍵を渡しましたが、彼女が持って帰って、その後、彼女が部屋を使ったことは承知していたのですか。
「まったくわかりません。その年の暮れから、翌年1月1日付けで、山形に転勤しました。そちらに、電話がありました。『会えないか』というもので、『会えない』と返事しました。『場合によっては、部屋に泊まるかもしれない』『わかりました』ということもありました」
 ──彼女が、部屋をどう使っていたかも、あなたはしらないのですか。
「しりません。私も、ときおり部屋に行っていますが、整然としていて、使ったかどうかはっきりしませんでした」
 ──99年1月1日付で、山形の病院に転勤になりましたが、部屋の解約をしなかったのは、彼女に使わせるためですか。
「急な転勤で、また、いつ戻ってくるか、時期が確定できませんし、部屋に家具もいっぱい入っていました。そのままにして、体1つで転勤して行きました」
 ──あなたは、Sが、昨年逮捕されて以降、部屋の鍵をかえ、携帯電話も別のものにかえる。どういうつもりでしたか。
「携帯電話は、交信に使ったというか、私がSに電話番号を教えていました。携帯電話をかえたいと、別の携帯電話にしました。鍵は、持っていた可能性があると思ったので、鍵をかえることによって、鍵で開けられない状態にしたいというのは事実です」

 もう1人の弁護人も質問する。
 ──山形の病院長をやめましたか。
「はい」
 ──この件と同じように、古い友人から泊まらせてくれといってきたら、どうしますか。
「はっきり断らせてもらいます」
 ──本件で、病院関係者に相当迷惑をかけましたか。
「そうですね。部屋に泊めたのは、自分個人の問題として考えましたが、家宅捜索では病院の友人など、事情聴取も、つれあい、娘、息子も長時間にわたってされました。法に触れるのは、個人の問題じゃないと痛感しました。次に、同じ事態が起きたら、はっきり断らせてもらいたいと思います」
 ──部屋にSを連れていったのは偶然ですか。
「来られたのも突然でした。会いにきたとはわからず、よく考えてみれば、別の場所であえばよかったと。だれにもわからない場所というので、私の部屋にしました」
 ──まったく偶然。
「はい」
 ──鍵は、出るときは返してくれと、強くいわなかったのですか。
「自分はルーズで、あの部屋は病院の職員と共同施設という意識もありました。職員に鍵をあずけることも少なからずありました。あとで、ポストに入れておいてくれればという感覚です。返してくれと強くはいいませんでした」
 ──あなたの性格ですが、あまり強くいえない、頼まれたら断れない。
「はい。あります」

 続いて、検察官が質問する。

 ──Sから車内で声をかけられた。予期しない再会でしたか。
「はい」
 ──あなたには、以前、Sから電話があった。「病院に行きたい」ということはありませんでしたか。
「外国からの電話ですし、そういうことは1回もありませんでした」
 ──あなたは、部屋に入ってから、昔話をした。Sは何をしているかという質問はしましたか。
「しません。あえて触れたくはありませんでした」
 ──聞いたら、まずいかなと。
「指名手配されている人に質問することは、活動の中に入り込んでいくと認識したので、踏み込みませんでした」
 ──あなたは、ほかの機会で、「もっと、気をつけなければだめじゃないか」とSにいいましたか。
「振る舞いが普通の人と同じように、まちの中を歩いたりします。そういうのは危ないではないかと」
 ──Sが捕まらないほうがいいと。
「大胆な行動は逮捕につながると指摘しました」
 ──会いにきたので匿う。よくしっているから匿う。今後、ほんとに断れますか。

