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慰安婦 戦記1000冊の証言35 撃沈

 俳優の加東大介は、昭和18年、10年ぶりに召集され、衛生伍長として西部ニューギニアのマノクワリに向い、同年12月、現地に到着する。
「めぼしい建物は、わたしたちより半年ばかり前に上陸した海軍さんが手に入れていたのだ。それでも、司令部だけは、ラワンかなにかのまっ白い木でつくった本建築をさぐりあてていた。
『おっ、いいところがあったんだな』。そこにいた建築班の兵隊に、そう話しかけたら、かれはムッとして、『わたしたちが腕にヨリをかけて建てたんですからね。でも、軍司令部なんかに使ってもらうためじゃありません』。 ヘンにツンツンしている。
『どうしたんだい? なにかイワクがあるのかい?』『大ありでさ。この家は、ピー屋になるはずだったんです』。これには、思わず笑ってしまった。
『笑いごっちゃありません。あんたがたが着く少し前に、ほんとに、慰安婦を満載した輸送船が、そこの岬のところまできたんだ』。兵隊のゴキゲンは、ますます悪くなる。
『それが、わしらの見ている前で……』。かれは、いまいましそうに、船が沈没する形を手でつくってみせて、わたしの顔をにらみつけた。潜水艦にやられたのだ」(1)

 同時期、マノクワリに到着した陸軍主計将校の証言。
「マノクワリに上陸して参謀連の宿舎兼事務所となったのは、既に進出していた海軍民政府が慰安所として建築したが、慰安婦を乗せた輸送船が沈没したため空屋となっていたものである。
 日本軍創設以来現地軍の参謀部が女郎屋に開設されたのは、第二軍が初めてであろう。その後しばしば海軍の将校と話しあったが、参謀の名を呼ばず、その室を聞いて『菊の間さんはどう?竹の間さんはどんな人?』と予定した室の名で呼んでいた。慰安婦に対する郷愁か?」(2)

 昭和18年12月、南方・ラバウルから出港した輸送船「ぶえのすあいれす丸」も、「海軍病院の白衣の天使や、慰安婦、高級将校、病弱者」を乗せて内地に向かったが、間もなく撃沈された。(3)

 どれほどの慰安婦が海で犠牲になったのだろうか。

病死

 中国雲南省の昆明。米陸軍の情報関連活動をした帰米二世の活動記録の一節に、中国・昆明で慰安婦に触れた部分がある。
「昆明に着陸したのは、昭和20年6月初旬だった」
「此処にも大きい俘虜収容所在り、約100名の日本軍兵士及び約25~26名の婦女子慰安部隊が収容されている。慰安部隊のうち、4名は日本婦人、残りの全部は朝鮮婦人である。
 軍人の中に朝鮮人も居たが、彼等は皆、日本軍から逃亡し俘虜になった者ばかりと云う」
「胸を病める一朝鮮婦人あり。運悪く、ある雨降る朝、遂に昇天せり。俘虜連中一同に野辺の送りを許可した」(4)

象に殺される

 想像できないような「戦死」も、ビルマ・ペグーの山中で起きた。
 昭和19年12月上旬、第28軍司令部がタイキに移動し、軍司令部に付属していた3つの慰安施設『翠香園、曙食堂、八雲荘』も同行する。
「和風料理屋の翠香園は」「専ら軍司令部の佐官級以上の慰安施設で、将校集会所とも呼ばれていたらしい」「(純粋の慰安所)八雲荘には15名の女がいた」
 敵が迫った昭和20年4月、第28軍司令部は東側のペグー山系内に転進する際、「翠香園、曙食堂、八雲荘の従業員は、全員身分を軍属とし『傭人隊』と名付けた一部隊を作り」、「傭人隊」はタイキを出発、ペグー山中の逃避行に入る。
 この「傭人隊」は32人いたが、山中を抜け、逃避行を終了した時、隊員中の「戦死者3名、戦病死および落伍者は7名」に及んだ。
 戦死者3人のうち1人は、ペグー山中で野象に踏まれて死亡したのだ。翆香園の女性だった。(5)

