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慰安婦 戦記1000冊の証言37 ジャワ白馬会

 いわゆる文化人と呼ばれた人たちにも「慰安婦体験」がある。
 作家井上靖は、毎日新聞記者時代、昭和12年8月から13年3月まで、名古屋の第四兵站輜重兵として、中国・北支に従軍した。
 その時の日記に、こんなことも記してある。
「(昭和12年)10月13日」「今日は午後鉄道の沿線(平漢線烏馬庄・新村間?)を通る。手を繋れてる支那の十七八の若年の屍甚だ多し」
 捕虜も殺したという意味だろうか。それから10日以上過ぎて、「10月25日」東常寿で「今日サック9枚支給さる。女が4人来る由」(1)。

 井上が慰安婦を経験した記述はないが、慰安婦と無縁でなかったのが作詞家の西條八十だ。西條は、昭和13年9月、陸軍の音楽部隊の隊長として、中国・江西省の徳安戦線に赴く。
 星子に駐屯する将兵の有志が、西條を招待し御馳走する。その宴席で、「西條の今一番ほしいものを差し上げたい」といわれる。
「毛布が一枚欲しいんですが……」と答えた。「そのころ中支はもう秋で、夜になると、毛布1枚で板敷きのベッドに寝ると、足さきが冷えてたまらなかった」
 足さきをくるむ毛布がほしい。しかし、毛布は入手できなかったので、代替策を提案された。
「それは奇想天外な提案だった。つまり、この駐とん地にはいま数人の慰安婦が来ている。その中の太った一人を選んで、夜、ぼくの足を暖める湯たんぽ代わりによこそうかと言うのだった」
「ぼくは笑いをかみころし、ていねいに断って、その将校を帰した。やがて音楽部隊の連中にその話をすると、かれらは手をうって喜んだ」
「そのうち、いたずらなひとりが飛び出して行って、もどってくると、ぼくに伝えた。『たのんできましたよ。今夜、9時にはきっと来るそうです』。ぼくはこの町の慰安所がどこにあるかも知らなかった」
「だが、約束の9時を過ぎても、みんなが期待する肉湯たんぽの艶なる姿はあらわれなかった」。そのうち現れたのは完全武装の兵隊で、敵襲情報が入ったという。
「ぼくは南京入城の前日、あのむごたらしい大虐殺を目のあたりに見て、心にもう血の洗礼は受けていた。従軍とはいうものの、まかり間違えば殺されるか、捕虜になるかもしれないとは覚悟していた」
 しかし、敵軍は、市街へは入ったが、2つの橋梁を爆破しただけで、また山へもどって行った。
 そのとき、敵軍は「街はずれにあった慰安所の若い女を2人、さらって帰っていった。そのあとを追跡してゆくと、山道に彼女たちの衣類のこまかいちぎれたのが黒々と落ちていた」「だが、相当登った地点で、もうその目じるしは絶えていた。追っていった若い兵たちはそこに立ちどまり、思わず声を上げて泣いたという。
 ぼくはそれを聞いて、昨夜、ぼくのところによこされるはずだった婦人も、その中にいたのじゃないかと、ふと考え、感慨無量だった」(2)

 映画監督の小津安二郎は、昭和12年9月、召集され、野戦瓦斯第2中隊第3小隊班長として、中国各地を転戦する。日記を書き残す。
 中国・定遠、昭和13年4月11日付け、知人への手紙。「ここに4日程前から慰安所が出来ました」。朝鮮人慰安婦だった。
 中国・応城、昭和14年1月13日、「今日から城外に慰安所が出来る」「開店早々うちの部隊が当る。慰安券が2枚 星秘膏 ゴムなど若干配給になる。半島人3名支那人12名計15名の大まがきだ」。
「慰安券に曰く
*慰安所に於ける酒食を禁ず。
*泥酔者の慰安所に出入を禁ず。
*軍機を厳守し之を漏洩せざる様万全の注意を要す。
*時間の厳守。
*衛生に注意。
*自隊日割外の出入を禁ず。
*性病者及切符を所持せざる者の慰安所出入を禁ず
*とあり、応城野戦倉庫之印の捺印がある。
 兵隊ハ13時から16時まで半時間1円、下士17時から19時まで30分1円50銭1時間2円。兵ハ1時間1円50銭 伍長試みに出かける」(3)
 同、昭和14年1月20日、「無為。室外不出。慰安所の日」。
 中国・陽新、昭和14年2月3日、「本部と共に兵站宿舎に寝ることになる。となりに慰安所があって、何時迄も賑で仲々ねられない。怒鳴る。効目があって静になる。ねる」(4)

 評論家大宅壮一の「武勇伝」を証言するのは、毎日新聞記者の海軍報道班員。
「私が占領後の南方視察の際、シンガポール支局長らとともにジャワを訪れると、大宅(壮一)君らは町田中佐をかつぎ上げて、好きなように『ご奉公』を全うしていた。
 大宅君は大邸宅を接収し、そこで『白馬会』と『黒馬会』なるクラブを組織していた。そして軍司令部は長い間、それが『乗馬クラブ』であると信じ込まされていた。事実、邸には4、5頭の馬がいたことはいたが、誰も乗ったらしい形跡はなかった」
「実は、このクラブは『白馬』がオランダ系女性、『黒馬』がインドネシア女性のクラブだったのである」(5)

