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法廷傍聴控え 拳銃運び屋事件1

昔、こんな事件がありました。

 94年9月10日、兵庫県警保安課は、神戸税関の応援を得て、タイ人の拳銃大量密輸事件を摘発した。
 逮捕されたタイ人船員のリン(28歳)の初公判が、94年11月15日、神戸地裁で開かれた。被告人席のリンは、おかっぱ頭で、中肉中背、薄い青色のジーパンに、寒いのだろうか青い防寒服を着ている。

 リンの公判はこの日で結審し、12月13日の第2回公判で、懲役12年の求刑に対し、懲役10年の有罪判決がいい渡されるというスピード裁判だった。
 公判で明らかになった“運び屋”リンの自供などから、事件の経緯をみてみよう。
 リンが“運び屋”になったのは、93年4月ごろ、タイの貨物船(8977トン)に甲板員として乗り組んだことから始まる。この船は小麦、鉱石などを積んで、年に5、6回、日本に入港する。94年7月25日、大阪・泉大津に入港し、その後、8月4日と5日の両日、神戸のポートアイランドの埠頭に入港した。
 そのとき、埠頭にいると、タナカと称する日本人の男から英語で話しかけられ、名前と船名を聞かれた。タイ船のリンと名乗ると、「タイから荷物を運んでくれれば5000ドルか100万円を払う」と、密輸をするように誘われる。
 タイに帰港して、タナカのいうとおり、バンコクでフジモトという日本人の男に電話連絡した。すると、「ゆっくり話したい」というので、翌日、デパートの地下一階にあるスキヤキ店で、フジモト、フジモトの仲間であるソムチャイというタイ人の二人と会う。
「心配いらない。向こうでタナカが待っているから、運んでくれ」
 フジモトがリンを安心させる。
「先に金をくれ」
 リンは催促する。
「日本についてタナカからもらえ。うまくいったら、ボーナスとしてさらに20万円やる」
 このようなやりとりの後、タナカの連絡先の携帯電話の番号を書いた紙を受け取る。当時、リンの月給は1万3000バーツ(約5万円)で、タイの標準的な月給だった。

 しかし、「母が耳の手術をしないといけない。その手術費用と家での治療費用がかかる。妻も養わないといけないので、いまのお金では足りない。もっとほしい。もし、この仕事で報酬を得たら家も買うつもりだった」。
 9月1日、リンは受け取った荷物とともに乗船し、船は日本に向けて出港する。9月9日、リンの乗った貨物船は大阪・泉大津の汐見埠頭に入港する。
 早速、リンは埠頭にある公衆電話からタナカに連絡する。午後5時30分だった。30分ぐらいたって、白色の乗用車に乗ってタナカがやってきた。リンはタナカと出会う。

 船から数十メートル離れた岸壁上に、材木の積んである場所がある。タナカは、そこに示して、「夜中の零時30分に取りにくるから、零時までに、そこに置いておけ」と指示した。
 午後11時ごろ、リンは拳銃の入った段ボール箱などを船から降ろし、指定された場所に隠した。
 午前零時過ぎ、リンは指示どおり隠したので、タナカに電話した。「30分ぐらいで到着する」とタナカがいうので、船に戻りデッキから隠し場所を監視していたが、タナカがなかなか来ない。午前3時ごろ、また、タナカに電話する。「まだ、神戸にいるので、30分から40分待ってほしい」。
 しかし、それでも来ない。さらに、船を降りて、電話をかけにいく途中、白い自動車に乗ってやってきたタナカに出会う。「5時ごろ隠し場所に行く。見つけられないように」と指示した。リンはそのまま船に戻った。
 一方、9月9日夕方、兵庫県警保安課に、リンの乗っている貨物船に密輸の動きがあるという情報がもたらされた。同課は神戸税関の応援を求め、午後8時ごろから埠頭を張り込んでいた。
 10日午前5時近くになって、リンがタラップをおりて隠し場所にやってきた。そのとき、捜査員が駆け寄って職務質問を行い、隠してあった麻袋の中身を調べたところ、拳銃61丁、弾255発が入っていたのである。

 拳銃の大部分は中古品であり、スペイン製のオートマチックが10丁、コルトのリボルバーが10丁、旧ソ連製のオートマチック5丁、中国製の黒色トカレフが7丁あった。
 兵庫県警の大殊勲である。

 ところが、それから、4年後、98年12月4日付の『フライデー』によると、タナカと名乗った日本人は、現職の兵庫県警の警察官で、フジモトは、同警察官の特別協力者だったというのである。真偽のほどは不明だが、たしかに、リンの裁判を傍聴していて、どうして、タナカが逮捕されなかったのかという疑問は抱いた。

