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法廷傍聴控え 日本赤軍女性幹部蔵匿事件2

 被告側は、とにかく、裁判を早く終わらせたいようだ。弁護人が、「次回は論告、弁論まで行い、結審してほしい」と要求した。

 第2回公判の6月14日で、検察官は、「重要な情状部分にかかわるので、被告がどういう人物を匿っていたのか、Sの最近の行動状況」に関する証人を登場させた。紺色の背広に金縁メガネ。中肉中背の警視庁公安一課の警察官である。
 検察官が質問する。

 ──S逮捕後、証人はSの捜査に関与したが、主にどういう捜査ですか。
「押収した証拠品の分析を含む、捜査全般です」
 ──証拠品の分析から、Sがどういう活動をしていたか判明しましたか。
「Sは、97年に日本に入り、同年12月に出て、翌年8月6日、入ってきて、その後、出入国を繰り返したことがわかりました」
 ──政治的活動はどうですか。
「日本赤軍の政治分離組織として人民革命党を設立していることがわかりました」
 ──その証拠品は。
「人民革命党の規約、規約解説です」
 ──人民革命党は、どういう組織ですか。
「最高指導機関として全党司令部。その直轄に5つの機関があります」

 5つの機関は第1機関から第5機関という名称で、第1機関は政治新聞編集機能で、政治宣伝、第2機関は隊内教育機能で、党員の教育、党員工作、新党員の教育、第3機関は組織化工作機能で、日本赤軍の大衆組織である希望の21世紀を通じて、政治的影響力拡大を図るもの、第4機関は財政機能で、財源確保、第5機関は軍事作戦機能で、軍事技術向上、武器の管理で、その中心は党の組織防衛である。
 地方組織の最高責任機関として地域司令部がある。ほかに、国際部もある。

 ──人民革命党の目的は。
「人民革命党によって、社会主義、共産主義を実現するものです」
 ──武装関係の資料はありましたか。
「一言でいうと、ゲリラ戦で、弱いものをぶち破り、包囲しながら、点から面へ進めていくということです」
 ──人民革命党の中で、Sの地位は。
「最高幹部で、全党司令部の司令官です」
 ──党の拠点は。
「99年に開かれた第5回大会決議文書によると、AからD地域があります。Aは海外、Bは関西、Cは関東、Dは解明中です」
 ──このことは、Sの逮捕前、公になっていましたか。
「97年2月に、時事通信、産経新聞で人民革命党を設立したと報道されましたが、裏付けがなく、逮捕して、はじめてわかりました」
 ──いつ、組織したのですか。
「91年です」
 ──98年8月ごろのSの動きはどうでしたか。
「98年8月6日に中国から帰国して、関西、関東地区の支援者に接触し、会議、オルグなどを行い、人民革命党の幹部として、活発に活動しておりました」