 そのときの様子を第28軍司令部軍楽隊員が証言する。
「私たちはただちに山中に向け、約30キロのメザリに向かう」「衛兵隊を先頭に司令部幹部がつづく。その後ろを30キロ以上はあるだろう重い荷物を背負い、腰に軍刀をぶち込んで喘ぎつつ進む」
「後ろの方で、何か動物らしい大きな泣き声が聞こえ、女性の悲鳴が聞こえた。『おい象が出たぞ、気をつけろ』。そのあとから、『だれかが踏み殺されたぞ』。
 後で聞けば、随行していた慰安婦が、胸部を踏みつけられ、即死したということであった。駆けつけた軍医は手だてもなく、苦しむ彼女を眠れるよう処置し埋葬された」(6)

 米軍の従軍記者は、昭和19年6月、南方・サイパンで「奇妙な集団自決」を目にした。
「私はタポーチョ山の前面の傾斜面を下に歩いていった」「この山中の小道には5名の日本兵の死体が横たわっていた。彼らはあきらかに、幾日も以前のわが軍の砲撃で殺されたものであった」
「さらに、この山道をさきへ進むと、約20名ばかりの日本兵の死体が一面に道ばたに散乱していた。その中の5名の日本兵の死体が円形をつくっている真中に、青色と白色の簡単服を着た1名の女の死体が横たわっていた。彼女の顔は、死のしずけさを浮かべていた」(7)

 この米軍従軍記者の目撃より前、日本軍兵士も悲惨な光景を目にしている。
「あわれなのはガラパンの料亭、軍の慰安所で働いていた女たちである。逃げても逃げきれないと思ったか、各地で首をくくって死んだ。色あざやかな長じゅばん姿で、密林の中の木に首をつっているのを、兵士たちは敗走の途中、たくさん見た」
「(昭和19年)7月6日にはマッピ山の南ろくまで進出した米軍に終われ、山頂付近にまで逃げ込んだ民間人にはもう逃げ場がなかった」
「食糧探しのため夜間、この山に入り込んだ南洋憲兵隊の伍長は思わず目をそむけた。谷に何列も整然と並んで、海軍の傷病兵や従軍看護婦が死んでいた。注射か毒物をあおって死んだようであった。
 派手な長じゅばん姿でひと目でガラパンの慰安婦とわかる女たちが手榴弾で集団自決したらしく、あちこちにむごたらしい姿になって散乱していた」(8)

煙のごとく消えた

 俳優の殿山泰司は、二度目の召集を受け、中国・湖北省の咸寧県楠林橋で敗戦となった。
「部隊の中に設営されていた慰安所に、4、5名の朝鮮ピイがいたんだけど、これが敗戦の翌日に姿を消してしまった。それは煙の如くにふわあっと消えてしまった。
 その慰安所の経営者というか責任者というか、人相風体かんばしからぬ、日本人の中年の夫婦者がいたんだけど、この巡査上がりみたいな夫婦も、ピイと共に見えなくなってしまった。
 みんな銃殺されたという噂が飛んだ。『そういえば銃声を聞いたぜ』なんて言う兵隊もいた。
 朝鮮ピイたちは将校専用といってもいいくらいで、われわれ兵隊は時どき遠くからチラチラと、そのナマメカシイ姿を見かけるだけだった。何が慰安所だい、ふざけやがって。
 それにしても、何も銃殺することはねえと思うんだけどな。朝鮮へ帰してやればいいじゃねえか。可哀想だよ。おそらく不法拉致してきた女たちに決まっている。深く考えると滂沱と涙が出る。戦争というものはヒドイものだ」(9)

 この「銃殺話」、確証はない。

《引用資料》1,加東大介「南の島に雪が降る」文芸春秋新社・1961年。2、若八会九州支部「戦塵にまみれた青春・本部編」私家版・1977年。3、河戸弥一「ラバウル日記」洛西書院・1993年。4、大谷勲「ジャパン・ボーイ」角川書店・1983年。5、笠置慧眼「ああ、策はやて隊」私家版・1990年。6、斎藤新二「軍楽兵よもやま物語」光人社・1995年。7、ロバート・シャーロッド「絶望の島サイパン」妙義出版・1956年。8、白井文吾「烈日サイパン島」東京新聞出版局・1979年。9、殿山泰司「三文役者あなあきい伝」講談社・1974年。

(2021年11月8日更新)

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