 一方、横浜港でも、密輸事件が摘発され、2人のフィリピン人の男が、99年6月10日、横浜地裁の法廷に登場した。1人は片足をひきずるような歩き方の小太りのポンドン(38歳)。もう1人はポンドンより少し背が高く、やせ型のデリア(29歳)だ。
 検察官が起訴状を読み上げる。営利目的で乾燥大麻約19.3キロ、CSRと呼ばれる回転式の密造拳銃10丁と実弾150発を密輸した事件だ。ポンドンのほうは、「そのとおりです」と認めたが、デリアのほうは、密輸のことはまったくしらないし、荷物の中身が大麻、拳銃であることもしらなかったと、起訴事実を全面的に否認する。

 そのため、次回から2人は分離して審理することになった。

 ポンドンの第2回公判は、7月1日に開かれ、被告人質問が行われた。まず、弁護人が聞く。
 ポンドンは、98年8月からパナマ船籍のコンテナ船(18人乗り組み)に乗り込み、ボイラーを担当する機関員だった。船の同僚の中にウイルバートというフィリピン人がいた。

 ──大麻の密輸とウイルバートと関係ありますか。
「あります」
 ──どういう関係がありますか。
「彼が、『君はお金がほしければ、こういう仕事をすれば、私みたいにお金が入る』と、私にいいました」
 ──ウイルバートが、大麻の密輸を誘ってきたのですか。
「最初はそうです」

 98年9月か10月ごろだった。しかし、ポンドンは、「怖い」と一度は断る。

 ──怖い理由はどういうことですか。
「やったことない仕事で、捕まったら刑務所に入れられます」

 断ったのだが、ウイルバートは、何回も誘いかけた。まもなく、ウイルバートは船内で喧嘩騒ぎを起こし、船を下りる。その後は、ウイルバートの友人であるベルフィンやハリーという男から、「密輸を引き受けてくれたら、たくさんの金をもうけることができる」と、しつように誘われる。

 ──ベルフィンやハリーから何といわれて、誘われたのですか。
「『そんなに怖がらなくていい。私たちは税関で働いている。こういう密輸をやってるから、絶対大丈夫』といわれました」
 ──だれが、税関で働いているというのですか。
「ハリーです」

 結局、98年12月ごろには、「父親が病気、私も病気、こども3人のうち2人は学校に行っているので、金がほしい」と、密輸に加担することを承諾する。そこで、初めての大麻密輸に手を染めることになる。

 しかし、「1人ではできない」。彼より数カ月後に船に乗り組んできたデリアに目をつけた。同じ機関員だ。「一緒にやってくれ。たくさんお金をもうけることができる」と誘い込む。

 ──1人でできない理由は何ですか。
「怖いからです。それに、重い荷物を持てません」
 ──持てない理由は何ですか。
「私の右足は左足より短い。ヘルニアの病気も持っています」
 ──体の問題で、重いものを持てないので、デリアに手伝ってもらうということですか。
「はい」

 デリアは、「結婚するのに金がいるし、自動車の修理代もいる」というので加わる。

 ──はじめての密輸は、警察などに見つからなかったわけですね。
「はい」

 冒頭陳述や後述するデリアの被告人質問での供述などもあわせると、1回目の大麻密輸は、次のように行われた。
 ハリーたちのボス、つまり、密輸の首謀者はダニーといって、かつて船員をしていた男だ。ダニーから、大麻を密輸すれば、バッグ1個につき10万ペソ(約26万円)の報酬を払う。日本の港には、大麻を引き取る人間がくる。そこで、報酬を日本円で渡す。日本についたら、連絡先を教えるから、自分に電話してくれなどと指示される。

 ポンドンの月収は月2万ペソ(約5万3000円)だったから、かなりのもうけ仕事だ。
 99年1月8日、マニラ港を出港したが、そのとき、大麻の入ったボストンバッグを2個渡される。2回目のバッグよりも大きかったというから、20キロ以上は入ってた可能性がある。バッグを機関室内に隠し、1月27日には、東京・青海港に到着する。

 指示どおり、東京テレコムセンターの公衆電話から、マニラのダニーに電話を入れた。すると、ノボという男の連絡先電話番号を教えられる。
 1月28日、船は横浜港に入港。ノボに電話を入れる。「荷物を持ってきたので、来てください」。港の近くのシーメンスクラブにやってきたノボに大麻を渡し、日本円で80万円の報酬を受け取る。はじめの約束よりも多かった。デリアの見たところ、ノボは日本人だった。

 ──2回目の今回の密輸は、だれから頼まれたのですか。
「ベルフィンとハリーが、『また、仕事がある』といってきました」

(2021年11月29日まとめ・人名は仮名)



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