埼玉を横断する②
こんにちわ!第2弾です。
埼玉を横断する鉄道は3つあります。前回は北を横断する「秩父鉄道」の旅を紹介しました。ちょっとは秩鉄の駅・土地の魅力が伝わりましたでしょうか。北埼玉は山岳地帯、荒川周辺。熊谷、長瀞、秩父、そしてその奥地。
今回は、埼玉のど真ん中。東武アーバンパークラインこと「東武野田線」と「川越線」に乗り換えて東西を横断、そう、ついに。
みなさんご存知の「春日部」、「大宮」「川越」など主要都市がやってきます!今回は、せっかく東武と西武まで横断しますから、埼玉の東と西の生活や自然の「民俗的大きな違い」にも目を向けていきたいと思います。あと、アニメ聖地もありますよ!
京葉線または総武線を用い、東武野田線の東端にある「船橋」から。
まだ江戸川の向こう、千葉県を南から縦断していますので、あまり詳しく描きません。
鎌ヶ谷、柏、流山を通り、野田市からだんだんと江戸川と中川を超えて埼玉に入る心の準備をします。
以前、千葉県を描いた記事「くるくる、くるり」でチーバくんの体を駆け巡りましたが、そうだね、チーバ君の鼻先を切断、もとい横断します。
心の準備なんて大袈裟な感じもするかもしれませんが、以前東武エリアに住んでいた僕にとり懐かしの春日部。野田には野田線で来たことも自転車でうろついたこともあり、川間で江戸川を越えはじめ、藤の牛島で実は中川を突っ切って古利根川というどうせ中川に合流する川を横断し。
いよいよ、春日部に入ります。
春日部
さて、春日部と言うとどういうイメージでしょうか。
ここで問題です。春日部の特産物を当てましょう。
①せんべい
②桐ダンス
③さつまいも
④雛人形
答えは後程、他の名物もどこなのか描いていきます。
さあ、春日部。お馴染み国民的アニメ「クレヨンしんちゃん」にて海外にも有名になっている町らしいですが、それ以外にどんな魅力があるのだろう。
正直、僕も昔は①電車乗り換えの町、②働くにしてもやはりちょっと大きな店舗がある春日部、③春日部と南越谷(新越谷)がやはり遊ぶにしても盛り場、くらいなイメージでした。
あらためて、春日部駅に到着! ただいま大規模改修工事中でした!!
大宮の「埼玉県歴史と民俗の博物館」にて。
もとは粕壁と言われた春日部を宿場町として発展させた日光街道。徳川家康の墓がある日光東照宮に通じる道で、宇都宮で東北地方とつながる奥州街道に分岐します。
ちなみに、さっきの春日部名物クイズ、日光東照宮と繋がるのがヒントです。職人の技、とでも言いましょうか。
いわゆる東部地域の歴史と産業を述べる。
地形としては西武は関東山地北部・秩父山地とその端々の北武蔵野の台地。中央部は荒川が通り削られた荒川低地を超えたあたりに大宮台地。
そしてここ、加須低地の南にある広い「中川低地」。つまり、埼玉は西側が分厚い山地で、東側は河川が作った低地・平地が広がる。東京の、以前描いた江東デルタと似た構造ですね。
川も大きなもので江戸川・中川、または中川に合流する古利根川に元荒川などが入り乱れる。
したがって昔から稲作がさかんでおり、東部地区では春日部は最大の米穀生産地のようだ。
春日部の地名は大きな謎に包まれており、安閑天皇の皇后・春日山田皇女らの私有民(部民)がいたとか、水の浸った土地「カス」や川のほとり「カワベ」など地名を表す語句からついた、とか。
平安時代に紀氏の一族が土着し地名から「春日部氏」を名乗り、やがて戦国時代から江戸時代に酒屋の酒粕と蔵の荒壁から「粕壁」という字があてられたとか。明治時代に粕壁町となり、昭和時代に合併により春日部市となった。
