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法廷傍聴控え 暴力団トカレフ射殺事件3

 ──吉原は小学校ぐらいから知っている。弟のように思っていた。90年9月ごろ、吉原が覚せい剤で新宿署に拘留され、その際に面会に行ったことはある。現金2万円を差し入れたが、自分の前で西川のことを非難するので、差し入れてもしようがないと取り戻したことがある。吉原は執行猶予で出てきた。

 その後、吉原と西川の間で、2、3回いざこざがあり、組の連中が木刀などを持って吉原の自宅へ押しかけたことは聞いている──

 まず、このようなことを聞き出してから、次の質問をした。

 ──吉原を殺したイキサツだが、その理由、指示したのはだれですか。
「西川が指示したと思っています。私はしりません」
 ──あなたが西川に指示して殺させたことはないのですか。また、中野に指示したことはないですか。
「ありません」
 ──西川は、西川のいる前で、証人が中野に対して具体的に指示したといっていますが。
「そういうことはありません」
 ──西川が証人に対し、「吉原は私のほうで責任を持ってやります」とか、口ではっきりと殺すとはいわないにしても、そういったことをいったことは。
「ありません。私は吉原の殺人については、まったく関係ありません」
 ──組の組織ということで、証人の意向とまったく関係なくやることはおかしいと思いますが。
「よくわかりません」
 ──西川が吉原を殺すような理由は。
「仲が悪く、しょっちゅう喧嘩していたからかもしれません」

 当然のことながら、あくまでも自分が指示したことはないと否定する。

 ──西川は控訴して、弁護人は国選になったが、どうして変わったのですか。
「西川の一審の弁護費用は自分が面倒みて、現金も差し入れました。これは、若い衆には親分としてみんなにやっていることです。しかし、控訴審ではうちで弁護士をつけることができない。控訴しないということで面倒みたし、お金もありません」
 ──証人が指示したと、西川がいっていることについて、どう思いますか。
「西川は少し疲れているかなあといった感じです。私は頭にきてません。最初は頭にきましたが。

 なぜ、西川が控訴審で一審と違うようなことをいうようになったのか、思いあたる節としては、金のことか、面会に行ったり行かなかったりとか。金のことというのは、そうすべきだろうが、こちらもなかなか金ができません」

 関係者の話によれば、有罪が確定して刑務所暮らしをする場合、金を持っていると重宝するという。また、それなりの金額を持っていないと格好つかないという見栄も、西川にある。ところが、総長からまとまった金も出ない。そこで、暴露戦術に出たのだろうと推測しているが、弁護人も質問を浴びせる。

 ──2丁の拳銃は2月のはじめころ、あなたが140万円で買ったものと、三枝はいっているが。
「違います。買ってません。うその供述です」

 裁判長が口を挟む。

 ──あなたは金を出しているんでしょ。あまりでたらめをいわないでくださいよ。
「140万円出してます」

 この点、傍聴していた被害者の関係者が、閉廷後、「あの証言のとおり、福島が金を出して拳銃を買ったならば、あれで即逮捕じゃないの」と憤慨していた。
 ともあれ、弁護人の質問を続けよう。

 ──吉原殺しの指令は福島総長から出されていると、三枝は供述していますが。
「ありません」
 ──金田も、「福島から出た」と供述していますが。
「そういうことはないです」
 ──部下の三枝も金田も、うそをいってるということですか。
「そう思います」
 ──西川の一審の裁判が終わって、西川の面会に行ったことはありますか。
「回数は覚えていないが、3回以上行きました。そのときの会話は覚えてません」
 ──92年1月になってからも、東京拘置所に行きましたか。
「会いに行きました。控訴を取り下げろといいました。早くつとめたほうがいいと思ったからです。西川が控訴して、ほんとうのことをいいたいとかいっていることはしりませんでした」
 ──所轄署のある刑事から、控訴していると、本庁(警視庁)によって、あなたの逮捕までいってしまうので取り下げるようにという連絡を受けたと、西川にいいましたか。
「西川はそんな控訴理由でなく、量刑不当といってました」

 最後の質問は西川や弁護人にとっては、非常に重要な質問なのだが、答えが少し食い違った。福島が質問の意味を取り違えて答えたのか、それとも意識的にはぐらかすような答えをしたのか。

 最後に、裁判長もかなり時間をかけて、犯行前後の事情を細かく質問した。

 ──西川はあなたの意を体して、今度の事件を起こしたと思うか。
「思います。電話の内容を話したときに、西川が自分の顔をたてるつもりでやったと思います。組長である自分に喧嘩を売ってきたから」
 ──親分に喧嘩を売られて、このまま黙っているわけにはいかんと。それと、東京拘置所に面会に行った。そのときの話で、所轄署のある刑事から、「西川は控訴して、すべて事実をいってしまう。このままでは福島までいってしまう。すぐ控訴を取り下げろ」といわれたというのは。
「私自身がうそをつきました」
 ──うそのつきかたでも、他に方法があるじゃないか。そういうことをいうと、本気にする人もいる。
「他の言い方でも、何回か取り下げろといったのですが、取り下げないものですから」
 ──控訴を取り下げようと取り下げまいと、(西川が刑務所から)出てくる早い遅いはそんなに関係ない。あなたのほうに、控訴されて困る引け目はないのか。
「ありません」
 ──2人は(犯行後)どうして石和に行ったのか。
「わかりません」
 ──報告にきたのではないか。
「わかりません」
 ──三枝や金田は、あなたの仕打ちが非常に冷たいと感じているみたいだ。報告に行ったら、「すぐに警察に出頭しろ」といわれて。2人が来たのは迷惑だったのか。
「迷惑ということはないと思いますが」
 ──来たと思ったら、「警察に出頭しろ」といわれて、証人と電話で涙の別れをしたみたいじゃないですか。あなたは涙を流さなかったかもしれないが。そんなことはなかったですか。電話じゃわからないわね。この事件について、あなたの率直な感想を聞かせてください。
「監督不行き届きで、うちの弟みたいな人間がこういうことになって、事前に防げればよかったなと思ってます」

