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遊郭に、寄ってく?(後編。旅写真多めです!)

どうも、8kgの減量に成功したデブです!!

人生の浮浪者ですが、趣味も「町歩き」というか「徘徊」というか、フラッフラ、フラッフラしてます。御陰様でこの夏の暑い最中に歩き回った成果ですが、皆様はお体は御無事でしょうか。

今回の目的は、前半にも書きましたが「遊郭跡めぐり」です!
エアコンもなかった江戸~戦前の遊郭は、現代の温暖化やコンクリ舗装による熱帯夜ではなかったといえど、暑い中に男女汗まみれで組んずほぐれず、なのでしょうか。ああ、艶っぽい。
夏は女性の肌も露になり、灼熱の日光が肌を焼かんばかりで輝きます。
一方でこの減量中のデブ!!ああ、穢らわしい。
想像するのも気持ち悪いデブの姿を差し込んだんで、マンガですが美しい花魁キャラをお楽しみください!

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 吉原行きと別の日になるが、南千住・三ノ輪駅1分の浄閑寺。遊女たちの「投げ込み寺」といわれ、吉原の遊女の多くが葬られた。
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」といわれ、「若紫」という遊女の墓もある。
 若紫は明治時代初期の遊女で、源氏物語のヒロインから源氏名が名づけられたように、江戸時代の芸事にも通じて絶世の人気を博したとか。22歳の若さで身請け先も決まり、しかもかねてから交際の恋人と。そんな遊女の中でも幸せの絶頂で、身請けの5日前に他の遊女と無理心中しようとした男に喉を刺され血の海の中で1輪の花として朽ち果てる。
 また、ここの新比翼塚(比翼塚とは、仲のいい男女や心中した男女など、恋人を祀る塚)は明治時代、西南戦争を戦った谷豊栄・警部補と、盛紫(元・吉原の雲井、のち品川楼へ移る)を祀っている。妻子がいるのも関わらず、盛紫にはまり仕事もせず登楼し続けた谷はクビかつ家から勘当され、さらに慈悲で内務省勤務となったのに公金70円を横領し再度クビ。
返済に追いつめられ、盛紫と同意のうえ品川楼で心中したクズ。
しかし、政府高官と遊女の悲恋ということで芝居にもなり、ファンも増え、新比翼塚が建てられた。
(他に、目黒瀧泉寺の比翼塚で、17世紀ごろ殺人を犯し鳥取藩から逃げ、吉原の小紫と昵懇となり130人もの強盗殺人を犯し、最期に目黒不動尊・瀧泉寺近くで廃寺となった東昌寺の虚無僧となり鳥取に戻り、すでに父母の親の死に目にも会えなかったことを知り自首して鈴ヶ森刑場で25歳にて刑死した平井権八と、東昌寺の彼の墓前で自害した小紫を祀ったものがある。こんなクズな平井は鶴屋南北により歌舞伎となり、多くのファンが悲恋として参拝している。確かに男はクズ、女性は尊いものだ。この平井をモデルにした歌舞伎での白井権八による「首洗い井戸」もこの浄閑寺にあります。)

 遊女たちの人生に深い思い入れのある永井荷風は浄閑寺の新比翼塚の参拝に興味を持ち、たびたび参拝している。その荷風の筆塚が、遊女たちを祀る「新吉原総霊塔」の近くに。さらに近くに山谷のドヤ街で働き倒れていった肉体労働者たちを祀る「ひまわり地蔵」も。
 筆塚には荷風の詩「震災」がある。明治の多くの人が倒れ、花も木も枯れ、自分も朽ちていく、そして「今の世のわかき人々、我にな語りそ今の世と、また来む時代の藝(芸)術を」と書かれている。僕は呆然と、いろいろ物を思い、たたずんでいた。