日光街道においては、千住・草加・越ケ谷にならぶ人口を持つ宿場町となり、道幅5間(9m)ほどの道路沿いに家々が10町余り(約1.1km)にわたって並んでいた。将軍が日光東照宮を参拝するのに使うのは後述する岩槻を通る日光御成道なのだが、日光街道は大名や幕府役人や公家・高僧らの宿が建ち並び、荷物を溜め運ぶ物流拠点でもあり。さらに旅人のために毎月4と9がつく日に米穀問屋などが近隣の農村の物資を集めて定期市も開かれるなど、幕末には人口3779人戸数817戸多くの商店や宿屋や飲食店がひしめき合っていた。
さて、春日部名物の答え合わせです。
粕壁は日光東照宮を作るために集まった職人が、周辺でとれる木材を利用し、指物や長持ちなど旅人が荷物を入れる箱などを作った産業ではじまります。
そう、桐箪笥(タンス)などの桐細工ですね。
もちろん、これは春日部の伝統的な産業の1つ。ほかにも、川沿いの街道の町などは、江戸の庶民に向けての日用品を生産する仕事をする人が増えていく。たとえば、川口とかは地元の川からとれる良い土で鋳物の型をつくり発達した川口鋳物。ふじみ野などでの箒(ほうき)づくり。もっと庶民的なものを言うと、農家がつくる藁(わら)細工、筵(むしろ)織り、俵編み、などなど。これら職人らが専門的につくったものを船に乗せて運び、江戸からは紙やら米やら酒やら肥料やら、日常に使うものを求めていた。
以下は再び大宮の歴史と民俗の博物館だが、埼玉は各地に竹林から原料を得た竹細工の生産もさかんだった。
春日部は実は、麦わら帽子が国内2大産地で有名である。
春日部駅にある地元産業の展示。桐箱、羽子板、人形細工。
食としては、加須や熊谷でも見られる「うどん」。やはり米は年貢や販売用であり、庶民は米に大麦を入れて食べていたり、小麦を収穫しては、粉にひき、練って切ってゆでて、手間をかけて仕込んだうどんをみんなで宴などおめでたいときに食べていた。そうだね、武蔵野うどん!埼玉はうどん消費量日本一!
また、内陸の埼玉県の漁獲としては、やはり川魚。
有名なのは、春日部南東にある(越谷の東)吉川市のなまず料理。
これも、春日部だけではありませんが、藍染め。
この周辺は綿の生産もさかんで、江戸時代はおもに藍による染色が主流だった。今でいうジーンズのインディコブルーですね。浮世絵でも青色が多いように、江戸時代は青が主流の時代だったのでしょうか。
今の春日部のスポットと言えば、春日部湯元温泉。アルカリ性単純温泉で刺激が低めだが、脳卒中や神経痛など様々な効能がある温泉。駅前のスーパーホテルにも天然温泉があるようです。
そして、イオンモールに「サトーココノカドー」ことイトーヨーカドーでしょうか。
クレヨンしんちゃんの面影がたくさん見れそうな気がします(行ってなくてすいません)。
詳しくは、駅前の「春日部情報発信館 ぷらっとかすかべ」へ行ってみましょう。クレしんや春日部の特産物やおいしいもの、観光名所などがご案内されるはずです。
しかし、春日部は洪水の被害も大きく、中川や江戸川など河川沿いの埼玉・東京(江東デルタなど)では、キティ台風やカスリーン台風などで大きな損害を受けてきた過去があった。
そんな春日部を通過して、東武野田線、次の岩槻や大宮に向かいます。
さて、またクイズ。埼玉県の都道府県庁所在都市はどこかというと、
そうだね、「さいたま市」だね。
では、次の中で「さいたま市」にふくまれない埼玉県の都市は?
①岩槻
②大宮
③浦和
④川口
答えは、また後程!
岩槻
元荒川を越えると岩槻に入る。
東武民だった僕は、草加から春日部までは馴染み深いが、岩槻はあまり行ったことなかった。
岩槻は、将軍徳川家康や秀忠が鷹狩りに来た名残で、今でも鷹狩り行列のイベントがありますが、みなさんにとって岩槻ってどんなところでしょうか、ご存知でした?
