慰安婦 戦記1000冊の証言22 メーマ・牟田口
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慰安婦 戦記1000冊の証言22 メーマ・牟田口

東 京一郎

 昭和19年、ビルマ・メイミョウにある第15軍の軍司令部の将校集会所。
「牟田口(廉也)軍司令官の入室を合図に、全将校が起立するや、一斉に東方遥拝が行なわれ、昼食会がはじめられた。
 この日の献立はビフテキ料理を主体にした洋食で、パパイヤとマンゴスチンの果物がデザートに用意されていた。
 美食家の牟田口軍司令官は、特にビフテキを好物としたため、ほとんど毎日の昼食献立がビフテキ料理を中心に調理され、その肉片も縦10センチ、横20センチ、厚さ2センチもの豪勢な牛肉が皿の上に焼き立てたばかりのにおいを放っていた」(1)

 第15軍所属の第31師団の佐藤師団長の耳にも、第15軍の豪勢な生活のうわさが聞こえていた。とりわけ、昭和19年正月元日のできごとには心を痛めた。
 18年末に、南方総軍・ビルマ方面軍が、牟田口悲願のインパール作戦を承認した。
「その直後の新年宴会であるから、牟田口軍司令官や幕僚にとっては、喜びのあふれた祝宴であった。その席上へ、突然、着物姿の芸者が十数名あらわれた。メイミョウの清明荘という料亭の芸者たちであった」
「官舎のなかは大さわぎとなり、将校たちは大いに酔った。夕方になって、参謀や将校たち十数名が、それぞれ、なじみの芸者と自動車に分乗した」「元日のことであるから、兵は外出を許されて町を歩いている者が多かった。将校乗用の旗をつけた自動車がくるので、兵たちは、あわてて、姿勢を正して敬礼した。その前を、酔った芸者の笑い声をふりまいて、車は通過した」(2)

 インパール作戦突入直前、3月ごろのメイミョウの高級将校向け「慰安施設」のもようを証言する兵士もいる。
 第15軍司令部のあるメイミョウには、「第15軍専属の翠明荘、青葉荘と呼ばれた2軒の料亭があった。そこは、数寄屋造りで、畳敷の室にふすま、格子戸などをしつらえた豪華な建物である。
 前線から、あるいは後方から公務連絡のため、立ち寄る将校の集会、懇談会、部隊長会同などを設けて、第15軍が主催する宴会を開催した。毎夜、食卓にはマグロ、カツオの刺身、清酒などがでて食膳を賑わした。
 その座敷へ、牟田口軍司令官と参謀長、高級参謀、副官、他幕僚たちの抱え女、つまり芸者が厚化粧をして、あでやかな衣装を着こなし『さあーおひとつ』と愛嬌をふりまいて将官に酒を酌む」
 その当時第15軍司令部管理部付兵士の保存していた日記には「翠明荘の芸者(原注・慰安婦)の一覧表が克明に記入されていた」「内地大阪飛田遊廓の主人公、×××××を筆頭に、雇用人、××、××、××××、女将は、××と呼び、仲合者、××××、妻×××、芸者と呼ばれた、かよ、日之出、松香、糸二、進、珠美、忍、三田子、幸子、夢二、恋路、露二、小政、咲子、薫、若葉、瞳、瑛、新駒、艶子、八重子など、22人の遊女を翠明荘は囲って経営していた」(3)

「清明荘」と「翠明荘」と、戦記によって、名前が違う。どちらも同じ料亭を指していると思われるので、以下、「清明荘」と書いていきたい。
 この清明荘だが、前述のように、飛田遊郭の遊女屋の経営者が、「畳、ふすまなどの建具、調度品、食器まで、日本から軍用品として運んで作った店であった。仲居も芸者もきていた」。
「牟田口軍司令官や各幕僚(参謀)は、それぞれに芸者を独占していた」
 参謀長の専属芸者に、高級参謀が手を出したというので、参謀長が「高級参謀の横っつらを左右から二度なぐりつけた。兵隊のいる前で、中将が大佐をなぐったのだから、この事件は、たちまち評判になった」(4)

