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西荻窪のボロアパートの思い出。

関東にいた10年間で4、5回引っ越しをしたが、最後に3年ほど住んだのが西荻窪だった。
会社員を辞めてお金がなかったので、家賃の安いボロアパートを選んだ。

売れないマンガ家が執筆をするのには十分な部屋だと思った。

引っ越しが完了した日、コンビニに行く為部屋を出ると、隣の部屋のおじさんがバイクを洗っていた。
目が合ってしまったので、おれは形式的に軽く会釈をした。

「あ、引っ越して来た人?」
会釈をした為に話掛けられてしまった。

「ここが家賃安い理由知ってる?」
おじさんはそのまま続けた。

そう言われるとこっちも気になってしまい、「え?何でですか?」と返事をしてしまった。

「このアパート事故物件なんだよ。」

おじさんはバイクにオイルを足しながら得意げにそう言った。

「あ、でも大丈夫!他殺じゃなくて自殺だから!」
満足したのか、おじさんは自分の部屋に戻って行った。




荷解きに集中していると、すぐに夜になった。
おれはシャワーを浴びる為、服を脱いで浴室に向かった。

このアパートのお風呂は今では珍しい「バランス釜」だった。
分からない人の為に簡単に説明するとこの「バランス釜」は、給湯器と浴槽が一体になっている古いタイプのお風呂のことだ。

1965年から製造され、70年代には集合住宅を中心に全国の一般家庭へ広く普及した。
現在でも使用されている屋外設置型のRF式給湯器が主流になった90年以降はほとんど製造されなくなった。

昭和のちょっとした文化遺産みたいなお風呂だ。
浴槽は立方体のような形になっていて、体育座りみたいな姿勢で1人ギリギリ入れる、最低限の小さなサイズだった。

お湯を出したい時は、小さなレバーをガチガチ回し、自分で着火しなければならない。
不動産屋から簡単に使い方は教えて貰っていたのだが、”コツ”みたいなものがあるらしく、これが思ったより難しい。

何度レバーを回しても、出てくるのは冷たい水だった。
おれは20分近くレバーと全裸で格闘していた。

まだ2月末だったので体はどんどん冷えていく。
服を着れば良いのだが今更服を着ることは、「負け」のような気がしたのでおれはそのまま全裸でレバーを回しまくった。

この部屋でどんな困難があっても、何とか踏ん張って売れっ子マンガ家になってやるという気持ちで引っ越してきた。

バランス釜はおれのそんな想いを知るよしも無く、やっぱり一向に着火する気配はない。
もう身体もブルブルと震えだしてきたので、おれはプライドを捨ててYouTubeでこのバランス釜の給湯器の着火の仕方を調べることにした。
結論からいうと、もう一つのつまみを「口火」に合わせ押し込みながら、レバーを回さなければいけなかったのだ。

それでも簡単には着いてくれずに、さらに数分後やっと着火をすることが出来た。
こうしておれはやっとぬるいシャワーを浴びることが出来た。




そろそろ寝ようと思い布団に入ったおれは、昼間のおじさんのことを思い出していた。
その日に引っ越してきた相手に、このアパートが”曰く付き”であることを伝えて来るとは何てデリカシーのない人間なのだろう。

そもそも教えてもらう義理自体ないのだが、それでもせめて半年後か一年後に教えて欲しかった。

それに他殺じゃなくて自殺だったら一体何が”大丈夫だ”というのだろう。
確かに言われて見れば、なんとなく他殺よりは良い気もしなくはないが、1ミリも大丈夫じゃない。

おじさんの独自の謎理論にもだんだん腹が立ってくる。

おれはベッドに入ったまま、「怖いものみたさ」的な気持ちでGoogleで「アパート名+事故物件」で検索をしてみた。
軽く調べてみただけで、なんと3名以上の人がこの建物で亡くなっていることが分かった。

せめて1人であって欲しかった。
どれも自分の部屋ではなかったことがせめてもの救いではあったが、これ以上詳しく調べて”何か新しい情報”が入って来るのも嫌だったのでおれはそっとスマホを枕の下に隠した。

年齢的にはもう大人であったが、怖くなってきてその日は深夜を過ぎてもなかなか寝付けなかった。




次の日、朝起きるとおれは思いっきり風邪を引いていた。

身体を冷やした上にぬるいシャワーと寝不足でやられたのだ。
いや、あるいは例の“曰く”のせいかもしれない。

おれは鼻を垂らしながら、「負けるもんか」と誓った。

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