見出し画像

慰安婦 戦記1000冊の証言15 愛国女性

 ともあれ、日本軍は慰安婦確保のため、あの手この手を使ったのだ。ラバウルの、こんな手口もあった。
 海軍将校のための慰安所の女性は、「マニラ水交社の事務員にするんだといって(内地から)連れてこられたんだけれども、船は太平洋で東に向かった。『さあ、君はどうするか』、船の上でどうするかといわれたってしょうがないから、船のままラバウルに入りましたと、こういったよ。だまされたんだね」(1)。

 この女性は、事情を知った海軍将校の尽力で、大事にならず、すぐに帰国できたという。

 インドネシア・ハルマヘラに駐屯した輜重兵第32連隊第1中隊員の証言。昭和19年のことだ。
「慰安婦は30名余りおり、その中の一人に源氏名を清子(本名リナー)と名乗る18歳の若い娘を知り、よく遊びに行った。
 彼女らは、セレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙されて、ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。
 彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった」(6)

 フィリピン・ミンダナオのダバオでも、同種の事件が発覚した。昭和18年、陸軍航空本部に徴用され、現地で働いていた技手の証言。

 昭和20年7月、「『改めてお願いがある。是非聞いて欲しい』。(軍司令部の)銀行員中尉が突然言い出した」
「『実は自分は管理部長を拝命して今日に至ったが、十数名の内地娘を預っており、それぞれ配置したが、言うことをきかない娘が3人残っていて困っているんだ。
 是非連れて行って、君の部隊に引き取ってくれないか。軍司令部は承知のとおり極限の状態だ。頼む。この通りだ』と頭を下げる」
「3人の娘は25歳になる『桃子』が姉御株で、他の2人を紹介する。19歳の『トモ子』は従妹。22歳の『千恵子』は同じ町内から来たと関西弁で言う。昨年の夏、陸軍の南方要員の募集に応募して来たら、実際は慰安婦が目的だった。
 ダバオ湾口で敵潜水艦に沈められ、救助されてダバオに着いたときはすでにてんやわんやで慰安所どころではなかった。
 その点は運よく助かったのだが、今度は敵の上陸騒ぎ、命からがら今日まで生きてきたという」(2)

 これらと似たような話を、ある海軍主計中尉が耳にしている。シンガポール近くのジョホールの料亭で、こんな光景を目にしたからだ。

「座持ちの女たちが3人現われた。芸者2人と仲居1人である。芸者の1人は、芸者という名前負けのするような顔だちのあまりよくない女で、もう1人は40歳ぐらいのババア芸者であった。
 ところが、仲居は芸者にしてもよいようなアカぬけのした美人であった」「清楚なワンピース姿で年も21、2歳と若く、女学校ぐらいは出ているようで芸者たちよりも知性的にみえた」
「(聞いた話では)こういった仲居になる女性は、南方諸地域の海軍の水交社ホテルや、諸厚生施設の事務員やサービス員になるのだという、悪質な周旋屋の口車に乗せられ南方へ来たところ、
 芸者になれと強制され、拒絶したがいれられず、やむなく仲居となって処女を守っているものが多いのだという」(3)

 やはり、シンガポールの南にあるブラカンマティ島の海上警備任務にあたるとともに、同地に開設された日本語教室の教師の証言。
 昭和17年のある日、「日語教室に日直将校が姿を現す」「雑談をしているうちに、慰安所の話をしてくれる。
 慰安婦の中にはズブの素人がいる。南方に希望の職場を求めてやって来た女性達である。
『将兵は命を的に戦っている。女性が貞操を提供するのは当然の事である。……』というわけで、強制的に慰安婦をやらされているものもいるという。
 彼女達のことを思うと気が重くなって仕方がない。日語の先生がうらやましいと述懐する」(4)

 このような非道な慰安婦集めに対し、自身の経験から、徳川夢声は怒りがおさまらなかった。
 彼は、昭和17年10月、慰問団の一員でシンガポール方面に出かける。そのとき、シンガポールで総参謀長出席の大宴会に出る。その宴席には大和部隊なる女性たちがいてお酌などをした。

「〝大和部隊〟なるものだけでも、私は軍が厭になった。これは若き大和撫子の部隊であった。彼女たちは、皆ダマされてこんなところへ拉致されたのである。
´--若キ愛国ノ女性大募集。--南方ニ行キ、皇軍ニ協力セントスルノ純情ナル乙女ヲ求ム。--大和撫子ヨ、常夏ノ国ニ咲ケ。
 というような、勇ましく美しい文句に誘われて、気の毒な彼女たちは、軍を背景に持つゼゲン共の口車に乗せられ、高らかな理想と、燃ゆるが如き愛国の熱情と、絢爛たる七彩の夢を抱いて遥るばると来たのである。
 軍当事者とゼゲン師どもは、オクメンもなく、娘たちの身元を調査し、美醜を選び、立派な花嫁たるの資格ある処女たちを、煙草や酒を前線に送るくらいの気もちで、配給したのであった。
 なんたる陋劣! なんたる残酷! 
--あらっ、こんな約束じゃなかった。と気がついた時は、雲煙万里、もうどうしようもない所に置かれていた。
 その1部隊が、この偕行社で酒席の芸妓代用品とされているのだ。お酌をやらされる。手を握られる。お尻をなでられる。接吻は腕力で強請される。--が、そんなナマヤサシイことでは、大和部隊の任務は完遂されたのでない。ちゃんと、宿泊の設備アリだ」(5)。

《引用資料》1,永末英一「戦争から平和へ」私家版・1978年。2,三宅善喜「密林に消えた兵士たちー私のダバオ戦記」健友館・1981年。3,青柳謙一「インド洋の夕映え・駐スマトラ海軍部隊始末記」東京図書出版社・2006年。4,桜田静務「一兵卒の戦争回想記」私家版・1998年。5、徳川夢声「夢声戦争日記(2)」中公文庫・1977年。6、元輜重兵第32連隊第1中隊戦友会「我等の軍隊生活」私家版・1983年。

(2021年11月9日更新)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?