 戦争そっちのけで、女をめぐる争いか。牟田口も「芸者独占」というが……。
 新聞記者出身の報道班員の間では、「牟田口閣下のお好きなものは、1にクンショー、2にメーマ(ビルマ語の女)、3に新聞ジャーナリスト」と酒席で歌われたそうだ。(5)
 それほど「好き」だったのか。

「牟田口軍司令官が、さわやかな冷気のメイミョウに軍司令部を置いたまま、インパール作戦開始後も、その戦闘司令所を前線に移さないことに関して『麗人との別離がつらいのだろう』との風評がささやかれていた。
 この麗人とは、メイミョウの豪壮な邸宅内に囲われていた一人の女性を意味していた。
 彼女はメイミョウに設けられた高級将校専用の慰安所『清明荘』にいた前線慰安婦の一人で、彼女は広大な軍司令官官舎の奥深く居住をともにしていた」
「『清明荘』には十数人の慰安婦がいたが、彼女らはいずれも大阪の松島遊廓内からはるばるビルマまで『お国のためだ……』と送り出されていたものだった。
 そして、牟田口軍司令官の官舎内にて、彼の寵を一身に受けることとなった女性のことは、軍司令部内でも一部の高級将校しか知らない秘事とされていたが、それはあくまで表向きのことであり、事実は、軍司令部に勤務する三百余人の将校たちの間に公然たる秘密として知れわたっていた。
 そのような彼女に対して『麗人』の呼称が与えられたのは『清明荘』の慰安婦たちが、派手な化粧と衣装とに包まれた日常をおくっているなかで」
「彼女だけが化粧もひかえ目に押え、衣装もけばけばしい柄のものは着用せず、どちらかといえば清楚な感じをただよわせるふん囲気を持っていたことによるものであった」(1)

 ここには「松島遊郭」とあるが、前述証言には「飛田遊廓」とある。どちらも大阪の遊廓だが、とちらが正しいのか。
 ビルマ・サガインで、奇妙な女性群を目撃した中尉の証言。
「機動砲小隊がこの(マンダレー)対岸のサガインで、列車待ちをしていた。その際、妙に色っぽい5、60人の女性が、兵隊姿も凛々しく軍歌を歌い、歩調を合わせて行進しているのに出くわした。
 兵站の兵隊に、“あの兵隊姿の女性たちは、いったい、何者なんだ”と、尋ねたところ、『あいつらは、大阪からやって来た芸者なんですよ。
 これから、メイミョウに在る第15軍の司令部へ行って、連日、連夜の宴席にはべる連中ですわ』と噛んで吐き出すようにいった」(6)

 こんなメイミョウの「慰安生活」だが、当然のごとく、ビルマ方面軍司令部のあるラングーンも華やかだった。

 陸軍の宣伝班に徴用された作家高見順も、利用した。昭和17年10月10日だった。
「夜、萃香園で一高会。第一回のときのような感激はなかったが、でも楽しかった。日本の女を、やはり美しいと思うのだった。
 九州の芸者で、産業部の同窓生がいい煙草を持ってき、それを1本ほしいと手を出すとき、『今のよかタバコ、どこ行ったとーー』などというのだった」(7)

 萃香園について、同盟通信の航空従軍記者の証言。
「九州・久留米市の古くからの料亭萃香園は、久留米に本拠を持つ第18師団司令部の申し入れを容れ、去る(昭和17年)9月、ラングーン市ヴィクトリア湖畔に日本料亭を開業した。
 ラングーン市内に数軒ある日本料理店に比し、萃香園は造作、設備とも師団のお声がかりだけに群を抜き、たちまち軍人、在留日本人商社員間で評判を呼んだ。
 なかでも開業と同時に、日本から送り込まれた久留米美人選り抜きの20余名の若い芸者は、女ひでりの異国ラングーンで一種の旋風を巻き起こした」
「派手な衣装をつけ、白粉を厚く塗り、顔、かたちとも整っているものの、松太郎(芸者の一人)はもともと平凡な田舎娘で、他の芸者たちと違って酒を飲み、馬鹿騒ぎすることができない内気な性質だった。
 どうして、こんな娘がビルマ界隈までやってきたか、私には不思議だった。多額の金額に瞞され、甘言に乗り、何も知らずにビルマに連れてこられたのだろう。松太郎が師団の某参謀の夜の勤めを泣き泣き強いられているのを、私は聞き知っていた。
 日本軍のどの戦線にもみられる慰安婦ほどの隠微と悲惨はないものの、片や一方が一般兵を相手にするに対し、萃香園は限られた将佐官級に同じように媚を売ることを求められた」(8)