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 後日。上野から根津、そして南千住の山谷から吉原へ、「遊郭跡めぐり」に乗り出す。
まさか、歩数2万4223歩、距離にして18.67kmの大ダイエットとなろうとは。これ、高尾山~影信山登山(帰りに小原宿や相模湖にも寄り19km)に匹敵するとは思わなんだ。だって途中で浅草へ迷い込むし。
方向音痴な僕は、迷うことも楽しんでいるからタチが悪い。が、さすがに浅草から帰る際は動けなくなり、ダイエットで食事もとってなかったから、ソバというカロリーのかたまりを食べた。めっちゃうまいゾ、うまいうまい!!(ちなみに、もうそろそろダイエットは目標達成のため辞めようと思うが、リバウンドが怖い。昨日ついにパンを食べてしまった…)

最初に上野の民俗博物館へ。お宝の宝庫!?だ!!!!(撮影は許可の上で行いました) 古いものが好きな僕にとってヒャッハーです。
しかし、女性組、カップル、家族連れにとっては、「何このデブ」感だったでしょう。本当にこんな醜い物体が動き回っててすいません。

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そこから不忍池をまわり、根津に向かう。
ところで、吉原は幕府公認の遊郭街であるが、私娼の岡場所をふくめると東京にはこれらがある「花街」がとても多い。女性が舞踊や三味線など芸事を旅館や料亭などでコンパニオンとして行う店もある多数ある。辰巳芸者が多い深川や、官庁街である赤坂や新橋。また、新宿の神楽坂ですね。
吉原はもともと日本橋にあった。戦国時代が終わり仕事を失った男どもが江戸の大工事に流入し、遊女屋が点在するようになり、江戸に遊女屋を入れたくない幕府と、営業を独占したい遊女屋の利害が一致し、吉原を花街にすることに。幕府は営業税がとれ、吉原は競争で圧倒的優位に立てウィンウィンな関係となった。日本橋は海岸に近く「葦(ヨシ)」「葦(アシ)」が茂っていたことから、縁起の良いよう「吉原(ヨシワラ)」となった。のちに明暦の大火の後、今の浅草寺裏・南千住に接する台東区日本堤に新吉原として移転した。敷地面積2万坪、最盛期には数千人の遊女がおり、日本橋や芝居町に並ぶ江戸最大の繁華街となった。

根津は私娼の多い岡場所で、江戸時代前期に根津権現(神社)を建築するための大工たちの飲み屋から始まる。しかし明治時代、東京大学が近くにできることで、官僚や学者などになる日本を支える学生たちが入り浸るということで洲崎(台東区東陽町)に移転。小説家の坪内逍遥の妻も根津遊郭の遊女・花紫だ。

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(根津神社内に遊女たちが参拝した「乙女稲荷」)

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根津はいわゆる「谷根千」の1つで、古い家屋が立ち並ぶ落ち着いた良い景色の町だ。

さて、ここから上野に戻り、電車で南千住へ向かう。
南千住から山谷のドヤ街を目指す。徒歩、つらいけど楽しい!??暑いしさぞ痩せるだろう!
ちょっと道を間違え遠回り、「あしたのジョー」はあまり読んだことないが、その聖地である「泪橋」へ。昔から貧しい町で有名だったのだろう。
この橋を超えるとそこに入るのだが、橋はなく、道路とコンビニなど。

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そして、山谷のドヤ街に集まる貧しい人々の憩いの場「山谷いろは商店街」が、なんとつぶれておった。必死に探しても無いから、調べたら2017年にアーケードが撤去されたと。
アーケードのいたるところに「あしたのジョー」の幟(のぼり)、そしてやたら安い食べ物や飲み物、なにやら赤ら顔の人々や居酒屋の繁盛ぶり。山谷ならではのスポットなのに残念だった。こうやって繁華街もどんどん消滅していき、「町」は更新されていく。「町歩き」好きとしては、思わず路上にひざまづき神に祈りたい心境だった。

