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マルクス主義は保守主義と合う

資本の動かし方にはその効率を上げるためにひとところへ集中させる政策と赤字を承知で投資の意味を込めて国土の隅々まで分散分布させる政策とが考えられる。
数学的な言い方をするならば前者が収束資本主義であり後者が分散資本主義ということになる。
実際には前者は新保守主義(ネオコン)と呼ばれる独占資本主義であり、後者は共産主義に近い。
資本の共産を目指すマルクス主義は分散資本主義の一形態と言えよう。
通称資本主義というと前者または古典的放任主義、市場原理任せという感じである。
これを資本の動向をベクトルとして捉え解析的に考えれば収束か分散かということになるだろう。
政策的に資本を動かすのが現代の資本主義ならば、収束資本主義か分散資本主義かのどちらの傾向が主体なのかで政策の趣向が見てとれると思う。
例えば日本では田中内閣の日本列島改造政策は分散資本主義だったようだし、その後の国鉄民営化路線は収束資本主義だったようだ。
収束資本主義は資本の寡占、独占を促す。その方がリターンが大きい。儲かる方向へとカネは移動してゆく。そして少数の大資本家に集中してゆく。
こうなれば地方の人口密度が小さいところは赤字だから資本は引き上げてゆく。
よって地方はどんどん過疎化してゆき市場は地方から消えてゆく。一次産業は儲からないから、後の継ぎ手はなく食糧自給率は加速して下がり、少子高齢化が進む。
都市部には人が集中するが都会のマンションでは子育ては高コストであり大変なことであるから少子高齢化はさらに助長される。
都市部では第三次産業者がほとんどとなり、実生産は減少し、バブル(不労所得)を狙う者が増えてしまう。
これは高所得であっても出費も多いから、結局余裕のない暮らしとなり経済は決して安定しない。
国民の暮らしの余裕は所得から必須の出費を差し引いた値を指標としてみるべきであって、一人当たりGDPは生産、豊かさの指標ではない。
一方マルクス主義は未だ19世紀の原典主義のようで、研究がアップデートしている感はない。
学問は事実のみに基づき分析研究するものである。現実の世の中が変われば事実が変わる。事実に根ざしていない学問など要らない。それは学問史という歴史家の興味でしかない。
我々は今の現実世界を分析し続けてマルクス主義も更新していくべきなのだ。
私はマルクス主義は分散資本主義の一形態だと考えている。
地方の村にも適材適所、資本を行き渡らせて農産を維持しなければならない。
要は運用の仕方だ。
経済思考と実際の政治政策は別ものだ。
経済学は学問だから研究し続けるもの。
政治は実際に人々を統治するもの。
政治に学問の成果を利用してもらえばよい。
だからマルクス主義も利用できるところを利用すればよい。
学問は進化すべきものであり100年以上も停滞させるものではない。数学も物理学もそうだ。
私はマルクス主義は保守派と相性が合うと考えている。
マルクス主義=左派
という固定観念のような図式があるようだが根拠は何なのか。
地方の伝統産業、農業、漁業を守るならば資本を中央から政策的に分散、分配しなければならない。独占資本とは逆の流れだ。資本効率を過剰に求めるならば地方は過疎化するのは当たり前。
新しい資本主義ということばだけは聞こえるが、内容はよくわからない。
これからは独占、寡占資本は崩壊するだろう。
独占資本状態では庶民の購買力が低下してしまうからカネ、モノの流動性も悪くなる。国内実生産は減少するから輸入依存になり為替に怯える。従って経済は沈滞して先進国の流動性の罠に陥り抜けることができない。
第三次産業人口は80%を超え、一二次産業は廃れる。
放棄された農地や工場はそう簡単には再生できないし、熟練の農業者や工人は育成に数十年かかる。
かくして先進国とされた第三次産業主体国は滅亡の運命に至る。
それから脱出したいならば集中しすぎた資本を分散することを考えよ。
分散資本主義は中国の特色社会主義と共通点をもつかもしれない。
日本が再生するならば本当の地方保守派が分散資本主義に戻る政策を推し進める必要がある。
マルクス主義が地方の保守主義とウマが合うなんて言うと目を丸くされるだろうけど、読者の方には一考して頂きたい。経済学はベクトル(方向と大きさ)解析だ。

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