 昭和17年暮れ、3か月ぶりに見たラングーン「慰安施設」事情に驚いた報道班員もいた。
「陸海競って専用料亭を持ち、日とともに日本の女の子が殖え、いやな言葉だが、いわゆる慰安所という、お女郎屋が雨後の筍のようにニョキニョキ出来てゆくことだった。そのお頭は、なんといっても陸軍の星の旦那方が御専用の萃香園にとどめをさす」
「この一隊は総勢150名になんなんとする大部隊で、芸妓、半玉はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。
 髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立屋に洗張屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科であることはもちろんのこと、それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで、海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンに御到着になったのだ」
「それだけに、お値段も滅法おたかく、相手にもしてくれなかったが、何もかも留守宅送金の僕等軍属どもには無用の長物、高嶺の花だった」
「海軍の錨旦那方はバンドの川っぺりに、これは基隆仕立の遙地亭という、いとも小じんまりしたやつを、御設営になって、しんみりとチンカモでやっていた」(9)

 昭和19年も半ばを過ぎると、ラングーンも空襲を受けるようになる。
 昭和19年8月からビルマ大使を務めた石射猪太郎の証言。
「前線にはまだ距離のあるラングーンではあったが、敵は逐日われに接近し、敵の空襲は激しくなるばかりの中にあって、上級将校は上級将校で、女と酒の逸楽に荒んでいた。
 大使官邸の裏手にある萃香園というのが、彼らの夜の花園であって、そこに貼り出された遊興規則には『戦力を増強するごとく使用すべし』とあったという」
「外部では、参謀達を、萃香園参謀と呼んでいた。下町の方には『つわ者寮』その他数軒の慰安所があって、多数の大和撫子が、下級将校や兵達の需要に応じていた」
「敵はラングーンに対して大空襲を3回行なった」「2回目には、官邸裏手の武人の花園も爆弾を受け、女が3人生き埋めになって死んだ」(10)

 萃香園参謀と呼ばれるような、ラングーンの「酒池肉林」に、猛然とかみついた将軍もいたそうだ。
「アキャブ戦線から連絡にもどって来たが、ラングーンはまさに日本内地より後方ではないのか。これでよいのか、前線では弾薬なく、食料なく補給も思うにまかせないというのに、陽が没すれば料亭が繁昌する。たるんどるのではないか」(11)
 本当に「たるんどる」のだった。ビルマ方面軍参謀の証言。
「戦後ある会合で、『戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い萃香園が、連日繁昌していたのは理解できない』と言ったところ、
『ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と1か月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない』
と笑われて、まったく二の句がつげなかった」(12)

《引用資料》1,京都新聞社「防人の詩(インパール編)・悲運の京都兵団証言録」京都新聞社・1979年発行。2,高木俊朗「抗命ーインパール2」文春文庫・1976年。3,浜地利男「インパール最前線」叢文社・1980年。4,高木俊朗「全滅ーインパール3」文春文庫・1987年。5,高木俊朗「インパール」文春文庫・1975年。6,緩詰修二「最悪の戦場 独立小隊奮戦す」光人社・1993年。7,高見順「高見順日記・第二巻ノ上」勁草書房・1966年。8,鈴木四郎「南溟の空」未来社・1989年。9,池田佑「秘録大東亜戦史・改訂縮刷決定版・第3巻・マレービルマ篇」富士書苑・1954年。10、石射猪太郎「外交官の一生」中公文庫・1986年。11、林年秀「英霊たちの転進」光人社・1992年。12、後勝「ビルマ戦記ー方面軍参謀 悲劇の回想」光人社・1996年。
(2021年10月17日まとめ)

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