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「カレイの唐揚げ」と家族観。

「カレイの唐揚げ」にちょっとした思い出がある。

この"カレイ"は魚のカレイのことだ。
ちなみにエイと見た目が良く似ているが、別の種類らしい。

小さかった頃、札幌の「平岡」にある祖父母の家によく泊まりに行った。
おれの実家も同じく札幌だったので、平岡までは車でたいだい30分程だった。

平岡の家は、かなり古いボロボロの平家で基本的にはおじいちゃんとおばあちゃんの2人暮らしだった。
外の小屋では、「ムク」という同じくボロボロの雑種の中型犬が飼われていて、こいつがとても怖かった。

姉弟3人で行くこともあったし、一人で行くこともあった。

平岡に泊まりに行くのは楽しみだったし、おそらくおじいちゃんとおばあちゃんにとっても孫が遊びに来るというのは楽しみなことだったろうと思う。
この世で1番平和な需要と供給の一致である。

おばあちゃんは、とにかく料理好きで料理上手だった。

平岡に遊びに行くと、いつもおばあちゃんはまだ昼過ぎくらいからずーーっと夜ご飯を作っていた。
びっくりするぐらい長い時間を掛けて丁寧に丁寧に出汁を取ったり、具材を煮たりするのだ。

特におばあちゃんが作る「うま煮」は絶品だった。
薄目の味付けなのだが、具材たちに出汁がひたひたに染み入っているのだ。

今ではおれも料理が好きなので、煮物もたま〜に作ることがあるのだが、何をどう工夫しても不思議とおばあちゃんが作るあのうま煮のような味にはならない。

多分、あの味を出すにはおれの人生というものがまだまだ足りないのだ。
いつかはあんなうま煮を作るかっこいいジジイになりたい。



いつものように平岡に泊まりに行ったある日、「カレイの唐揚げ」が出てきた。

それまで実家ではこのカレイの唐揚げが食卓に出たことはなかったので、それがおれとカレイの唐揚げとの初対面であった。
平たいカレイが丸まんま(北海道弁で丸ごとの意味)1枚唐揚げにしてあって見た目のインパクトも物凄かった。

カレイの身には包丁で見事な十字の切れ目が入れられていた。
千切りしたキャベツの上に揚げられたカレイが乗っかっていて、そこにたっぷりとソースを掛ける。

おれは初めてのカレイの唐揚げを、ちょっと警戒しながら食べてみた。

皮は薄い衣でパリッと揚がっているが、身はふわふわしてこれがとても美味しい。
おれは「おばあちゃん!これすんごいおいしいね〜。」と瞬く間にそれを完食した。

「まあ、てっちゃんが喜んでくれておばあちゃん嬉しいわ〜。」
とおばあちゃんはニコニコしていた。

そして、おれがそのまた次に平岡に泊まりに行ったとき、夜ご飯にあのカレイの唐揚げが出てきた。

「てっちゃんの好きなカレイの唐揚げにしたわよ」
ドヤ顔のおばあちゃんがそう言った。

「おばあちゃんやっぱりカレイの唐揚げはおいしいね〜」とおれはまた大満足で完食した。

また次に平岡に泊まりに行った日も、カレイの唐揚げが出てきた。
そのまた次もカレイの唐揚げが出てきた。

そして、その次もその次もカレイの唐揚げが出てきた。
まだ小さかった頃のおれの体感もあるのだとは思うが、平岡に行くと8割くらいはカレイの唐揚げが出てきた。



おれは困っていた。
なぜなら、正直カレイの唐揚げに飽きてきていたからだ。

食べるとなんだかんだ毎回美味しいのだ。
しかし平岡に行くとだいたいこのカレイの唐揚げが出てくることは分かっていたので、新鮮さはもはやなかった。

内心は、「おばあちゃん、ステーキとかマグロの刺身とか出してくれてもいいんだよ。」的な気持ちであった。
いろいろなメニューがある中で、たまに「カレイの唐揚げ」を差し込んでくれれば、こちらだってもっとコンディションの良い状態で最高のリアクションを取ることが出来るというものだ。

しかし、おれがそれを美味しそうに完食する度に、おばあちゃんの中では「てっちゃんの好物=カレイの唐揚げ」という等式がどんどん強固なものになっていく。
そしておばあちゃんはおれが遊びに来ると、かわいい孫の為と思って毎回スーパーでカレイを探してきて、気合を入れてそれを揚げ続けた。

それはおれにとっては小さなプレッシャーであった。
「てっちゃんはやっぱりカレイの唐揚げが好きなのね〜。」と言われる度にちょっと気まずい気がした。

ただ、子供ながらにそんなおばあちゃんの気持ちを裏切ることも出来ない。
そしておれはついに「カレイの唐揚げが好きなてっちゃん」という設定をずっと今まで守り抜いたのだった。



もうおじいちゃんが死んで、5年以上経った。

おじいちゃんが死んですぐに、平岡の家は取り壊されおばあちゃんは札幌の団地に入った。
現在はその団地で、おれの叔父さんと一緒にふたりで住んでいる。

おばあちゃんはもうかなり歳を取った。

今は、おれのお姉ちゃんにも子供がいるので、立派なひいおばあちゃんである。
たまにお姉ちゃん達が「ひ孫」を見せに行くのだが、何度教えてもその名前を間違えて呼ぶので、みんなでそれを見ては笑っている。

あれだけ好きで上手だった料理も、もうすることはなくなった。

勝手なもので、そうなるとおばあちゃんの作るあのカレイの唐揚げをもう一度食べたいと思うようになってくる。
それにお酒の美味しさを覚えた今、あのカレイの唐揚げにハイボールでも合わせれば堪らないだろう。

最近になってから気づいたことがある。

おれはおばあちゃんの為にと、「カレイの唐揚げが好きなてっちゃん」という役割を守っていた。
しかし、おばあちゃんの方だって孫の為に「カレイの唐揚げを作るおばあちゃん」という役割をずっと守っていたのだ。

当たり前だが、おばあちゃんにも子供の頃や、若者の頃があっただろう。

おれはすでに「おばあちゃん」になったおばあちゃんのことしか知らない。
でも、おれと同じように、友だちがいたり、恋愛をしたり、仕事をしたりしていたハズだ。

おばあちゃん自身にもおばあちゃんがいて、「孫」の時があっただろう。

おれだって、おばあちゃんの前、家族の前、友達の前、狙っている女の前、仕事相手の前、全部違う自分があって、無意識にそれぞれの自分を演じている。
おれが知っているのは、そういうおばあちゃんの全体の中の一部分でしかなかったのだ。

おれが孫を演じるように、おばあちゃんだっておばあちゃんを演じる。

お父さんだって、お父さんを演じているだろうし、お母さんはお母さんを演じている。
お姉ちゃんたちだってそうだ。

家族って、それぞれがそれぞれを演じることで成り立っているんだと思う。
遺伝子が繋がっていたとしても、それでもやっぱりみんな別の個体だ。

その別同士が、みんな家族を演じ合うことで家族は成り立っている。
くさいことを言って恐縮だが、演じ合うことが愛なのだと思う。

それがおれの家族観だ。

そして今思うと、「カレイの唐揚げ」はおばあちゃんと孫であるおれの一つのコミュニケーションの形だった。
それはおれの大切な思い出であり、今自分の一部となっている。

今度団地にいるおばあちゃんに会ったら、カレイの唐揚げのレシピを教えて貰いたいな。
とか、思ってみたりね。

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