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慰安婦 戦記1000冊の証言8 朝鮮慰安所

 朝鮮にも慰安所はあった。しかし、台湾と同様、既存の遊廓もあり、後に日本軍専用となった遊廓もある。厳密な意味で、慰安所と言えるのは、まずは、以下のようなものだろう。

 昭和20年8月、ソ連との戦闘が開始された。朝鮮北部の国境地帯・咸林山に駐屯する朝鮮7481部隊は、ソ連軍の砲撃を避けるため、掩蔽壕や防空壕に身を潜ませた。
「近くにあるピー屋(慰安所)に、5人の朝鮮人慰安婦が残っていると最初に気がついたのは、やはり利用回数が最も多いT兵長だった。
『栄子たち、どうしたっぺ』。Tがすっとんきょうな声を上げると、兵隊たちは皆一様に“おおそうだ”という顔をした」
 慰安所が「敵弾の直撃を受ける心配はないが、非常事態の発生に途方に暮れていると思うと哀れだ」「Tを先頭に数人が飛び出して行った」
 部隊では、「国境要塞に釘付けになった兵の性欲処理のため、各地区ごとに人員に応じた慰安婦をおき、軍医の管理下、軍属に準じて扱った」
 T兵長らの地区には、「5名の朝鮮人慰安婦がいた。栄子、春子、花子などの源氏名を使い、いずれも10人並以上の器量をしていた。
 5人の慰安婦に対する利用者数は、歩兵大隊本部以下歩砲3個中隊約600名になる。しかも兵隊の利用日は日曜と限定されているから、当日の混雑は大変なものだ。
 もちろん600名が一度にとはいかないから、第一日曜は歩兵隊、第二日曜は山砲隊というように割当てられる。それでも100名ぐらいにはなる」
 慰安所の内部は、「20畳位の土間を囲んで3部屋あり、奥に2部屋となっている。そこへ午前の組50名ほどがどっと押しかける。最初の5名が先陣をきってお目当ての部屋に飛び込むと、あとは土間のストーブを囲んで待機ということになる」。
「その内、最初の兵隊が終了する。長くて10分だ」「女が『次のひとー』と叫ぶと、『おおっ』と叫んで二番手が飛び込む」「かくして午前の部が終わると午後また50人ほどがくりこむ」
「以上は兵隊の、それも公式の場合で、将校下士官については自由にピー屋に出入できるし、兵隊も古年次の古狸になると、月に1回の公式訪問などとても待っていられない。毎日のように上官の目を盗んでしのんで行く。Tなどはその方の第一人者であった」
 さて、心配した「T兵長らが砲弾落下の中をピー屋に行ってみると、すでに栄子達は、夜明け前に牛車で青鶴に引き揚げていることが分かった」そうだ。(1)

「戦記1000冊」の中に、「慰安所そのもの」を記したものは、ほかに見当たらなかった。遊廓を利用した話は、いくつか見つけた。

 朝鮮北部の会寧高射砲第5連隊兵士の証言。昭和13年ごろのことだ。
「(会寧は)日曜、祭日には外出した兵隊でごった返す町である。そのころの映画館の入場料は、兵隊は一人5銭で、コップ酒屋の一杯は15銭だった。花町は朝鮮女が1円10銭で、日本人はこれに20銭増しが相場である。初年兵の手当は月給にすると6円54銭と、内地より高かった」(2)
 昭和12年、朝鮮南部・馬山。馬山重砲兵連隊兵士の証言。
「(入営して)三か月して1期の検閲が終ると、日曜日には外出が許可されるのだ。許可をもらった外出者は兵舎の前に整列して、週番下士官の服装検査を受け、外出証とコンドーム各2個ずつ渡される」
「営門の衛兵に外出証を見せ、足早に町に出る。カフェーや食堂で酒を飲み食事をして、後は遊廓に行く。新馬山街には日本人の妓を置いた遊廓が、旧馬山街には朝鮮の妓生が置かれている遊廓があった。ここで若いエネルギーを発散させた」(3)
 昭和18年3月、志願して入隊した朝鮮人兵士の証言。
「大田は忠清南道の道庁所在地で、十数万の人口があった。軍専用の遊郭もあった。私たちはそこを『ピー屋』と呼んでいた」「ピー屋は、遊郭や慰安所を意味した」
「私が(ピー屋に)入ると、日本の着物を着た中柄な女性が現れた。彼女は日本語で話すのだが、下手で日本語になっていなかった。それで朝鮮人とわかった」(4)