 警察官の証言に続いて、黒っぽい背広を着た山本が証言席につき、落ちついた口調で質問に答えた。まず、弁護人から尋ねる。

 ──Sとの関係は、いつ、どういうところからですか。
「学生時代の仲間です。同じグループに属していました」
 ──あなたは、その後も引き続いて、運動を行いましたか。
「71年に活動をやめました」
 ──医師にもなったからですか。
「そうです」
 ──学生時代に、Sとしりあい、その後、パレスチナのほうに行きましたか。
「一度だけ、レバノンに訪ねていったことがあります。長い旅行の一環で、2日ほど、レバノンにいました。86年4月のことです」
 ──今回、98年8月ごろ、Sがきた。突然でしたが、どうしてきたのですか。
「86年に会いにいき、それ以降、ときおり、病院に電話をかけてきました。その関係で、病院にいることを確認していたと思いますが、突然、病院に訪ねてきました」
 ──あなたは、どう思いましたか。
「遠い中東にいるはずの人が、日本にいるので、非常に驚きました。戸惑いもありました」
 ──戸惑いとは、Sに逮捕状が出ていることをしっていたのですか。
「そうです。どういう事件で指名手配されていたのかわかりませんでしたが、70年代前半から、街角に張られている(指名手配の)顔写真を見ていましたので」
 ──日本に帰ってきているのは、そのときまでしらなかったのですか。
「はい」
 ──98年8月、彼女が訪ねてきたが、具体的な頼みごとはありましたか。
「特にありません。ただ、会いにきたようでした」
 ──あなたの自宅の部屋に泊めてほしい、匿ってほしいとは。
「特に言いません」
 ──最初来たとき、何回か泊めた経緯はどうでしたか。
「どっか話をするところはないかというので、病院の近くは、私のしりあいがたくさんいる。店もそう。そこでは話もできない。最終的に、私の部屋ならと連れていきました」
 ──どうして部屋に泊めたのですか。
「そうですね。昔話をしていて、夜もだいぶ更けていって、泊まっていけばと話したと記憶しています」
 ──彼女の現在の政治活動に協力してくれとはいわれませんでしたか。
「特にありません。多くは昔話や学生時代の思い出で、仲間がどういうところで活躍しているかとかを話しました」
 ──このとき、何日泊まったのですか。
「記憶では2泊ぐらい。逮捕状では4泊でしたが、そんなに長くいたはずないとびっくりしました」
 ──部屋の鍵を渡した理由は何ですか。
「1泊した際、私は病院に朝7時すぎに出かけました。もう少しゆっくりしたいというので、鍵かけて出てくださいということでした」
 ──これから、あとも使わせてほしいとはいわれましたか。
「そういうような要求はないと記憶しています。少しいいねというニュアンスがあり、ぼくも黙認したという感じです」
 ──彼女は人民革命党の話をしましたか。
「ありません。そういう組織を耳にしたのは、逮捕され、マスコミで報道されてからでした」
 ──あなたに対し、財政的にも援助してほしいということは。
「1回もありません」
 ──昔の友人などに連絡つけてほしいとかは。
「それもありません」
 ──そういう政治活動については話が出ていないのですか。
「そうです。私もあえて聞きませんでした」
 ──あなたと接触したことで、そういうことには触れないという遠慮というか、スタンスが彼女に見られましたか。
「そうですね。自分を友人として見ているというかかわり方でした」
 ──突然、訪ねてきて、会うのを拒否するというのはなかったのですか。
「そうです。会えたこと自体、うれしかったのは事実です。指名手配されているのに、危険と判断できなかったのも事実です」
 ──医師という社会的地位があるのに、罪の自覚はありましたか。
「法に触れる行為だろうなという気持ちはありました」
 ──回避しなかったのはどうしてですか。
「うまく説明できませんが、私の人生は、人に頼まれたらこたえるという生き方をしてきました。自分を頼ってきたんだなと」
 ──本件で、3月24日、逮捕された。その前、3月9日に、山形の病院などが捜索された。あとで、Sを匿った容疑とわかりましたが、どう対処しようと思いましたか。
「家宅捜索のとき、被疑者不詳とありました。しかし、明らかに私自身のことで捜索されている。いずれ、Sが私の部屋で宿泊したのが明らかになる。警視庁に出頭しようと、弁護士に相談し、3月17日に警視庁にコンタクトをとりました」
 ──その結果はどうでしたか。
「特に逮捕状も出ていないし、来てもらっても困るといわれました」
 ──その後、あなたに出頭要請はありましたか。
「3月22日、話をうかがいたいことが出てきたというので、警視庁に行って、2時間、取り調べされ、帰りました」
 ──そして、24日に逮捕されましたね。
「朝早く出かけて不在のとき、警視庁から携帯電話に連絡が入りました。『きょうも、続きの話をしたいので、出てきてほしい』といわれ、『少し離れたところにいるので、夕方なら行くことができる』と答えました」
 ──出頭して逮捕されたわけですか。
「午後6時前に、出頭して逮捕されました」

(人名は仮名)




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