 町田中佐は、陸軍ジャワ派遣軍宣伝班長として、大宅壮一をはじめ、多くの「文化人」からなる「文化部隊」を率いて、昭和17年3月ごろから、インドネシア・ジャワで「文化工作」に従事する。中佐自身に証言してもらおう。

「ジャワ島駐留部隊の生活は、ピンク・ムードを越えて聖戦を性戦化してしまい、性病は複雑多岐となり、ユーラシアン以上の混血児人口の急増を来たし、日イ双方の民族の純血は混濁しつつあった。
『ジャワは天国だ』という合言葉は、こうしたデカダンスな世相を指していたもので、インドネシアにとっては、決して天国ではなかった。
『オランダ300年の搾取を、日本は3年間で強行した』などの酷評はともかくも、シボられることには慣れていたジャワ人たちも、このアジアの盟主の豪遊ぶりには、小首をかしげる外はなかった」
「かつての大陸同様、軍の慰安所が開かれたのだ。その人肉の市には、さすがに国際色豊かなニョナン・ノナン(女性)の群像が絢爛と咲きみだれた。むくつけきサムライや蒼白きインテリーなどが、ペチャ(小馬車)を飛ばして夜の蝶を求めたことは申すまでもない。
 それとは別に、しかるべき婦人をオンリーさんにして、しかるべくやっていた達者なトアン・トアン(旦那衆)もいた。その中に『白馬会』というのがあった。白人の婦人を専らとするグループである。
 そうした或る日、Kという主計少佐が着任して軍司令官のところへ挨拶に行った。
『ここは亜熱帯だから、健康に気をつけ給えよ。適当な運動をすることだね。ときに君は乗馬は好きかね?』『ハイ、大好きであります』
『うむ、そりゃあよかった。軍の宣伝班には「白馬会」という乗馬クラブがあって大いにやっとるようだ』『そうでありますか。では私も会員に入れてもらってせいぜい乗ることにいたします』」
「実はご両人ともその時は『白馬会』の何ものかを知っていなかった。しかしこの少佐は、のちに累進(?)して『白馬会』会長になったというから、その精進振りはあっぱれと申しあげねばなるまい」(6)

「ペチャを飛ばした」一人に、作家の武田麟太郎がいた。「文化部隊」の面々は陸軍軍属である。
「麟太郎は少佐待遇となった。一番上が大宅(壮一)の中佐で、尉官の人もある。軍隊は学歴社会である。帝大が本俸で月260円、私大と専門学校が200円、中等学校が100円を基準にする。
 大宅が最高である。学校は卒業も中退も問わないので、麟太郎も265円だった」「戦時手当がその14割もつく。それだけでもあり余る。麟太郎たちは本俸を留守宅へ送る手続きをした」
「(武田は)ベチャと呼ぶ輪タクに乗り込んで、夜の町へ消えて行く。食糧も酒も煙草もふんだんにある。ジャワは天国だった。ノールドウエイ街にあるジャワ会館は大阪のカフェー丸玉の経営で、女はみんな日本人である。大阪弁を使う」
「コタというのは古い下町である。そこの南京旅舎へもよくあらわれる。回廊の奥に一人一人の女の部屋が並ぶ。娼家である。20歳前の女が多いが、25歳ばかりの華僑系の姐御がいて、麟太郎に尽くした」
「華僑系が一番で、混血の女も好きだった。白人を軽蔑し、そんな女のいるバー津軽などへはあまり足を向けない。大理石を床に敷き詰めたハルモニイクラブは将校集会所だが、それよりもバンデン広場の東にあるコンコルデアへ行った。兵隊のためのクラブである」(7)

 たしかに、ジャワは天国模様であった。
 評論家の藤原弘達は、学徒出陣で、昭和20年2月ごろ、中国・汕頭に着く。
「中国大陸に渡ったとき、その中隊の将校で童貞だったのは、私ひとりだった。『行って来いよ』などとすすめられ、汕頭の将校専門のクラブに連れて行かれた。
 クラブといっても、料理屋兼慰安所のようなところで、そこにはセックス・サービスをする女(中国人)がいた」(8)

《引用資料》1,井上靖文学館「井上靖『中国行軍日記』」井上靖文学館・2016年。2,西條八十「西條八十全集第17巻」国書刊行会・2007年。3,田中眞澄「小津安二郎と戦争」みすず書房・2005年。4,田中眞澄「全日記小津安二郎」フィルムアート社・1993年。5,後藤基治遺稿刊行会「戦時報道に生きて」私家版・1974年。6,町田敬二「戦う文化部隊」原書房・1967年。7,大谷晃一「評伝武田麟太郎」河出書房新社・1982年。8,藤原弘達「藤原弘達の生きざまと思索1・生き残る」藤原弘達著作刊行会・1980年。

(2021年12月30日更新)










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