府中郷土の森博物館
郷土博物館めぐり、23区から近郊都市、埼玉まで。見学しまくってますが、なかなか記事に書けてません。
ただの博物館レポートでなく、いろんなテーマに絡めて書こうと思い、ダムに沈んだ村や水の歴史やお茶の歴史やらの関連で書こうとしています。
けど、博物館の写真(許可あり)や話が溜まり過ぎたので、ここらでちょいと放出します。
今回は府中郷土の森博物館。はあ、楽しかった。平日木曜で観客は僕だけで貸切状態でしたが。(来館した人がオハジキを籠に入れますが、僕だけ? あとで子連れ家族が来ましたが)
(博物館レポートの例はこちらです)
くらやみ祭り
まず、圧倒されたのは「くらやみ祭り」の展示。
くらやみ祭りは、司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」の冒頭で土方歳三が女と出会いに行ってました。
くらやみ祭りの展示は数分のシアターもあり。
ゴールデンウィーク中に何日も行う祭りで、御輿や太鼓の迫力がすごい。江戸時代は周辺から見物客で宿がごった返すようだ。
土方歳三のように、昔は祭りという大きなハレのイベントで、人々は熱狂と同時に男女も出会い、または普段から気になる同士が接近し。
ちぎる、と。
一緒に神輿を担いだり、良きあの人が神輿で晴れ舞台。
これは昔からいろんな村の祭りもそんなようで、盆踊りも集団合コンやお見合いパーティーの意味合いもあったと。パーリナイトフィーバーな感じ?
夜中はその辺の露地にて愛を交わす。もしくは袖をひっぱりナンパする。
今より出会いのチャンスがあったかもですね。
ほとんど独身男性の江戸からも出会いを求めて来てたのかも?
さて、今のくらやみ祭りはそんな破廉恥、いや男女の大事な営み、まあつまり奥にある色気。
それはもちろん見ていて感じないもので。
とにかく祭りの荘厳さ、祭りを楽しもう、受け継ごう、そんな迫力が見てとれ、もちろん僕はそんな邪な感覚はよぎるだけでひっこみました。
一部屋でくらやみ祭りを楽しむ感じ。
それを抜けると僕の好物、歴史と民俗の展示。
府中の町と国府
日野と国立の郷土資料館で、この辺りは多摩川が削って作った段丘であり、府中南の是政あたりや西の日野あたりの多摩川沿いは水田。
府中や国分寺と国立と立川の段丘の上は水に乏しく農業がきびしい野菜地帯。
日野郷土資料館の学芸員さんが「嫁にいくなら立川ではなく米で豊かな日野へ行け」て言葉を教えてくれたが、土方歳三も日野の豪農の子、剣術から天下国家を語る生活の余裕があり新撰組結成にいたる。府中の風土も「野菜や果樹に南部の稲」と結び付いたのだろう。
何より、府中のもとは、古代律令制(天皇の全国支配)における、国府の設立だ。
大和(奈良)の政権から国司(今の知事)が送られ、武蔵国(東京埼玉神奈川の川崎横浜)の政治の中心地へ。
役所や市などが築かれ、大都市として栄える。
これ、何分も見入ってしまった。
国府の世界にタイムとリップできる。
さらにシアター、防人に選ばれた男の物語。
「鎌倉殿の13人」よろしく、関東の東人は武勇にあふれる人ばかり。それもあり、九州は大宰府を守る防人は関東から選ばれた。
役所が集まる国衙は、今の大国魂神社。中央線の府中本町駅近く、京王線の府中駅近く、府中へ行くものは誰でも訪れるはず。府中の鎮守。
大都市といえど、今と比べまだ人口少なく未開。人家もまばらで、基本近所まで遠いのでしょう。日々辺鄙なところで耕作して暮らす庶民、こんな店がならび便利な道具などを売る声が響く町は素敵に思えたのでしょう。
上が北のアングル。今と比べてしまう。
西方面が日野とか、北が国分寺、東が調布、多摩川南が稲城に読売ランド、その先に神奈川県の川崎。
生活のライフライン、井戸は段丘の台地上だと深く掘る。
水を汲みながら、人々は遠いご近所と出会い、世間話を楽しみ情報交換したことでしょう。
国府から府中、武士の時代へ
武士の時代に移り変わると、府中は国府から、交通や自然の要所として、戦場となる。
有名なのは、鎌倉幕府を滅ぼした、新田義貞公の分倍河原の戦い。
群馬の新田から鎌倉街道(本来、関東武士は源氏など鎌倉幕府と繋がりが強いものが配置され、この道も源新田義貞などが鎌倉を守るため作られた)を、義貞公は飯能方面に下り、初めて幕府軍と入間川をはさみ衝突した「小手指原の戦い」。わが地元の武将の加治氏と、北条氏の内管領の長崎氏が戦うが破れ、東村山の久米川でも破れ、南下。
そしてここの分倍河原。ここを抜け、多摩川を渡ると、一気に鎌倉にチェックメイト。
江戸時代の府中宿から昭和まで
話は飛び(後北条ら戦国大名の展示もあったが)、江戸時代になると、新宿から伸びた五街道のひとつの甲州街道の宿場町「府中宿」に。
もうね、この博物館の模型はものすごく当時を感じられ。
旅籠だけでなく茶屋も多く、料理としては多摩川の鮎料理、鮎の粕漬けとか。
また、マクワウリなど青果も名物。
甲州街道は参勤交代といえど、高遠や飯田・高島など信濃3潘しか利用せず、閑静だったが、いろんな文化人などが訪れ、食や酒などを楽しみ交流していただろう。
僕の関心は、当時「大山詣に行きましょう!」を書いていたため、江戸時代の風呂やトイレや髪結い床(床屋)事情を調べていた。
「くらやみ祭りのときは旅籠(旅館)がごった返し、一部屋に何十人、風呂は汚れで濁っていた」と聞いた。
風呂はなかなか沸かすのに、燃料が少ない当時は銭湯ばかりと聞いていたため、いろいろ質問。
専門の学芸員さんがいなかったのだが、髪結い床や湯屋(銭湯)も多かったようだ。
昭和初期まで、府中本町駅の側は水田ばかり!
道路の舗装も今から50年くらいに進んだし、家や人もこの数年で大きく変化するものだ。
写真集に、模型に、子連れの人々も楽しめる展示。客が少ないのは駅から歩いて20~30分はかかるからか。
近くには地元の野菜や食材を売っている、食堂つきの店も!
博物館の入館料は300円。敷地内は広い庭、そしてプラネタリウムも。
府中の町に浸れたような気がします。もうちょっと現在の府中も歩いてみたいな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?