 「私のような年齢になってから、4週間留置され、朝から晩まで厳しく取り調べられる。つらい、情けない思いもしました。罪の償いをしなければならない。その後、自分の周辺に起こったこととのギャップを強く認識しました。次は、はっきりと断らせてもらう形になると思います」
 ──鍵をかえる、携帯電話の変更は、端的にいうと、捜査の手が及ぶのが怖いということですか。
「そうです。間違いありません」
 ──事件から逮捕まで2年半。その間、警察に申告する機会が多々あったと思いますが。
「自分の手でそういうことをしようとは思いませんでした」

 裁判官が1人の審理だったが、その裁判官も尋ねる。

 ──(Sらの)活動への関心は、持ち続けていましたか。
「以前の仲間について、新聞報道で見ていたのは事実です」
 ──活動の評価は。
「積極的評価ではなく、Sたちのグループの起こした事件について、学生時代と次元が違う。ものすごい事件を起こしたと驚きました」
 ──Sに、なにかいってあげたいという気持ちは。
「昔の事件については、少し意見交換したことがあります。私はどのような理由であれ、人を殺すのはいけないと意見をいったことがあります。ただ、自分の前で話す人間は、年をとっているけれども、昔のSの感覚で話しています。ほんとに(事件に)具体的にかかわっているか想像できないというので、かかわってきました」
 ──あなたの目の前にいて、昔話できること自体が、私にはよくわからない。迷い、ためらいがあったと思いますが。
「ためらいはありました。帰ってくれというほどに無関係な存在ではありません」
 ──今の自分では、ここまでしかできないという対応もあったと思いますが。
「いまとなっては、十分反省しています。『これでいいのか』『これでいいんだ』と悩んでいたのは事実です」
 ──Sは、たまたま、そのとき日本に入り込んでいると思いましたか。
「そうです。自分の胸だけで閉じ込めておけば、それですむ問題だと思いました」
 ──あなたの現在の立場ですが、医療グループに籍を置いていますか。
「3月9日、家宅捜索の日、院長を辞任し、医療グループを退職しました。いま、無職ですが、生計をたてなければいけないので、病院でアルバイト的に仕事をしています。判決が出た時点で、次の医療活動に進んでいきたいと思っています」

 裁判は被告側の意向もあって、スピーディーである。
 続いて、検察官が論告を行う。

 日本赤軍は、テルアビブ事件、ドバイ事件、シンガポール事件、ハーグ事件、ダッカ事件など過去12件の犯罪をおかし、全世界を震撼させた。日本赤軍の代表者であり、指名手配されている国際テロリストのSを匿うだけでなく、関東の拠点をつくらせるものでもあり、きわめて安易、軽率のきわみなどとして、懲役1年6月を求刑した。

 一方、弁護人は、人民革命党は実態があるかないかも釈然としないものであり、幻とも思われるが、被告は最初から匿う目的はなかった。「帰れ」といえない心情も理解できる。人民革命党にはまったく関係していない。資金援助、情報伝達もしていない。
 地域医療を実践してきた被告の貢献はきわめて大きい。二度とこのようなことは繰り返さないと確信している。逮捕状の発行前から出頭した。院長をやめ、大きく報道され、社会的に制裁もされている。1日も早く社会的活動ができることが社会のためにも有益であると、執行猶予を求めた。

 被告は、「一言だけ。98年の秋口に、Sがやってきて、家に泊まりました。鍵を渡したが、率直に反省しています。判決結果を見て、新しく病院を決めて、いままでの活動以上に、地域、患者のために専念していきたいと思います」と最後に述べた。

 7月6日の第3回公判で判決がいい渡された。山本は、涼しそうな薄いねずみ色の背広姿で、傍聴席には妻もいる。

 判決は、懲役1年6月、執行猶予5年であった。起訴状どおりの認定で、執行猶予の説明をした後、「くれぐれも生活を自重してください」と裁判官がつけ加えた。
 なお、公判ではまったく出てこなかったが、山本は、医療グループの代表が組織している政党から、98年7月の参議院選挙で千葉選挙区、2000年6月の総選挙では東北地区の比例代表に立候補している。(了)

(人名は仮名)

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