ちょっと前の外国人打者の凄さ

お久しぶり。しばらくやる気が起きなくて投稿してませんでした(ド直球)。


むやみに球団を絞るのはやめにして、好きなように語ろうと思います。


 最近ふと思ったけど、ちょっと前…と言ってももう30年ぐらい前になっちゃうけれども、平成に元号が変わってからの数年間って、パ・リーグにくる外国人って、来日1年目から大概ホームラン打ちまくってたイメージがある。

 代表的な例は西武のオレステス・デストラーデ。前年38本塁打のタイラー・バークレオが極度の不振に陥ったためにシーズン途中に加入したが、いきなり32本塁打をかっ飛ばし、翌90年から3年連続本塁打王を獲得して黄金時代真っただ中の西武で「カリブの怪人」の看板に偽りなき日々を過ごした。同じ89年だと南海ホークスを買収し、福岡に来たばかりのダイエーホークスの新看板として獲得したウィリー・アップショーも33本塁打を放ち、後半戦は台風の目となって優勝戦線をかき回したチームの打線をけん引した。さらに同じ年には「ランボー」の愛称で慕われたマイク・ディアズもロッテに入団し、こちらは前述2名を上回る39本塁打。ディアズの場合は打率3割もクリアしていて、最下位に沈んだチームにあってまさに孤軍奮闘であった。
 90年には日本ハムに「躍る本塁打王」の異名をとったマット・ウィンタースが入団。こちらは来日1年目から4年連続で30本塁打越え。同じ時期にデストラーデ、ラルフ・ブライアント(近鉄)がいたせいでタイトルは縁なく終わったが、本拠地が東京ドーム(当時は広い&フェンス高いのでホームランは出にくい部類扱い)であったことを考えるとその価値は高い。91年にダイエーに入団したマイク・ラガも低打率ながら32本塁打を打った。珍プレーでヘルメットをひたすら壊しまくる映像が有名であるが、助っ人の働きはしていたと言える。
 思えば昭和ラストの88年も、ブライアントも34本塁打、初っ端に名を上げたバークレオも来日2年目ながら一軍初出場がこの年からだったから見事なものと言える。今や問題児助っ人の代名詞とも化した元ロッテのメル・ホールも来日1年目の93年は30本塁打をクリアしているし、平成一桁年代ラストの97年も西武のドミンゴ・マルティネス、日本ハムのナイジェル・ウィルソンが30本塁打以上を打った。

 セ・リーグに目を向けても全くいなかったわけではなく、89年の本塁打王の「ワニ男」ラリー・パリッシュ(ヤクルト)は42本塁打、タイトルを争ったセシル・フィルダー(阪神)も38本塁打、92年の野村ヤクルト初優勝に貢献したジャック・ハウエルも38本塁打でタイトルをとったし、97年のドゥエイン・ホージーも38本塁打でタイトルと、このころの助っ人打者に求められていたのは一にも二にも本塁打だったのだと思わずにはいられない。連打が望めない強力なピッチャーとの試合では、こういうバッターの存在がものを言ったのである。

 ただ、このころの背景として、球場が今より狭かったことは注釈すべきだろう。96年までは平和台、川崎、日生、西宮、そして藤井寺と狭さの代名詞のような球場があったし、セ・リーグにも91年まで甲子園にラッキーゾーンがあり、広島市民にナゴヤ球場、神宮も当時はフェンスが低かった(映像を見るにラバーぐらいしかなかった)ので、ホームランが出やすい環境ではあっただろう。だから「そんなつもりで打ったわけでない」打球も、あっさりフェンスを越えちゃったなんて言う事故もあったと思う。でも、だからこそ外国人打者の一発に賭けることも作戦の一つだったしピッチングの注意点だっただろう。そして外国人枠も今と比べてかなり厳しかった(93年までは1軍でプレーできるのは2人まで)から、必然的に長打力が優先となったわけだ。

 今はいろんなタイプの選手が来るようになったが、「助っ人外国人=本塁打」が30年前は如実だったわけだ…なんてことを思った。それだけです。

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