古くは、太田道灌により江戸城と川越城とともに築城されたと言われる岩槻城(のち、後北条家や豊臣家に奪取され、江戸幕府の譜代大名・高力氏の居城へ)。そして、先ほどの千住・草加・越ケ谷・粕壁を通る日光街道のバイパス道として日光御成道(川口・鳩ケ谷・大門・岩槻を経て幸手にて日光街道と合流)の宿場町、とくに岩槻城は将軍が宿泊する場所として別格だった。
岩槻の産業は、春日部と同様に日光東照宮の大工らが、名水が得られるということで岩槻に滞在し、やがて雛人形をつくりはじめたことから「人形の町」として発達した。
特に、アニメとしても大ヒットし、これから2期も放映される人気漫画アニメ「この着せ替え人形(ビスクドール)は恋をする」により、岩槻の雛人形職人の高校生を通して、「コスプレと雛人形づくり」に注目が浴びられており、岩槻もアニメの聖地としてにぎわいを見せている。
さあ、岩槻の歴史と雛人形、そして「着せ恋」について巡りましょう。
これが日光御成道、岩槻郷土資料館へ通じる道です。
そろそろ、岩槻人形博物館を目指すため、御成道にまた出ます。
2020年にオープンした日本初の人形の公共博物館です。
春日部と同じく、近隣に桐が生えてきたこと、これを東照宮の木材加工職人たちが、桐粉にし、何よりも胡粉(絵具)を溶かしてさらに発色もよいきれいな水が得られたことから、うっとりするようなキレイな雛人形細工のきっかけとなった。以後、岩槻は東玉をはじめとする500余りの人形細工工房が集中し、日本最大の人形の産地となる。
さらに、埼玉はもともと江戸へ作物を出荷するなどの農村地帯であり。豊作や養蚕の祈願として、多くの人形がつくられる土台があった。「なぜ人形!?」そこには自然の立地条件だけでなく、人々の古来の習慣(信仰)と、「より良い人形を作ったらどうだろう」という向上心により育まれた産業だと思わされる。
原始の頃は、土偶に埴輪。人は個人の趣味や生き方に対し、または様々な行事やイベントに対し、人形をつくり、またはそれを手に入れて「この表情ヤバイ!」「この造形、エモすぎる!!」と愛したことでしょう。
偶々の企画展だったかもしれませんが、稀有な岩槻の人形博物館、人形の町にて人形とは何かを知った思いでした。
後ろ髪を引かれる思いですが、東武野田線に戻り大宮へ向かいます。
大宮
東武アーバンパークラインこと東武野田線を撮影してませんでしたね。
こんな車両です。終点の大宮駅にて。
さて、大宮駅の滞在はたったの数十分でしたが、以前撮った大宮の「埼玉県立歴史と民俗の博物館」の資料をもとに大宮の歴史を描いていきます。
さいたま市大宮区となったが、大宮は埼玉県の中心部。だがしかし、埼玉県の県庁所在地は以前は浦和だった。浦和は駅が、浦和、北浦和、南浦和、東浦和、西浦和、武蔵浦和に中浦和に浦和美園と分散されており、確かに県庁は浦和にあれど、大宮駅が新幹線も通る交通の中枢地区として、企業金融・商業施設や飲食店などの経済都市として発展した。大宮区の駅も、大宮駅にさいたま新都心駅、鉄道博物館駅でコンパクトにまとまっている。
そのため、さいたま市は浦和・与野・大宮、さらには岩槻まで合併し、やがてはそのブラックホールは蕨や川口に戸田まで飲み込むのではないかと思いきや、さいたま市は2005年まではこれらの都市を飲み込んだ程度で留まっている。
もとは見沼の水神を祀った氷川神社の門前町であり、江戸時代には中山道の宿場町として板橋・蕨・浦和や上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄とともに発達する。
これまで貼った資料が多いが、埼玉県の主要産業も展示されている。
行田の足袋、春日部の桐ダンス、岩槻の雛人形、川口の鋳物、我が近所の入間などの武州ダルマ(越谷もダルマが有名だが)などがある。
川の町、街道の町である「埼玉」は、水をもとにした紙漉き、藍染め、酒造りが発達。紙漉きと言えば、小川町の細川和紙が世界無形遺産に登録されている。
さあ、大宮から川越と高麗川を目指します。川越線、今は埼京線とも直通のため池袋や新宿から大崎にも伸びていますね。
しかし、あいにく電車の遅れやそもそもこの旅のスタート・東武野田線の船橋に着いたときが14時あたり。日が暮れはじめています。
で、結局川越をスルーして高麗川に着いた時は真っ暗で。
この日はここで終了、ちゃんちゃん、でした。
川越
しかし、諦めが悪い僕はリベンジ戦。今度は地元から高麗川と川越の散策に集中しようとします。
しかし、出不精の僕、またもやウダウダ二度寝などをし、出たのは15時あたりです。
以前の「大宮から川越」を描くため、本当は高麗川から川越ですが、まずは川越を描いていきます。さっそく川越駅、「小江戸」と言われる歴史的町並みの景観を意識していますね。トイレにもそれが現れるなんて!