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山谷は江戸から奥州街道の最初の宿場町の千住に近く、旅人が安く泊められる「木賃宿」が集まっていたことから、簡易宿泊所が多い地域となり、多くの貧しい労働者やホームレスたちが集まっていた。しかし近年は複数人がまとめて泊められるドミトリーも多いせいか、外国人の宿泊が専門になりつつある。先述の浄閑寺だけでなく、江戸の街道端の宿場町ということから三大刑場の一つである「小塚原刑場」があり、死刑囚(道端に捨てられた)や無縁仏となった人々を祀る「首切り地蔵」や回向院(吉田松陰や橋本左内、ねずみ小僧次郎吉など国賊犯の墓)もある。また、腑分けもしていたので杉田玄白の解体新書を生むようになったり、斬首刑による遺体を使った刀の試し斬りも行われた。松陰先生の首を斬った、「日本のムッシュ・ド・パリ=シャルルサンソン」こと死刑執行人の山田浅右衛門とも関係がありそうだ。
要するに、「江戸のはずれ」なのだ。

ここを抜けると吉原へ。山谷と同じ「日本堤」だから、江戸の当時も山谷には吉原へ馬を引く労働をしていた、吉原にて働いた人々もいたことだろう。

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今はソープランド街になってますが、遊郭の跡のようなものも見れます。

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奥にある吉原神社で、吉原の往時を思い浮かべられました。

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吉原神社を出てしばらくにある吉原弁財天。関東大震災にて迫りくる火災、包囲された吉原遊郭の壁を乗り越え池に飛び込み溺死する人が多数。490人の死者らしい。当時の記事はその御遺体の写真を載せており、展示されてます。遊女達に強く冥福を祈らざるを得ない感じに。

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そのまま足は浅草へ。鬼滅の刃とコラボしていた六区。
また、大正時代に日本最長の建築物であったが関東大震災で崩壊した凌雲閣の跡もあり。浅草寺を通り、上野の民俗博物館で見た古写真との違いや今の繁栄振りに、まるで初めて浅草に来た炭治朗くんなみに驚く。
浅草駅まわりをグルグル、隅田川でスカイツリーやアサヒビール本社の「金のウ○コ」なども見る。

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嗚呼、この町も、僕がいない100年後はどうなるのだろう。



※追記
風俗街で有名だった、埼玉県の西川口。川口と言えば鋳物産業や和紙の生産がさかんで、荒川の舟運や日光街道の宿場もあり栄えていたが、一昔前は「西川口流」なる言葉が全国の風俗界にも響いていた。200もの風俗店がならんでいたらしく、さらに川口オートレース場への無料バスが出ておりギャンブラーが集う、まさに埼玉の歌舞伎町のようだった。しかし2000年代初頭の取締りにより警察が違法風俗店をつぶしていき閑散化。今やチャイナタウン化しているらしい。

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これが良いか悪いかはわからない。西川口の風俗店の多くは違法風俗店らしいし、西川口は本格的中華料理店やウィグル料理、イタリア料理などを楽しめ、さらに落ち着いたとはいえ生活には便利な店がならんでいる。
しかし僕はあきらかに、中国資本の店や土地の買収が進んでいる現状は警戒しないといけないと思う。北海道の森林や町、東京の企業などの買収がどんどん進み、日本経済が中国に乗っ取られている話をよく聞いている。
コロナ禍において、東京新宿歌舞伎町の飲食店がどんどん潰れ中国企業の買収が進んでいるらしい。

さて、我が故郷の長崎も、遊郭跡といえば丸山が有名だが、今や閑散としている漁業町となっている樺島、南部と中央の繁華街を結ぶ戸町にも遊郭跡があった。以前僕は戸町と丸山は訪れたが、樺島の遊郭跡は見出せてない。
僕の住む長崎南部は以前よりも寂れている。「隣町は一山超えて」と交通が不便であるし、若者のほとんどが県外に向かうため仕方ないが、100年後はどうなるか心配なものである。


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