 裁判長の口から、「意を体して」という言葉が出て、福島が肯定したとき、判決が見えた。第5回公判(92年8月3日)で、東京高裁の判決が下された。

 ──猪木証人の供述によると、本件が暴力団組員による組織的犯行であるため、捜査官も当然福島総長の指示によるものとの疑いを抱いて取り調べに当たったが、被告は総長による指示の事実を明確に否定し、捜査の結果も被告の供述を覆すに至らなかったことが認められ、捜査官が取り調べの際、被告に対し総長の罪をかぶって行くように説得した事実もうかがわれない。
 また、福島自身も当審公判廷において、被告に被害者の殺害を指示した事実を否定し、あくまで本件犯行が被告の指示によるものである旨供述している。
 そして、関係証拠によれば、福島総長は被害者とは幼なじみの間柄であり、被害者に対する反感からけじめを主張する組員らを再三なだめ、組員らは総長の態度をむしろ歯がゆく感じていた状況がうかがわれ、このような経過に徴すると、総長の供述も一概に否定できない。被告の弁解は証拠関係に照らして採用できず、論旨は理由がない──

 控訴棄却の判決であった。判決を聞いていた西川は棒立ちのようになって、かなりショックを受けたようだ。西川は、さらに最高裁に上告するが、94年1月20日、最高裁は上告棄却の決定を下す。金田の控訴審は西川と分離されて行われたが、刑期は変わらなかったという。

 ところで、西川の上告の最中、もう一つ、拳銃を使った殺人事件が発生した。現場は西川らの事件と同じ市である。93年12月10日午後5時過ぎ、雑居ビル6階の不動産会社事務所で、同社社員(36歳)が左胸を撃たれて殺された。
 この事件のニュースは、すぐに西川の耳に届く。「福島にキップ(逮捕状)が出た」という話も伝えられた。そこで、西川は、福島が逮捕されたときには、吉原殺害事件についても十分調べ直してほしいといった内容の告発書を、警視庁捜査四課長、所轄署長、東京地検八王子支部長の3人宛てに出したという。
 西川の事件が確定して半年ほど過ぎた94年6月4日、福島が逮捕された。今度は証人としてではなく、裁かれる身になった。原因は福島が貸した金をめぐってのトラブルだ。激昂した福島が、セカンドバッグの中から拳銃を取り出し、1発撃った。その拳銃はトカレフではなく、“ブタっパナ”と呼ばれる、銃身の短い回転式拳銃だった。福島は殺すつもりはなく、拳銃が暴発したと主張している。
 しかし、96年3月6日、東京地裁八王子支部は、福島に対し、殺意を認め、殺人などで懲役12年を言い渡した。

 福島の公判では、西川が期待しているような“告白”は、福島の口から出てこなかった。一つだけ、福島の公判で耳をそばだたせた証言が出た。福島と組は違うが、兄弟分として付き合っていた湯山辰雄という“ヤクザ者”がいる。吉原が殺された事件の3カ月後、湯山も住んでいたマンションの部屋に拳銃を撃ち込まれたことがあった。
 警察が現場検証したとき、部屋からトカレフ用の弾が20発出てきた。この弾は、吉原の事件後、福島サイドに頼まれて預かっていたといわれる。それほど福島と湯山の仲は深い。
 その湯山の名前が飛び出したのだ。それは、95年2月22日の公判だった。かつて湯山の所属する組で組長代行をしていた男が証人として出廷した。この男は湯山を通して福島を知り、以後、懇意にしていたと、福島との関係を証言した。
 検察官から、湯山の所在を聞かれ、「いま、関西の暴力団系列の組長代行をやってます。福岡にいます」と答え、連絡先の電話番号も、セカンドバッグからメモ帳を取り出して答えた。
 検察官が福島の公判で証人として必要なために湯山の所在を聞いたとばかり思い、そのとき、あまり深く考えなかった。ところが、約3カ月後の95年6月6日、湯山が北九州で逮捕されたのだ。容疑は、同年5月8日、拳銃を使った熊本の信用金庫強盗傷害事件だった。
 その後、94年7月、栃木の不動産業者監禁暴行事件、同8月、神奈川と千葉での金融業者殺人事件、95年1月、福岡のパチンコ会社役員誘拐事件など、仲間とともに多くの事件を起こしているのが判明した。これらの広域的凶悪事件は、「警察庁指定123号事件」と呼ばれるようになったが、湯山は主犯格だといわれる。
 もう一つ、湯山らの犯行といわれるのが、93年8月、東京都下で起きた暴力団系の不動産業者の監禁致傷事件だ。拳銃で脅してらちし、監禁して、スタンガンなどで暴行を加え、重傷を負わせた。殺すつもりはなく、手当てをしようと思ったが、表沙汰にはしたくない。

 そこで、兄弟分の福島なら地元でもある。「どこか病院は知らないか」と話がきて、福島は病院を手配したという。この不動産業者は、吉原の兄であった。
 ヤクザと拳銃事件は切っても切れない。西川は“ヤクザの道”に外れた親分告発を行い、なんとか逃れた福島も、“ヤクザの道”を突き進んだ結果、みずから手を下した殺人事件で裁かれる身となった。(了)

(2021年11月27日まとめ・人名は仮名)


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