 ところで、当時の朝鮮の「遊女事情」に少し触れておきたい。評論家の大宅壮一が、その辺のところを書いている。
「平壌に、戦前には〝妓生学校〟というのがあった。わたしがこの学校を訪問したのは、昭和10年で、満州へ行く途中だ」
「妓生は京城だけに約500人いたが、数の多いのは晋州(慶尚南道)で、そこのハエの数よりも1人多いとまでいわれていた。しかし、妓生の本場はなんといっても平壌で、妓生を養成する学校もできているときき、友人の案内で見学に出かけたのである。
 この学校は、〝官妓学校〟の後身で、検番の付属事業として設立され、資本金2万円の株式会社になっていた」
「学科は、朝鮮や日本の歌舞音曲のほか、国語(日本語)、朝鮮語、算術などの普通教育課目、とくに習字や図画に重きをおいているようであった。というのは、生徒の作品展覧会を見て感心したからである。
 このあと、有名な牡丹台の料亭に招かれ、その席上で妓生の腕をためそうと思い、もっていた扇子を出して、これになにか一筆書いてくれといったところ、ボタンの絵と、そのころ流行していた『小原節』の文句をすらすらとしたためた」
「彼女(妓生)たちの月収は、一流だと300円以上、三流でも100円にはなったという。税金は月額5円。妓生には、亭主をもっているのもあるが、これは妓夫太郎を兼ね、客にたいするサービスのしかたなどをいろいろとコーチするのだ。
 妓生の下には、日本の〝みずてん〟に相当する〝サンパイ〟というのがある。娼妓にあたるのが〝カルボウ〟で、京城でも平壌でも、日本の遊郭や私娼窟のように、一区画をなして営業していた」
「彼女(妓生)たちはほとんど自前で、自宅に起居して料亭に呼ばれて行くのだから、日本の芸者よりもずっと自由な立場にある」(5)

 その妓生と接した海軍主計将校の証言。昭和14年ごろの体験だ。
「鎮海航空隊に勤務した時、仁川に行った帰りに白川温泉で妓生を呼び、ストップしたら、その妓生に、『こういう時局に、貴方は軍人として、こんな事をしてよいと思いますか』と叱られたことがある」(6)
 また、海軍軍医も、昭和18年、こんな妓生経験をした。
「鎮海には『春の日』というレスがあり、そこでエスプレするのを、春日神社参拝と称した」
「(鎮海に近い馬山浦で)上陸し 朝鮮料理で一杯となり、キーサン(妓生)が現われ、片膝を立て両手を開いて挨拶した。片膝立ちは古代日本女性の正座であったという。南鮮は京城の、北鮮は平壌のキーサン学校を卒業し、英会話もできるとのことであった。京都舞妓の八さか学園と同様である。
 卓にはクロスがわりなのか、大きな藁半紙が敷かれ、盃の残酒をキーサンが、パッとこの上にあけるのには驚いた。年増ながら色白で彫りが深く白人のようなキーサンは、チョンアニー(難しい漢字)と名乗った。
 主計長がしなだれかかると『ソレイケマセン』。ストップはどうかと持ちかけると、『ナカヨシニナッテカラ』と、情が移れば考慮しようとのことらしかった」(7)

 このような妓生だが、慰安婦に転じた人もいた。沖縄県出身で、朝鮮で小学校教員をしていた女性の証言。
「わたしは昭和14年から昭和18年までは、お米の産地である水田地帯におりました」「昭和18年から19年にかけて山の方の学校に転勤しました」
「日常は朝鮮の婦人たちと生活をしました」「一般の人たちが日本に徴用されていくことや、日本軍のために朝鮮の芸者である『妓生』たちが、日本軍の慰安婦に狩り出されていることも知りました」(8)

 大宅の言う「サンパイ」や「カルボウ」も慰安婦の対象になったのだろうか。

 日本軍と慰安所が、切っても切れない縁だったことを、ある気象将校が証言する。
 敗戦後の昭和20年9月、「私は五航軍司令部の移転に伴い、釜山北方50キロの密陽に移った」。
「軍司令部の知恵者が、密陽の町に軍専用の慰安所を作った。この期に及んでと、私は半ばあきれたが、目標を失った部隊の若い将兵を掌握していくためには、それも必要悪かも知れないとうなずいた」
「密陽に舎営して自活自給の態勢に入ろうとしていた五航軍司令部に対し、思いがけなく早く内地帰還の命令が出た。私達は20年10月2日、釜山から乗船帰国することになり、鉄道貨車に乗せられて釜山駅に到着した」(9)

《引用資料》1,遠藤真夫「北鮮・シベリア戦友録」旺史社・1986年。2,羽田政美「戦火に煙る南十字星―野戦高射砲隊の回想」戦誌刊行会・1985年。3,谷本光生「運命と偶然―私の軍隊生活」文芸社・2001年。4,金成寿「傷痍運人金成寿の『戦争』」社会批評社・1995年。5,大宅壮一「炎は流れる(3)」文春文庫・1975年。6,瀬間喬「わが青春の海軍生活ー素顔の帝国海軍・別巻」海友堂・1981年。7,御園生一哉「軍医たちの戦場」図書出版社・1982年。8,那覇市企画部市史編集室「那覇の慟哭―市民の戦時戦後体験記2(戦後・海外篇)」那覇市企画部市史編集室・1981年。9,今里能「敗走一万粁・一気象将校の手記」旺史社・1989年。

(2021年12月16日まとめ)






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