川越はもともと武蔵七党(武蔵武士団)の秩父党系の河越氏の領地だったが、滅亡後は戦国時代に太田道灌が河越城をつくる。
河越という地は、武蔵野台地の北にそびえ、下方の低地には多くの川が入り乱れていた交通の要衝から名付けられたのだろう。西部の山岳地帯から台地地帯を経て、荒川低地に向かい、東は大宮台地をのぞむ場所。岩槻城とともに、川がつくる低地を眺め見える小高い丘。
やがて河越合戦を経て河越城は北条氏に支配されるも、豊臣と徳川に関東は従い、徳川治世の江戸時代には、酒井重忠など幕府の要職に就いた親藩・譜代大名が城主となる。
特に、島原の乱を平定した松平信綱が、家臣の川越藩士安松金右衛門に命じてつくらせた玉川上水に野火止用水、そして江戸と川越を結び物流を支えることとなった新河岸川の開発を進めた。
5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けた柳沢吉保が川越藩主となると、三富新田を開拓しはじめ、サツマイモなどの生産が大きく伸びる。
川越は、新河岸川の舟運と川越街道(板橋から白子(和光市)と膝折(朝霞市)と大和田(新座市)と大井の宿場町を経て川越へ至る)による宿場と城下町で発達し「小江戸」と言われるようになった。
そんな川越のスポットを、アニメ「月がきれい」の聖地巡礼をもとにしてご案内いたします。
「着せ恋」が高校生のボーイミーツガール青春もの。「クレしん」が幼稚園でのボーイミーツガール?野原家と春日部防衛隊のコメディ。
今度は川越の中学生のボーイミーツガールもの。小説家志望の小太郎くんと陸上部の茜ちゃんが同じクラスになったのをきっかけに、だんだんと距離を縮めていくラブロマンスです。
ああ、月が見えない… 月の明かり 今は一人 さまようだけ…
いつも買い物している川越市産業観光館はもう閉店でしたが、酒や発酵食品などの店は開いてました。ワインみたいな日本酒などもあり、秩父の無濾過、大好きな日高の弓削多醤油、そして本みりん(飲用でも可)を購入。
高麗川
川越線にて終着の高麗川を目指します。って言っても、八高線と直通だから八王子まで電車は続くけど。
高麗川駅。川越線の高麗川駅が日高市役所に近く、高麗川の観光名所「巾着田」は西武秩父線の高麗駅の方が近い。
川越に向かうため、巾着田には行かず、駅前の曼殊沙華で満足です。
いや、巾着田に行ったことがない読者様は満足いかないでしょうね。
ですので、去年の巾着田と高麗郷民俗資料館をお届けいたします。
まず、新宿のアニメイト。リコリスリコイル展があり、アニメ「リコリスリコイル」というガンアクションのグッズも買いに行きます。
さて、春日部と大きな違いは何なのでしょうか。まずはやはり、山奥の暮らしと産業。やはり秩父と同じになるのかなって思います。
高麗という朝鮮っぽい名前の由来は、716年に関東など7か国にいた高麗人(朝鮮系渡来人)1799人をこの日高と飯能の1部に集め、高麗郡を置いたことが由来のよう。初代郡司の高麗若光は高句麗の王の子のようで、おそらく白村江の戦いやら新羅朝鮮統一などと年代が近いことから、この辺りの朝鮮半島動乱から移ってきた人々が集められたのだろう。
おもに、農業は稲作と畑作と茶に養蚕が中心。
茶は、どこの家でも生垣がわりに茶栽培をしていたようで、特に狭山茶が多い入間が近くにあったこともあり、茶栽培はより広まったのだろう。ルーツは河越茶であり、川越藩の武蔵野台地新田開発事業により多く栽培された。三富新田も最初はサツマイモばかりだったが、のちに茶や葉物や花卉栽培などがさかんになったようだ。あたかも鹿児島(サツマイモ1位、茶も全国2位)のような土地条件だな。
「色は静岡 香は宇治よ 味は狭山でとどめさす♪」の茶摘み歌があるよう、静岡茶と宇治茶(京都)にならぶ日本三大茶である。
養蚕は、秩父や飯能、または村山から八王子までの多摩地域だけでなく、多摩丘陵川の神奈川でも活発に行われていた。やがて蚕の繭や生糸は、明治時代以降は日本最大の輸出品となっていく。
高麗川や小畔川が流れる高麗(日高)では稲作も行われていたが、やはり台地上で水もちが悪いためか、戦前までは種もみを直播する「摘田」という方法で細々と行われていたようだ。
また、うどなど近郊農業のほか、大麦や小麦など畑作が中心だったよう。
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